食事を終えて自室のソファへだらしなく身を沈めたゼノンは、ずっとふわふわとおちつかない心地を味わっている。
食事中のアネイシアは庭にいたときと比べてずいぶん会話にひかえめで、彼はもっぱら兄とばかり話すはめになった。
必死に彼女へ水を向けてみても先ほどのように饒舌ではなかったし、すぐに話をディトラスへ渡してしまう。
兄もそう積極的にアネイシアと会話を交わすわけではなく、淡白な態度にみえた。
結婚式の日を思えば比較するまでもないほど穏便な雰囲気ではあったが、それにしても新婚の夫人に対して冷淡すぎてはいないだろうか。
彼女との仲がいまだにうまくいっていないのかもしれない。
もしアネイシアがずっと苦悩しているのだとしたら。
ゼノンはもやもやとした気分になって、隣にあったクッションを力いっぱい抱きしめる。
それにしても、食堂に現れたアネイシアの装いはすばらしかった。
晩餐用の真紅のドレスは胸もとが大きくひらいていて、白い肌に目が吸いよせられる一方後ろめたさで視線をひきはがすという、煩悩と理性の攻防をくりひろげつつも、彼女の姿をぞんぶんに堪能したのだった。
もう明日までアネイシアには会えないだろうか。
ゼノンはクッションをかかえたまま十分ばかり右へ左へと転がったが、ついに勢いよく立ちあがると部屋を出た。
彼女にすすめられた本を持ってたずねていけば不自然にならないのでは、と作戦をたてて先に蔵書室へ向かう途中、ディトラスの書斎のドアが少しひらいているのに気づいた。
扉のたてつけが悪くなっているらしい。
執事に伝えておかなければと思いながら、閉じるためにドアノブに手をかけたゼノンにはなんの他意もなかったが、隙間からみえた書斎の壁の絵が、彼に見て見ぬふりをさせておかなかった。
考える前にドアをあけてしまった彼の目に、大きな額の人物画がとびこんでくる。
書斎に飾るには大きすぎるし、人物画よりは風景画でも飾るほうが一般的だろう。
なによりそのモデルは、ほかならぬアネイシアだったのである。
あの神秘的な目がまっすぐゼノンを見つめている。
まるで彼の心のなかまで見透かすようだった。
手に持った短剣という珍しいモチーフが、彼の不埒な恋情を牽制する隠喩のように思えて、彼は気まずく目をそらす。
なぜアネイシアの結婚相手が兄だったのだろう。
ニケラツィニ侯爵の嫡男である彼には、もっとふさわしい令嬢がいたはずだ。
父が自分を彼女の相手に選んでくれていれば――。
「こんなところでなにをしているんだ」
低い声にはっと顔をあげると、ディトラスが戸口に立っていた。
あからさまに不審者を見る目つきである。
主のいない書斎へ勝手に入るという不躾な真似をしたゼノンに完全に非があるため言い訳はできない。
素直に謝罪すると、兄はひとつため息をつくだけですませてくれた。
「アネイシアの絵が見えたから気になって」
弁明するようにゼノンが見あげた絵画に、ディトラスもちらりと目をやった。
「知りあいの画家が描いてくれたものだ」
簡潔な答えに加えて、なぜ書斎に飾っているのかを説明する気はないらしい。
「ええと、彼女とはどうなの?」
ゼノンが磨きあげられた机のふちにもたれて、いかにも世間話でもするというように言った。
「どう、とは?」
絵から目を離して弟をじっと見るディトラスにやましい気持ちがばれてしまっているのではないかと、青年は意味もなく手を組みなおす。
「こっちの屋敷で二人きりの生活だろう? その、結婚も突然だったし、お互いのことをよく知らないからやりにくいんじゃないかと」
しどろもどろになりながらも私的な領域に踏みこむ質問をしたゼノンを見るディトラスは、案の定あきれた顔で言った。
「結婚とはそういうものだろう。あの父上のことだ、そのうちおまえにも突拍子もない縁談をもちこんでくるさ」
兄弟の夫婦仲をさぐるような言動はさすがに気まずく、兄も不快とまではいわなくとも居心地悪く思ったらしい。
だいたい、彼にどんな答を期待していたというのか。
ほとんど目も合わせないほど関係は冷えきっていると言われたところで、ゼノンがアネイシアを兄から奪うことなどできはしない。
いや、密かに彼女の気をひこうと涙ぐましい努力をしたかもしれなかった。
しかしディトラスの言葉はあいかわらず無味乾燥で、いったい二人の日ごろの様子がどんなものなのか想像もできない。
そわそわとおちつかないゼノンをしばらく見ていたディトラスは、棚からグラスを二つとボトルをとりだし、弟を応接用のソファに座らせると、卓をはさんだ正面に自分も腰をおろした。
上着をぬいで無造作に背もたれへかけ、二つのグラスに酒をつぐ。
「いい機会だから、ゼノンに話しておきたい」と言って、ディトラスはグラスをひとくち飲んだ。
手をつける気になれず、蒸留酒のとろりとした黄金色をみつめるだけだった青年は「アネイシアのことだ」という言にいっそう動揺した。
まさか、本当に兄は自分のよこしまな想いに気づいたのだろうか。
「いまの軍務から身をひけばそう危険な目にもあわないが、もし俺に万一のことがあったときは、おまえに彼女の保護を頼みたい」
「そ、それは、どういう……」
思いがけない話だったため、ゼノンは理解が追いつかなかった。
「アネイシアの父親ハイオーニア伯爵の評判は、おまえも知っているだろう。なにかあっても彼女が帰れる場所じゃない。事情があって父上にも任せられない。だから、俺が動けないときはアネイシアを守ってほしい」
