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人生で最も恐ろしい夢を見たのは、五歳くらいのころだ。
そのころの私はちっぽけで何も知らない、女の子とすら言えないような幼子だった。
だがその時に見たあの夢を超える恐怖を、私はいまだに知らない。
怪獣が出るでもなく、父母に酷く怒られるわけでも、迷子で独りぼっちなわけでもない……しかし何より恐ろしかった夢。
三十路を越えた今でも時折、思い出す……鮮烈で、麗しい悪夢だった。
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小学校に上がるまで住んでいた、安普請の下宿。
首都圏の外れに、まだ土地開発の波の来る前のこと。辺り一面に咲き乱れる菜の花畑の真っ只中にあった、小さな木造の2DK。
ほのかに温い風が唸りをあげて、妖しげな香りの漂う季節。
「早く寝なさい」
幼い私に、母は何度もそう言い聞かせていた。
「ちゃんと寝ないとダメ。でないとお化けが来るよ」
そして彼女は眠るのが下手くそな私に、夜更かしした子供がお化けの世界に連れていかれる絵本の話をする。
あの絵本がどれだけの子供たちの心に恐怖を刻み込んだか、私は知らない。
だがきっと心に鮮烈に残るということは、それだけ名作であるということの証左でもあるのだろう。
あの夜の夢と同じように。
薄暗い和室に敷かれた柔らかな布団の中で、私は怯えながら母の手に縋りつく。
「おうたうたって」
その温かな手を放したくなくて、私は何度もそう願うのだ。
「じゃ、もう一回ね」
ねんねこしゃっしゃりませ。寝た子の可愛さ。
起きて泣く子の、ねんころろ。つらにくさ。ねんころろん、ねんころろん……。
母は歌う。私が希う度に、そこばかりを。
何度も。何度も。
それが私の、子守唄。
他の子のものと唄が違うことを知ったのは、小学校に上がってから。中国地方に伝わる子守唄だと知ったのは、大人になってからだ。
西の人であった母には訛りもあって、その旋律は哀しく切なく、しかしどこか不思議な色気があった。
そう感じるのは、私が東京しか知らないからだろうか。
「もっかい。もっかい」
私は幾度そうせがんだろう。だが母の微笑みに困惑といら立ちの色が混ざっていくのを、子供ながらに感じてはいた。
あのころの母はまだ二十代の半ば。父はそれより三つほど年下。
私は両親がまだ若い身空で生まれた子。
専門学校を出てようやく見つけた事務仕事の働き口も捨て去って、母は私に掛かりきり。
父は若気の至りとやらか浮気癖を起こしてたびたび母を泣かせつつも、大学も出ずに働いて家族に尽くそうと努力はしていた。
今にして思い出せば、うら若い彼らは何もかもに手一杯であったのだろう。
幼い私にそんな事情は分からなかったけれど、母をあまり長く困らせたくなくて、しばらくしたら寝たふりをするのだった。
そして彼女はほっとしたように私を撫でる手を止めて、仕事か何かに戻る。
結局、眠れないままの私は、開いたままの襖の向こうに揺れる母の影をちらちらと見ながら、必死に目を閉じるのだった。
(「ねなきゃ。ねなきゃ。おばけきちゃう」)
躍起になって目をつむるほど、眠りからは遠ざかる。
天井を這う木目が、幼い私には揺らめくように見えて。
その中に己を見つめるような瞳を無数に感じて。
夜の薄闇は匂い立つ煙のように、小さな下宿の中を漂うばかり。
目を閉じては、恐怖を覚えて目を開く。
その繰り返し。
母は声を掛ければすぐに来てくれる場所にいるのに。和室の襖は開け放たれたままだというのに。
思えば私は分離不安を強く残した子どもであったのだろうと思う。
母の姿が見えなければ泣き出し、トイレにさえついていきたいとせがむ子であった。視界から外れれば、母がそのまま消えてしまうのではないかと、いつも喪失の恐怖に苛まれていた。
そういう私にとって、夜の闇はそれ自体が流動する恐怖だった。
あれがいつか、空を流れる雲のように動き出し、全てを包んでしまうのではないか。暗い暗い中に皆、閉じ込められてしまうのではないかと、不安で仕方がなかった。何の根拠もないというのに。
寝るときはいつも母に頼んで点けてもらっていた、小さな豆電球だけが私の頼り。
ちっぽけで、吹けば消えてしまいそうな、橙色の灯りだけが。
寂しい。怖い。寝なければ。
しかし寂しい。とても怖い。だが寝なければ……。
そして暗闇にゆっくりと押しつぶされるように、私の意識は蕩けていく。
誰しもが思い出せるだろう、小さく幼いころの、柔らかく震えるような心細さの中で。
私は、あの夢を見た。
いや、呼び寄せたのかも、しれない……。
~つづく
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