菜の花香る月の夜に

白石小梅
白石小梅

2、

公開日時: 2020年10月4日(日) 20:00
文字数:2,120

 はっと、目を開いた。

 天井の木目が目に入る。

 怪獣みたいな模様。人の顔に見える模様。焦げ跡っぽい黒い模様。

 うすぼんやりとしか見えないから、今はまだ夜。台所の方に母の影と気配を感じる。

 いつも通り。

 だが、躰が動かない。力が、入らない。

 それを金縛りというのだと知るのはずっと後のことで、その当時の私はよくわかっていなかった。


(「……?」)


 目は動いたし息苦しくもなかったから、金縛りそのものに恐怖はなかった。そもそも、動く気はなかった。


(「めがさめちゃった。ねなきゃ。ねなきゃ。おばけきちゃう」)


 ただ、そういう強い不安があった。


 ちらりと台所の方を見れば、母はまだ何かしている。洗い物なのか、料理なのか。

 今にして思えば、そんな時間に台所作業をしていること自体、おかしい気もする。だが子どもである私には、そんなことはわからない。

 幼い私が思ったのは、母は呼べないということ。

 真夜中に起きていることがばれれば、母は怒るだろう。それこそ、おばけを呼ぶかもしれない。こんな悪い子は連れて行ってください、と、そう言うかもしれない。

 子どもとは愚かで浅はかで、そして情緒深く拠り所のないもの。平べったい思考は分け隔てなく、全ての可能性を捉えて離さない。そんなことさえ、考える。


 私は祈るように目を閉じた。だがすぐに、気付く。


(「どうしよう。ねむれない」)


 意識は、鋭いほどに冴えている。母の動く音がはっきりと意識できるほど。

 眠りは、訪れない。


 ということは。


 そう。どこまでも広がる思考で、幼子は気付いてしまう。


(「おばけが、やってくる。あたしを、むかえに」)


 そして私は何かの気配を感じた。

 僅かに動く首だけで、ちらりと振り返る。

 台所の曇り硝子の向こうに、ぽうっと灯が燈った。滲んで見えたのは、柔らかくて優しい火の色と、その後ろに続く紅い影。灯りは人魂のようにゆらゆらと浮かびながら、長い曇り硝子をゆっくりと横切っていく。


 胸を握りしめられるような恐怖を覚えたのは、その時だ。


(「あれが、おばけ」)


 今でも覚えている。

 そう。

 あれが、おばけ。


 下宿の曇り硝子の向こうを、灯りは音もなく歩んでくる。

 そのまま家を横切って立ち去ってくれることを必死に願ったが、それはまるで眠れずにいる自分の存在に気付いたように、玄関の前でぴたりと止まった。


 こつん、こつんと、丁寧なノックの音。そして、薄いドアの軋む音がゆっくりと響く。

 母は、そのすぐ横の台所にいる。おばけを追い払ってくれることを願ったが、彼女はまるで異常なことは何一つ起きていないかのように、ドアの方をちらりと見て会釈しただけだった。


 そして私は気付いた。

 母は、おばけのことを知っている。毎夜、おばけは見回りに来て、私のことを見に来ていたのだ。ちゃんと寝ているかを調べるために。

 誰も助けにはならないと気付き、私は大急ぎで目を閉じた。


(「だめ。だめ。ねてないと、つれていかれちゃう」)


 だが恐怖に取りつかれた子どもが、その恐怖の対象を前にして本当に目を閉じていることなど出来やしない。

 薄く開いた目で、私は見てしまった。

 黒々とした闇を背に、ドアの前に立ったものを。


 鮮やかな紅色に、黒い糸菊模様の着物。

 艶のあるおかっぱの黒髪。その下に、表情のない狐のお面。

 暖かな色の紙提灯を下げて歩む、出来すぎたほどに華麗な女の姿を。


 その後ろに禿のように同じ恰好をした、私と同じくらいの歳の女の子を連れていた。

 その子もまた提灯を下げて、小さな狐面を纏って、無言のまま女に付き従う。


 私は、瞬時に悟った。その女に捕まれば、私もあの子と同じようにその後ろに連なって歩かなければいけなくなるのだと。


 何も知らないはずの五歳の私が、一体どこでそのような心象を刷り込んだのかは、わからない。

 だが今でも、鮮やかに思い出すことが出来る。

 紅と黒の絡まる、狐面のおばけの姿。

 目を離すことの出来ない、麗しい恐怖。

 思わず目を奪われる、妖しい美しさ。


 女は無言のまま、丁寧に母にお辞儀を返すと、家の中に入ってきた。


(「こないで……こないで!」)


 震えるほどの恐怖に包まれて、私は目を閉じた。

 するすると鳴る衣擦れの気配が、近寄って来るのを感じる。

 そして二人分の足音が、私の布団の両脇で止まった。


(「……」)


 先ほどの女と少女は今、私の傍らに立っている。


 必死に目を閉じて、私は寝ているふりをし続けた。

 躍起になってぎゅっと目を閉じて、がたがたと震えている私を見れば、眠れていないことは明らかだったろう。

 恐怖は息を乱し、私はひいひいと呼吸を荒くしていた。

 それでもばれないようにと願いながら、私はがむしゃらに目を閉じ続ける。


 ……音がしない。

 何も音がしない。

 彼女たちは、どこにも行かない。

 いや、それともいなくなったのだろうか。

 夜の闇が朝になったら消えるように、彼女たちも諦めて掻き消えてくれたのだろうか。


 目を開けてみなければ、それはわからない。

 いやだ。こわい。

 みたくない。

 でも。

 ああ、でも……。


 私は、薄く目を開いた。


 提灯の柔らかな灯りの中で、目の穴すらない無表情な狐面が二つ、自分をのぞき込んでいた。

 優しく揺り起こす母の顔のように、すぐ目の前で。


(「あ……」)


 そして私の意識は、ふっと闇へと堕ちたのだった。




~つづく

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