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こつん、こつんと、戸を叩く音。
目が、開いた。
これは、夢だ。
何故か、そう分かった。
躰はきっと、動かない。別に、動かすつもりもなかったけれど。
懐かしい、感覚がする。春の月夜の、あの感覚。心満たす、切なくも柔らかな心細さ。
違うのは、私の躰が大きいことと、天井が白い壁紙のままであること。
あの夜ではない。
鍵を掛けていたはずのドアが軋んで、ゆっくり開く音がする。
あの時のように、首だけを僅かに動かして、そちらを見る。
どこまでも暗い闇を背に、柔らかな灯が。そして紅い着物と、狐のお面が見えた。
「迎えに来てくださったの」
ぬるい風と衣擦れの音を引き連れて、女はするすると部屋へと上がり込む。
暖かな紙提灯を、脇に置いて。
眠る子どもを優しく眺める母のように女は傍らに立って、私の顔をのぞき込んだ。
あの時に見た小さな女の子は、供だっていなかった。
いや、今見ているこの女が、あの時の女の子なのかもしれない。
どちらでも、同じことだ。
「私はもうこんな歳だけれど、まだ間に合うかしら。あなたの後ろについてもよいかしら」
私は、するりと身を起こした。
躰が動いたということを、不思議に思う気持ちも忘れて。
そして女は無言のままくるりと振り返り、そっと何かを差し出した。
紅い着物と、狐のお面。
ああ……そうなの。許してくれるの。あの時、あなたを拒んだ私のことを。
ええ……もちろん、一緒に行くわ。
少女趣味のベッドを下りて。パジャマの釦を外して。身に纏う全てを脱ぎ捨てて。
私は、白い襦袢に腕を通す。
蜂蜜を垂らしたような胸をくるむ、紅の絹。艶やかなほど黒い糸菊模様に、黒地の帯。金の帯留め、白い足袋。
顔はいらない、名前もいらない。
狐の面があればいい。
着物に身を包んだ私に、女は確認するように頷いた。
私は、応じるように目を閉じて顔を上げる。
そして女はそっと私の顔に面を添え、紙提灯の手提げ棒を握らせた。
触れ合った指は温かく柔らかく、そして優しかった。
私は、立ち上がる。
握った紙提灯に、ぽうっと小さく灯が燈る。あの夜、私の心に不安を掻き立てた豆電球のような、温かくも心細い灯りが。
何をすればいいかは、もうわかっている。
私たちは頷き合って、するすると部屋を出た。
部屋の外は暗く、どこまでも深い。あの夜のように。
ひしめき合った住宅街も、灰色の塔の群れも、どこにもない。
どこまでも続く、優しい暗闇だけ。
私はそれで、構わない。
私の足跡の後ろに、菜の花が咲く。生温い春風が、妖しい夜のにおいを運んでくる。
まずはあの下宿へ。
そして次の子へ、その次の子へ。
提灯を提げて、暗い道を巡っていこう。
そうだ。この列に加わることが、ずっと私の望みだった。
さあ、おいで。子供たち。
怖いのなら、まだ来なくてもいいけれど。
来たくなったら、呼びかけなさい。
いくつになっても、迎えに来るわ。
おばけと一緒に、暗い春の月夜を行きましょう……。
~終わり
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