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結局、私は次の日、何事もなかったかのように目を覚ました。
全てが夢だったと気づいて、訪れた朝に長く長く息を吐いた。
……あの時から、幾星霜を経たのだろう。
あの当時住んでいた下宿は、開発の波に飲み込まれるように消えて、もはや影も形もない。
無限に広がるように思えた菜の花畑は、今やひしめき合う住宅街。
ちっぽけな商店が寄り集まっていただけだった駅前には今、無数のビルが所狭しと立ち並ぶ。
胸に心地よかった雨の香りも、濁った下水の臭いの強さを増すばかり。
あの当時を思い出させるものはもう何も残っていない。
両親は首都圏の外れにちっぽけな家を中古で買って、未だ終わらぬローンの支払いに追われている。
三十路を越えた私も、あの当時の面影の一切を残さなかった。
今の私は、油の浮いた水たまりをヒールで踏み越え、疲れてしわの寄った目を俯かせて、暗い色の隙間を這いまわる姑息な虫けら。
狡く賢く、浅薄な情に弄ばれる、大人の女。
漂うような夜の闇。その中にあっても。
……寂しい? 怖い? 寝なきゃいけない?
いいや。そんな瑞々しい感情は全て、遠く妖しい春の夜に、あの下宿に置いてきた。
誰もいなくて、構わない。
恐怖は、感じようが感じまいが、どうでもいい。
そして今、私はいつでも眠れる。寝ても寝なくても、干からびた目の色に何も変わりはないけれど。
だがそんな私でも、遠いあの日、あの夢のことは思い出す。
1Kの小さなアパートの、ナチュラル模様の木のベッドの上で、薄桃色の掛け布団にくるまって。
見つめるのは、白い壁紙の天井と、シャンデリアのように枝分かれしたシーリングライトの薄明り。
少しばかり少女趣味の過ぎる、三十路女の独り暮らし。
帰るたび、部屋の中に漂うほの甘さ。むせるほど香る、女のにおい……私のにおい。
酒も煙草も、男のにおいもしない。
母の香りも、父の香りも、もうはるか遠い記憶の向こう側。時折連絡は取るものの、もうほとんど会ってはいない。
全て必要ない。どうでもいい。
それなのに、誰かが自分を抱きしめると、胸の奥が僅かにうずく。
父と同じ煙草のにおいに、何かを思い出したりして。
私、煙草嫌いなのに。
わざと少し酒を入れて、わかっているのに流されたふりをして。
どうにでもなればよい気がして、しかし保身を忘れることもなく。
終わって別に後悔するわけでもないけれど、関係を続けようとも思わない。
ああ、くだらない……馬鹿な女。
自分の賢さにも愚かさにも、全て気付いているくせに。
母のように、浮気性の父にも尽くす馬鹿な女に徹することはできなかった。
父のように、奔放に振舞いながらも家庭を持つ絶妙な身勝手さも持たなかった。
だからか、私はこのちっぽけな部屋に、男を入れたことが一度もない。
情を交わした男たちの中で、私の家を知っている者は一人もいない。
……あれ? 思い返せば、女も入れたことないな。二、三人、関係を持ったはずなんだが。
いや、まて。私、友達も入れたことない。
そもそもそんなものが、いたことあったっけか?
郵便や宅配以外で、うちの戸を叩いた者は、一人もいないんじゃないか……?
(「なるほど……寂しいも怖いも、ないわけだわ」)
窓の外では、春風がひゅうひゅうと、音を立てている。
がたんがたんと、近場の家の雨戸が揺れる。
ああ、きっとこれだ。
吹き荒れるぬるい風と、どこまでも深い夜が、あの時の記憶を呼び覚ますのだ。
目を閉じれば浮かび上がる。
あの安下宿の天井と、台所仕事をする母の影。
そう。
なぜ、私はあの時……あの女についていかなかったのかと。
そればかりを、考えるのだ。
あの日の小さな女の子は、今や熟して腐り果てて。
毎日、胸のラインの浮かぶブラウスを着て、パソコンと煙草臭い男たちの間をうろうろして。
ああ、全く。
一体、私は……。
気怠い眠さが、ゆっくりと身を包み、腕や足が重くなっていく。
意識が、蕩ける。
闇の向こうへ。
そして私は、呼びかける……。
~つづく
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