美しい貴婦人と隠された秘密

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***** 後日談 - 03 END

公開日時: 2021年9月30日(木) 17:33
文字数:4,685

 ネリダが女中とともにアネイシアの部屋から出てきたのは、だいぶ日が傾いたころだった。

 彼女はやりきった達成感をすがすがしい表情にただよわせ、娯楽室で本を読んでいたゼノンのもとへやってきた。

 「アネイシアさんって綺麗なリボンをたっくさん持っているの。シルクやリネンや、織物のリボンもあったわ。金糸をつかったのをもらったらさすがに図々しいから、それは遠慮したんだけどね。わたしの持っている衣装やアクセサリーと合わせて選んでみたから、アネイシアさんがなんて言ってくれるか楽しみだわ」

 静かな午後が終わりを告げたことを悟ったゼノンは、おとなしく本を閉じた。

 「ネリダはずいぶんアネイシアを気にいったんだな」

 「だって、アネイシアさんってすっごく綺麗で優しくてなんでも知ってて、それに仕草全部が美しいの! 話す声がおちついてて心地いいし、ドレスは大人っぽくて素敵だし、とにかく理想の貴婦人だわ。わたしも社交界デビューするまでに絶対、ぜったい、あの人みたいになりたい!」

 惜しみない称賛のすべてに内心大きくうなずきながらも、ゼノンは十三歳の妹があと四年で彼女のようになれるとはとうてい思えなかった。

 しかし目標をみつけて努力するのはもちろんいいことだし、可能ならぜひともアネイシアを超える貴婦人になってもらいたいものである。

 「それに」とネリダはさらに続けた。

 「ディトラス兄上ととても仲がよさそうだもの。結婚は貴族の義務だなんてみんな言うけど、愛しあえるならそれが一番に決まっているじゃない? だからディトラス兄上とアネイシアさんは理想の夫婦像でもあるの」

 「ちょっと待ってくれ」

 ゼノンは思わず少女の話をさえぎった。

 昨日から二人を見ている彼にはとても同意できない意見がとびだしてきたからだ。

 「今朝の数時間いただけで、そう思ったのか? たしかに結婚式当日よりは打ち解けたかもしれないが……というより、式のときが最悪だったからな。それでも、あの二人がなごやかに話をしているところなんて一度もみかけなかったぞ」

 「ゼノン兄上って鈍いのね」

 ネリダがあきれたように兄を見た。

 そんな表情をすると妹と長兄はよく似ている。

 髪と目の色彩も近いし、なにかと気質に共通点が多い。

 「朝、二人とも寝室からなかなか出てこなかったし、わたしがいるのに気づかなかったディトラス兄上が、アネイシアさんのことアンって愛称で呼んだのを聞いちゃったもの。いつもの不愛想な兄上じゃないみたいに優しい顔をしていたわ」

 「それは本当に兄上か?」

 ネリダの話を聞いてもなお、いやむしろまったく別人のことを言っているのではと思ってしまうほど、ゼノンは信じられなかった。

 だいたいディトラスは独身の時分からそこそこ浮名を流していたが、噂の相手といるところを弟に目撃されようと悪びれもせず、本当につきあっているのかと疑いたくなるほど淡々としていたのだ。

 いかにも懐疑的な兄の反応に、ネリダは憤慨して「いいわ!」と声をあげた。

 「これから証明してあげる」

 腰に手をあてて仁王立ちをする妹はおかしくてかわいいが、「どうやって?」と聞くと、おもむろに彼の口を片手でふさぎ、もう一方の手の人差し指を自分の口におしあてる。

 「シ―――ッ……」

 シー、と言ったきり時がとまったように動かなくなったネリダを見て、新手の遊びかとしばらく黙ってつきあったゼノンだったが、いい加減面倒になって口をふさぐ小さな手をどけようとした瞬間、彼女ががばっと勢いよく身をおこした。

