「他の人を好きになったんだよね」
大戸理沙は少しだけ照れ臭そうに、でもすんなりとそう言った。
「あーー…………」
反応に窮して、真帆乃は目を白黒させる。
「けっこう粘られたんだけどさ、他の人に気持ちが行っちゃった時点でもうムリじゃん?」
「うーん、そ、そうだよね……」
「んー」
体育祭練習、火組ダンス女子の教室。練習が少し早く終わった余りの時間の世間話だ。いよいよ夏休みも間近となった今、楓のアドバイスの甲斐もあり真帆乃は理沙とそれなりに距離を詰めていた。それこそ、同年代の同性が興味を持ちそうな話題として翔と別れた話について聞けるくらいに。実はそれもこれも翔に頼まれたからに他ならなかった。
(野田くん、これはやっぱり厳しいぞ……)
『理沙となんとかよりを戻す手伝いをしてほしい』。野田翔から直々まさかの頼みを受けたのはあの日、休みがちだった翔が席替え後の真帆乃の隣にやってきた日だった。そんなことは難しいだろうとは思いつつも、きっかけとしては何かあれば手伝うと言ってしまった手前があり無碍にもできず、こうして理沙の気持ちを探っているという次第だ。しかしご覧の通り取り付く島もない。
「別れ話って超ダルいよ。もう興味ないヤツをなんとか説得しなきゃいけないの。さいあく」
フッた男を見るような目で笑う。実際に彼女が見ていたのは右手の爪であったが。
「はは……野田くん、めちゃ落ち込んでたよ」
「あ、クラス同じか。え、でもどうしようもなくない?」
「そうだよねー……」
翔にも同情するが、理沙に同意しないわけにもいかない。喧嘩中の友達どうしを仲裁するのとは訳が違う。別れた男女がまた恋仲になるということ自体無いわけではないのは、復縁・元鞘・縒りを戻すといった表現の存在からも分かる通りだが、またそれは当然の運びではないということの裏返しでもあるかもしれない。
「なんでそんな気にしてんの? アイツ狙い?」
「ちがうちがう! そういうんじゃないけどね!?」
「えー? アヤしいなぁ」
「そういうのじゃない、けど…………」
本心からそういうつもりではない。そうだったとして気がある男の元カノに探りを入れる意味も無いはずであろう。
(カレシカノジョ、かぁ)
異性色恋、そういうものに対する興味は人並みにあると思う。友達との話題に上がることも少なくない。しかしでは自分が誰と恋仲になるかと考えるとどうにもピンと来ない。いつだったか誰かに晴人と付き合っているのかと訊かれたことがあった。確かに近しい男子の一人ではあるが、付き合うなら晴人かと言われたら、そんなことは無く───かといって絶対に嫌だとかそういうわけでもなく───
(イヤ別にわたしのことはいいんだよ、もう)
無駄に恥ずかしくなって思考を振り払う。とにかくこの件は自分の手に余る。無謀な働きかけはこんなところにしておいて、翔にも諦めるよう説得する方がいくらか建設的だろう。
(でも…………)
『自分に出来ることなら手伝う』と約束したからには。
「も、もう一回だけ、野田くんと話してみない? お互いちゃんと納得して終われた方がいい……と思うし、っていうか、その」
「えー」
案の定、理沙は乗り気ではない。
(こんなのは間違ってるけど、でも───)
それでも。
(───やくそくはまもらなきゃ)
「30センチ……えっと、これが1センチで、2、3、4……」
一方その頃、桜木千秋は1メートル竹定規の目盛を数えていた。風組美術展示の制作のためである。字面は地味かもしれないがこれも個人種目のひとつだ。木材等を組み上げ、各組が立てたコンセプトに沿った大きな展示を制作する。今は見繕った木材に切断の目安線や釘の打点を設計図通り記す作業中だ。
「13、14、15……」
「……その赤いとこで10センチですよ」
愚直に、というか愚かに1cm刻みを数えていた千秋を見かねて指摘したのは野田翔だった。同じく線引きの作業を進めている。
「え?」
30センチ以上の長いものなら大体がそうであろうが、この竹定規にも5cm単位、10cm単位がわかるように印が打ってある。
「だから、10センチ、20センチ、ここで30センチ」
「おおー、翔くんあたまいい」
「頭良いとかじゃないと思いますけど」
