所属するクラブの屋敷にディトラスがおとずれたのは、友人のビオンに呼びだされたからだった。
見知った顔のメンバーが何人かいたのであいさつをしたものの、友人はまだ来ていないようだ。
あいたソファに腰をおろして女中にコーヒーの用意を頼むと、シガーに火をつけることもなく新聞を手にとる。
とはいえ新聞は自邸で毎朝何紙も読んでいるので、わざわざここに来てまでそうする必要もなく、政治面にやった目は文字の上をすべるばかりだ。
そもそも今日は朝食のあとヴァネッサのアトリエへ行くというアネイシアに同行しようと思っていたのである。
彼女の体調はあいかわらずだったが、先日の見舞いから二人の心理的な距離はずいぶん近づいたように感じていた。
アネイシアのしぐさに無意識に目をやっているのを自覚したり、視線に気づいた彼女が気恥ずかしそうにするのを好ましく思ったり、彼女のその日の予定が気になって積極的に話しかけるうち、気詰まりだった食事が楽しみになっている。
アネイシア自身の好きなものや趣味を知りたいと思うようになったのも、以前にはなかった心境の変化だ。
そういえばヴァネッサの絵の進行具合はどんなものだろうかと気になり、一度様子をみにいこうと思いたった。
単純にモデルをするアネイシアを見たいという興味も、思いつきの半分を占めている。
しかし、残念なことにディトラスが提案を本人に伝えるまえに、友人から呼びだされてしまったのだった。
卓上のコーヒーカップがからになるころ、ようやくビオンは現れた。
すぐにディトラスをみつけると手をあげてあいさつし、遠慮なく隣へ腰をおろす。
寄宿学校の同級生だったこの男はひょうきんといってもいい軽快さをもった明るい性格で、ディトラスとは卒業後も親しくつきあっている。
「久しぶりだな。しばらく出征していたんだろう」
「ああ、ひと月ほど隣国国境の前線で指揮をとっていた。戻ってからも後処理が山積みだ」
「あそこは綿の一大産地だから、値が高騰してこっちも大変だよ。それにしても、持てる者の義務とはいえニケラツィニ侯爵は大事な跡取り息子が戦争へいくのをよく許したもんだ」
「父にそんな高尚な志があるわけじゃない。ただ自分の事業に忙しくてこちらに関心が向かないだけだ。それに前線といっても、俺は最後方の安全地帯で作戦を指揮していただけだからな。――万が一があったとしても、弟がいれば問題ない」
「ロウガーニー家はそれで安泰としても、結婚したばかりの夫人を寡婦にするのは気の毒じゃないか」
友人の大げさな言いように、ディトラスはひらきかけた口をとじた。
戦線から帰還した彼を出迎えたアネイシアがひどく安堵した表情をうかべていたのを、いまになって思いだす。
仰々しい祝賀もなく、ただ日常そのままに屋敷を守りながら夫を待っていた彼女の配慮と忍耐にようやく気づいて、ディトラスは冷静でいられなくなった。
新婚ひと月足らずで未亡人となっていたとしたら、彼女は即座に横暴なハイオーニア伯爵のもとに送り返されたか、あるいは弟と再婚していたかもしれない。
ディトラスにとってそれはどちらも容認できる選択ではなかった。
彼の気もそぞろな様子に驚いたのはビオンだ。
父親の決めた結婚相手に爪の先ほどの興味も示さなかったディトラスがみせた意外な反応は、ごく軽い冗談のつもりで口にしたビオンを動揺させる以上に、これから話すつもりだったことをためらわせるものだった。
「――なんだ、あれだけ気のないふりをしておきながら、いまさら火がついたっていうのか? まあ、夫人との仲が順調ならそれに越したことはない。関係が悪化しているならおまえも知っておいたほうがいいと思ったんだが、余計な親切だったかもな」
「なんの話だ」
いぶかしげに言ったディトラスに対して、ビオンはばつの悪い顔をみせる。
「……あァ、なんというか、噂だよ。若く美しい婦人はどうしても目立つ。あくびひとつしただけで、大げさに流言の種にされてしまうものだ」
「つまり、話半分に聞けと?」