 「こっちよ!」

 兄の手をつかんで駆けだしたネリダは、一階へおりると裏手へまわりサンルームから外へ出る。

 生け垣の陰におしやられて使用人の怪訝な視線にさらされていると、玄関のほうがあわただしくなった。

 そっとのぞいてみれば、馬車からおりたディトラスとアネイシアを執事が出迎えたところだった。

 「おまえ、兄上たちが帰ってきたのがなんでわかったんだ」

 あまりにもぴったりのタイミングだったのでゼノンが驚いて尋ねると、少女は平然と答える。

 「だって馬車の音がしたでしょう? それに、なんとなく気配ってわかるものだし」

 ゼノンは口達者でさわがしいだけだと思っていた妹が本当は大物かもしれないと、考えをあらためた。

 彼には馬車の音など聞こえなかったし、人の気配を気にしたこともない。

 執事に荷物を預けた二人が屋敷へ入らずそのまま庭のほうへ歩いてくるのを見て、ネリダは「やっぱり」と嬉しそうにほくそ笑む。

 「家にはわたしたちがいるのを知っているんだもの、二人きりになるなら庭しかないと思ったのよね」

 それを狙ってわざわざ裏側からまわって隠れたのかとゼノンはやっと気づき、妹の勘の良さに再び考えをあらためて畏敬という評価を追加した。

 「まさか、このまま盗み聞きするつもりか?」

 「さっき証明するって言ったでしょう」

 および腰の兄をひっぱって植えこみのあいだを移動していくネリダは、昨日彼がアネイシアと再会したガーデンテーブルのそばにある大木の後ろで腰をおとす。

 こんなところを彼女にみつかったらどんな顔をされるかと、ゼノンが情けなさに頭をかきむしりたくなっているうちに、ゆっくり散策していた二人の声が聞こえる距離まで近づいてきた。

 「……本当に、あれが人気の構図になっているとは思いませんでした」

 「ヴァネッサもきみのおかげで人気画家の仲間入りだな。あれほど注文が殺到しているとは俺も知らなかった」

 「私はいまも複雑な気持ちです。短剣を持った女性なんて、不快に思う方もいるでしょう。ディトラス様が悪しざまに言われるのではないかと心配なのです」

 「あれを一番気に入っているのは俺だ。だから書斎に置いている。きみがあの短剣をずっと持っていてくれたことがうれしいんだ」

 話題がディトラスの書斎にあった絵画だというのは、ゼノンにもわかった。

 ヴァネッサ・ロッシとは彼も交流があり親しくつきあっている。

 今日は彼女のアトリエへ訪問していたらしい。

 近ごろ女性たちのあいだで一風変わった肖像画を描いてもらうのが流行しているのは、ゼノンも知るところだった。

 たおやかな貴婦人が剣や銃といった男性を象徴するモチーフの小物を持った構図が、倒錯的で受けているらしい。

 流行の発端が、あのアネイシアの絵だったとは。

 はかなげな印象のアネイシアと鋭い光を放つ鋼の短剣の組みあわせは、たしかにアンバランスでいながら目をひかずにはおかない魅力をぞんぶんに発揮していたが、あれはアネイシアというモデルとヴァネッサの画力があってこそじゃないかとゼノンは密かに思った。

 「あの絵は、ロッシ夫人に依頼したものだったのね」と妹が隣でつぶやく。

 彼女もすでに兄の書斎で目にしていたようだ。

 兄は自分の書斎にはあまり仕事に関係のない人間を入れたがらないので、ゼノンと同じく彼女も勝手に盗み見たのかもしれない。

 ガーデンテーブルまで歩いてきた二人は椅子に座って、まだ日の落ちきらない赤みを帯びた庭園の、貴重ないっときをながめて楽しんでいる。

 しかしディトラスはすぐに視線をアネイシアへ戻して、彼女の横顔を見つめた。

 兄はときどき不躾なほどまっすぐ人を見ることがある。

 それは彼が相手に好意をもっているときの癖なのだとゼノンはよく知っていた。

 アネイシアが視線に気づくと、ディトラスは彼女のこめかみにキスをした。

 「今朝は父上と鉢合わせするはめになってすまなかった。せっかちな人だから、知らせより先に自分が到着していることがよくあるんだ。次からはペイトンに言って、顔を合わせないですむようにしておく」

 「お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫です。過ぎたことですし、私は侯爵がお怒りになって当然のことをしたのだと、いまも思っているのです」