「事情ってなんだ? 彼女は父上が選んで連れてきた人だろう。最低限の保護はしてくれると思うけど」
「父上はアネイシアの個人資産に目をつけている。いまは誰も手をだせないよう俺が管理しているが、現状彼女の味方をしてやれるのが俺しかいない。おまえにも彼女の味方になってもらえれば、ありがたいと思っている」
「例えば、兄上が急死したとして、おれがアネイシアの夫になってもいいと?」
「……それが、最良の選択なら」
わずかに言いよどんだ気がしたがそれは本当に一瞬で、答えたディトラスは変わらず事務的だった。
急に深刻な話をうちあけられてゼノンは驚いたが、兄の冷静な態度をみていれば、夫の義務として妻のことを頼んだだけのつもりだったのかもしれない。
もしくは父のアネイシアへの干渉が強すぎて、それに反発するためにゼノンを巻きこんだ可能性もある。
どんな思惑があったとしても、仮定とはいえあっさり妻と弟の再婚を認める発言をした兄は、やはりアネイシアへの特別な情愛をもっているわけではないと思わざるを得なかった。
書斎を辞した後も、ゼノンは自分のほうが彼女を幸せにできるのではないかという思いにとらわれて、蔵書室に本をとりにいくことも忘れ、自室で悶々と夜をすごした。
翌日ゼノンが目を覚ますと日はとっくに高くなっており、女中が放蕩者を追いたてる勢いでカーテンをあけにくる。
「皆様とっくに食事をお済ませですよ」
「……なんだか外がさわがしいな」
窓から聞こえるかん高い声に顔をしかめると、「お嬢様がお戻りになりました」と女中が告げた。
「ネリダが?」
妹はずっと領地の本邸に住んでいる。
示しあわせたわけでもないのに三兄弟がひとところに集まるなど、珍しいこともあるものだ。
昨夜から結局ほとんど眠れないまま、ゼノンは寝ぼけまなこで服を整え部屋を出た。
ホールへおりたところで、タイミングよくネリダが外から戻ってくる。
「あっ、ゼノン兄上! やっと起きたの」
「おまえの大声で起こされたんだ。まさかひとりで来たのか」
「父上も一緒よ。でもすぐお出かけになったわ。ホテルに泊まるのですって。父上ったら、ディトラス兄上に追いだされちゃったのよ」
少女はおかしそうに笑い声をあげた。
どういうことだとゼノンが問いかえすまえに、アネイシアも外から帰ってきた。
「ごきげんよう、ゼノン。よく眠れましたか」
「ええ、おかげさまで」
アネイシアの朝のドレス姿を堪能しながら、青年は眠気を吹きとばして最大級のさわやかな笑顔をつくった。
「ゼノン兄上! わたしアネイシアさんに綺麗な押し花のつくりかたを教えてもらったの。乾燥させるときが大事なのよ。午後からは一緒にお花を摘みにいく約束をしたんだから」
ネリダが興奮して顔を上気させる。
「ね?」と同意を求めてふりかえる彼女に、アネイシアは微笑んでうなずいた。
兄の結婚式の日、あれほど不安そうにしていた妹は、この朝の数時間ですっかり義姉になついてしまったらしい。
「ところで兄上はどうしたんだ」
皆と一緒に庭へ出ていたわけでもないようだと尋ねるゼノンに、ネリダはしわになったスカートを気にしながら答えた。
「お仕事があるから書斎にこもっているの。でも、そろそろ終わるころだからってわたしたちも戻ってきて……あ、ほら」
少女が目を向けた先の大階段から、話題の本人がおりてくるところだった。
「もうお仕事は終わったの?」
「ああ。それにしても、おまえは年々声が大きくなるな。三階まで響いてきた」
「もう! ディトラス兄上までおんなじことを言うんだから。いじわるばかり言うなら、午後の散策には兄上は連れていってあげない」
「散策? いや、昼食の後アネイシアと出かける予定ができた。暇なら久しぶりにゼノンと買い物にでも行ってきたらどうだ」
「えッ!」とネリダとゼノンが同時に声をあげた。
アネイシアと出かける約束をしていたネリダはともかくゼノンの大げさな反応に、ディトラスはなんだというように片眉をあげた。
まさかアネイシアと半日も会えないのにショックをうけたとは言えず、青年は「ネリダの買い物は長いんだ」とそれらしい文句をひねりだす――それも事実には違いない。
「わたしだって、お買い物はアネイシアさんと一緒に行きたいわ! 新しい靴を選ぶのを手伝ってほしいし、女性のあいだで流行っているコーヒー・ショップがあるのですって。こっちにいるうちに絶対に入ってみたいんだから!」
あいかわらず一度しゃべり始めたらとまらない妹のかしましさにおされて、兄二人はすでに閉口している。
二人とは年の離れた末っ子で娘ひとりのせいか、兄たちは基本的に妹には甘いのだ。
「わかった、明日はネリダの買い物につきあおう。とにかく今日は、おとなしくゼノンと遊んでいてくれ」
ディトラスの言葉にも頬をふくらませてむくれたままのネリダに、アネイシアが声をかけた。
「約束したのにごめんなさい。明日は皆さんとお出かけしましょう。私の部屋の鏡台のひきだしに、いろいろなリボンをしまった箱があるのです。ひとつさしあげますから、お好きな色を選んでくださいね。帰ってきたら、似合うドレスや小物と合わせてみましょう」
すばらしい提案を聞いたネリダは、あっという間に機嫌をなおした。
「本当にアネイシアさんのリボンをもらえるの? わたし真剣に選ぶわ! だから早く帰ってきてね」
妹をご機嫌にしたばかりかお守り役からも解放されそうで、ゼノンはアネイシアに心から感謝したのだった。
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