友人のもってまわった言いようにはあきらかに含意があり、ディトラスの不審をさそう。
「おれも又聞きだからな。ルマーシ子爵を知っているか? 彼の屋敷でおまえの奥方をみかけたと知人が言っていたんだ」
「ああ、子爵とは面識がある。俺が援助する芸術家たちの作品をよく買ってくれるし、サロンでひんぱんに展示会を催している。彼のところによく作品を出す画家とアネイシアは知り合いだから、なにもおかしくはない」
「もちろんそれなら問題はない。だが知人が子爵邸にいたのは茶会に招待されたからで、その日はほかになんの催しもなかった。奥方は茶会の招待客ではなく、人目をさけて家の奥へ案内されていった。知人がそれを目撃したのは本当に偶然らしい。結局、子爵からも夫人からも彼女の紹介はなく、来客などいないかのようだったと」
ビオンは給仕されたコーヒーに口をつけた。
「話はここで終わらないんだ。知人は急に体調をくずして、二時間もしないうちに帰ることにした。外の空気を吸いたくなり馬車を待ちがてら玄関を出たら、建物の陰に目立たないように馬車がとめられていて、勝手口から奥方が現れた。すぐあとから男が追いかけてきて彼女の手をひき、ただならぬ様子だったらしい。男と別れたあと、奥方はそのまま馬車に乗りこんで走り去ってしまったんだと」
ディトラスはからになった自分のカップに目をおとした。
普段のアネイシアからは想像できない大胆な行動の数々に、理解が追いつかなかった。
しかし、見間違いを疑うには彼女は目立ちすぎる。
印象的な容貌は良くも悪くも人の記憶に残りやすい。
それに、友人はらちもない軽口はよくたたくが、なんの実もない噂話を不用意に広めてディトラスを惑わせるような軽薄なたちではなかった。
たしかな根拠があって、それでも迷ったすえこうして知らせてくれたのだろう。
最初の動揺がおさまったあと、ディトラスが考えたのはかねてから疑っていたアネイシアの想い人の存在だった。
結婚以前から彼女の心をとらえているかもしれない見知らぬ相手をおぼろげには想像していたが、にわかにそれが実体をもって現れたのを焦燥ととも実感した。
そう、ディトラスはもはやその点について平静を保てなくなっていたのである。
彼女との距離がようやくゆっくりと近づいていくのを感じていて、彼女もそう思ってくれているという手ごたえもあった。
アネイシアを力づくで縛りつけたいとは微塵も思わないが、干渉してくる影に対して見て見ぬふりができる段階はとうに過ぎていた。
「相手の男は何者だったんだ」
ディトラスはようやく重く口をひらいた。
「それがわかっていれば最初に教えたさ。三十にならないくらいの年で使用人ではないらしい。富裕階級か下級貴族の子息といったふぜいだそうだ。黄味がかった金髪で目は白銅色か薄水色」
ビオンの言葉のまま人物像を組みたててみるが、知人に心あたりはいない。
ルマーシ子爵の知り合いだろうか。
それとも彼は場所を提供しているだけなのか。
あるいはハイオーニア伯爵の関係者ということもあり得た。
アネイシアが父親からロウガーニー家のなんらかの情報を渡すよう強要されているとすれば、仲介者を使って実家とやりとりをしてもおかしくない。
彼女はすでにギオス領の運営に深く関わっているし、ニケラツィニ侯爵家について書かれた書物にも熱心に目を通している。
ディトラスはあらゆる可能性を狭めないよう意識的に視野を広げなければならなかった。
そうしなければ、ひどく狭量な嫉意をさらけだしそうだったからだ。
アネイシアの真意はどこにあるのだろうか。
素知らぬふりでディトラスを謀っていたとは思いたくない。
ときおりみせてくれた素顔と真摯な言葉が嘘ではないと信じたかった。
しかし、彼女が実際になにを考えていたのか、本心はどこにあったのか、確信がもてるほどのことはなにも知らないのだと気づかされて、ディトラスは眉間に深くしわを刻んだ。
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