たまたま同じ風組でたまたま同じ美術担当で、たまたま近くで同じ作業をしているだけの2人だ。クラスはおろか学年も違う。お互いに面識は無い。面識は無いが、2人とも相手のことは知っていた。千秋はそもそも校内では有名人だ。顔が良いだけならまだしも蒼眼が目立つし、その言動も何かと話題に上がりやすい。翔も有名なイケメン程度に名前を認識していた。一方千秋がなぜ翔を知っているかと言えば、先月の一件である。女子制服のボタンを始めとする様々なものが相次いで盗まれる事態を調べていた千秋。晴人から『犯人は野田翔で、動機は自分を捨てた大戸理沙への嫌がらせ、あるいは復讐なのでは』という推測を聞いていた。その後起きた能力による攻撃にはどうやら別の何者かが絡んでいたらしいことがわかり、ボタンの盗難もピタリと止まったため結局うやむやに終わっている。今となっては、翔を特別疑う理由も無い。
(でもフられちゃったのはホント、ってことだよね……やっぱりまだ落ち込んでるのかな)
「…………」
翔はいたって真面目に作業を進めている。口数は少ないし表情も明るくはない。といっても自然と笑みがこぼれるような仕事でなし、普段のテンションを知らない以上明らかに落ち込んでいるとは判断できないが。
「翔くん、さ、最近どう?」
「……どうってなんすか」
「あ~~っそうだよね、ごめん、えっと……な、なんかいいことあった!?」
翔の瞳から光が失われたのが分かった。
「なにも」
「……ごめん…………」
「なんで謝るんですか」
語気がいよいよ冷たい。
「いや、えっと……ちょっと元気無さそうだなって思って……」
「……最近フられたんスよ。センパイみたいなイケメンにはちょっと、縁の無い悩みなんスけど」
「う、そんなことは……えと……フられちゃったことは、あるよ」
「……へぇ」
翔は心底意外に思った。これだけの美少年をフイにした女とは何者なのか、興味があるような聞きたくないような気がした。
「でも、それで悩んだことってあんまりない、かも……」
「すぐ次が見つかりますもんね」
「あああそうじゃなくて~!」
「俺みたいのはぜんぜんそうじゃないんで」
「違うんだよ~、僕そんなに恋愛経験ないよ?」
それは「翔が思っているほどには」という意味では間違いではなかった。千秋にとって恋愛はよくわからないものだ。そういう話を受けたことは少なくなく、断る理由が無かったがために了承したことも何度かあった。でも毎度長くは続かなかった。破局を言い出したのは例外なく相手の方で、『自分が好かれている自信が持てない』や『この先関係を深められる気がしない』と言った後ろ向きな理由ばかり。どうも相手の期待に応えられなかったらしいことはわかるが、何がいけなかったのか千秋には未だわからない。それを繰り返すのが嫌で、今はもう、交際の申し入れだけでなく異性と2人で会うような誘いは全て断るようにしている。
(うまくいかなかった女の子も、最後は悲しそうだったもんなあ…………)
正直千秋は別れたときたいして凹まなかった。相手に申し訳なく思った程度だ。それでも、あるいはだからこそ、そこに自分の知らない痛みがあって、翔はそれに苦しんでいるのだろうと考える。
「今すごく悲しいなら、それだけすごく好きだったってことだもんね。それは素敵なことだと思うなぁ」
「いやぁ……」
本心からの言葉であったが、まるで手応えが無い。
(僕が何言ってもダメだよね……)
「ああでも」
ふと、翔が手元に目を落としたまま何かを思い出したように少し笑った。でもそれは、どこかバカにしたような、心底から嫌なものを見るかのような、苦々し気な笑いだった。
「でも最近は、前よりはマシかもしれません。約束を無視されなくていいので」
「……約束?」
それは千秋に向けられているものではないようだった。ここにはいない誰か、ここに無い何か。それに向けられた侮蔑に思えた。それ故か、彼が顔を上げて千秋と目を合わせたときには、その表情は興味無さげで無気力なものに変わっていた。
「約束は守らないと、そうでしょう?」
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