 「俺が父を許せないんだ。きみは聴覚を奪われるほどの暴行をうけたんだぞ。それに、あのとき俺たちを襲った賊の依頼主は、父に手ひどいやり口でつぶされた商売敵だと後からわかった。きみに非はまったくないんだ」

 アネイシアは首をふって苦しげに息をはく。

 「ディトラス様がおっしゃるように思えるよう、私も努力します。ですからあなたも、どうか侯爵と和解なさってください。行動はどうあれ、あの方は間違いなくあなたを愛していらっしゃるのですから」

 ゼノンがためらってやめたアネイシアの手を、ディトラスは強くにぎってひきよせた。

 「アン、きみは優しすぎる。自己犠牲が正しいことだとは思わないでくれ。俺はもう二度ときみを手離す気はないし、そのためなら父にも容赦はしない。もちろん、ハイオーニア伯爵にも」

 「私は、きっとディトラス様が思うよりわがままな人間です。あなたが私を必要だと言ってくださっても、あなたが幸せになれるなら、禁忌の魔術に心臓をささげることも厭わないでしょうから」

 重い愛の言葉は、しかしアネイシアが最後にわずかに口もとを緩めたので、冗談にまぎれさせたのだとディトラスにもわかったようだった。

 小さく苦笑を漏らした表情からは、先ほどの険しさは薄らいでいた。

 「俺たちは似たもの夫婦ということか」

 「では、明日のお出かけにはニケラツィニ侯爵もお誘いしましょうね」

 「……譲らないな、きみも」

 ディトラスは声もなく笑うアネイシアの手をひいて立ちあがらせると、再びゆっくりとした歩調で歩きだした。

 あたりはもう青みを増して薄暗い。

 ゼノンとネリダはすっかり彼らの会話に聞き入ってしまっていたが、話の内容は夫婦にしかわからない事情があるらしく、弟妹たちには理解がおよばなかった。

 「ディトラス兄上とアネイシアさんって、以前から知り合いだったのかしら」

 興味津々の妹に比べて、ゼノンはなんともいえない脱力感を覚えて手先をふった。

 「さあな。とにかく、これで気がすんだか? 二人の仲がいいのはよくわかったから、ちょっとひとりにしてくれないか」

 兄のそっけない態度に、ネリダは「もう」と不満げな声を漏らして腕を組んだが、彼の顔をじっと凝視したかと思うと、あっさり腰をあげて屋敷へ戻っていった。

 彼女の勘が鋭いことはよくわかったので、なにか気づいたのかもしれない。

 地べたに完全に座りこんだゼノンは木の幹にもたれて、短い恋が終わるのを感じていた。

 会話の内容は理解できなくても、兄とアネイシアが想い合っているのは疑いようがない。

 それに加えて決定的な一打となったのは、ふと思いだした昨夜の兄の言葉だった。

 アネイシアが自分と再婚してもいいのかと尋ねたゼノンに、ディトラスは「それが最良の選択なら」と答えたのだった。

 先ほどの二人の様子からもわかるほど、兄は深くアネイシアを愛している。

 それでも彼女の幸せだけを願った彼の言葉はあまりに重かった。

 軽々しく多少の下心すらもって質問したゼノンに、そんなことを言わせてしまったいたたまれなさが一気に襲ってくる。

 兄への完全な敗北感も青年を滅多打ちにしていた。

 「ああ、兄上にばれる前に失恋してよかった……」

 ゼノンはつぶやいて、がっくりと肩をおとした。

 浮かれていた自分が異様に恥ずかしい。

 兄が彼の恋情に気づいていたら、昨夜の深い信頼の言葉はなかっただろう。

 ――いや、もしすべてを承知していたら?

 ゼノンはぎくりと背をひきつらせた。

 兄と妹はよく似ているのだ。

 妹が先ほどゼノンの異変を察したのなら、兄が絶対に気づいていないとはいいきれなかった。

 「まさか……」

 ディトラスが弟の心の内を知っていて、あえてあんな頼みごとをしたのだとしたら。

 ゼノンはもう一度痛烈な一撃を加えられたような衝撃をうけて、この先ずっと兄にはかなわないだろうと悟ったのだった。


END

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