階段を駆け下りる。踊り場に着き折り返したところで、その光景が目に飛び込んできた。
「っとぉ、なんッだコレ!?」
長い廊下の床一帯が燃えていた───が、なんだか様子がおかしい。想像していた火災現場と違う。それは規模の問題ではなく───
「何が……何が燃えてんだよ!?」
燃えているというより、炎がそこにあるとでも言うべき光景だった。大きな炎の渦が何本も、生き物のように床を這っている。炎は時折波打つように晴人の身長あたりまで持ち上がり、また沈むことを繰り返している。
(燃え広がってる、って感じが全然しねえ……それに煙も無い)
晴人としても実際の火災を見るのは初めてだ。だが、それでも異質な何かを感じずにはいられない。
(ってか、センパイは?)
葵を助けに行くと言い姿を消した千秋の姿が見えない。階段ですれ違って気づかないはずは無い。この炎に突っ込んでいくとも思えない。───普通であれば。
「やっぱ錠、能力か……」
そう晴人が呟いたのと、目の前、階段の終わり際で『あつっ』と声がしたのがほぼ同時だった。
「!?」
声のした、その何も無かったところから、千秋の姿が浮かび上がってきた。晴人は、幼い頃に買い与えられた、パワードスーツのヒーローが表紙を飾る月間雑誌の、水に濡らすとイラストが現れる付録を突然に思い出した。
「あれ、晴人くん!?」
「ちょ、何やってんすか」
「いや、えっと、楓が!」
千秋が廊下の奥を指さして叫ぶ。
「はあ!? 葵先輩じゃなくて!?」
桜木葵が危ないかも、という話だったはずだ。なぜ今日学校に来ていないはずの桜木楓が?
「さすがに間違えないよう、ほらあそこ!」
晴人も階段を駆け下りる。炎は廊下からこちらに燃え広がってくる様子が無く、まるで川沿いのような、炎ギリギリのところまでやってこれた。煙が無いおかげで視界も悪くない。廊下の一番奥、選択教室の入り口近く。1人、うねる炎の中に倒れている女子がいた。なぜか制服姿、おそらくはミナミコー生。千秋が言うからには彼女が桜木楓その人なのだろう。そして───
「うーん、そういうことか……」
晴人が唸った。これは思っていたより面倒な事態かもしれない。床を這う炎は、どう見ても楓の身体から吹き出していたからだ。
(能力、だなこれまた)
日本に住む高校生、雲居晴人は普通の高校生であったが、2つだけ普通でないことがあった。その内1つが、不思議な明晰夢を見ること。もう1つが、常人には無い特殊な力を持っていること。その能力を行使するとき、晴人の瞳からは青い光の筋が走る。さっき見た桜木千秋のものもそれだろう。そしてこの異常な燃え方をする炎。楓はまさにその上に倒れているわけだが、服が焦げる様子すらない。それに炎は楓から現れているように見える。これもまた、この炎が楓の能力による特殊なものと考えれば全て説明が付く。
(『そういう特殊能力だからですね』とか、たいていのことはそれで説明付くけどな……)
めちゃくちゃな推理(?)だが、自分も能力者である以上何も言うまい。
「行くしかないかぁ」
「行くって、危ないよ!」
炎は未だ床を覆い尽くし、時折波打って持ち上がっている。たしかに根性で走り抜けるにはあまりに危険だ。
晴人が左手を掲げる。もとより根性論は彼の嫌いなモノのひとつだ。───この男、根性は無い代わりに能力を持っている。
「お義兄ちゃん、セクハラで訴えないでねー」
「え!?」
再び晴人の眼から青い光が迸る。すると突如天井から青い糸が伸び、晴人の右手首を絡めとった。
「ええ!?」
千秋が驚愕の声を上げる。
「っし!」
晴人の声に応えるように、今度は糸が縮み晴人の体が宙に浮く。そしてターザンロープよろしく天井を滑り出した。
「えええ!?」
千秋の大声が背中に聞こえる。楓まであと半分と言ったところで、急に足元の炎が持ち上がり始めた。
「あぶね」
壁を蹴って回避、反対側の壁から別の糸を引き出して足に絡め、斜めの姿勢で停止。炎をやり過ごした。
「体育3でもなんとかなるもんだ」
天井や床、地面から【青い糸】を引き出し自在に操る。それが晴人の能力だ。
「よしと」
足を留めていた糸を解き、再度天井を滑り出す。糸は天井・床の物質を無視して存在、操作できる。この滑走に助走や慣性は不要だ。
「おーい、しっかりー!」
楓の元にたどり着き、上から声をかける。
「いや……なんで……あああああ……」
───すすり泣くようなか細い声。意識はある。しかし晴人の声は届いていないようだ。
「炎を止めろ! 止めようと思えば止まる!」
精神論と言うなかれ、能力というのはそういうものだ。全くバカげているが。
「うう…………」
言葉が通じている手応えは無い。
「それどころじゃねえってか……」
そして能力の行使は少なからず体力を消耗する。このままの状態は危険だ。何か手立ては無いものかと周りを見渡す。
「うえっ!?」
打開の策より先に、状況を悪化させるものが見つかった。目の前の教室、その中に葵がへたり込んでいる。状況が呑み込めていないのか、引きつった貌で硬直している。教室の扉が閉まっており火元である楓と隔絶《かくぜつ》されているからか、教室の中に炎は見えない。とりあえずは無事のようだ。
「いやでもこっちはなんとか!」
教室の中の天井から糸を数本伸ばし、葵の体を吊り上げる。
「えっ、ちょ、きゃあっ!」
「すみませんちょっと我慢してください!」
糸は晴人の意のままに教室の扉を捉えて開く。開いた扉から炎が水のごとく流れ込み、今の今まで葵が座っていた床を飲み込んだ。葵を掴んだ糸がその上を通っていく。
「そっち頼みます!」
声を張り上げ千秋に合図する。葵の体がそちらに運ばれていく。
「葵!」
糸が伸縮し、葵は千秋の前に柔らかく着地。────まず1人。
(後は楓嬢を……)
晴人の【糸】は自在に操ることができるが、炎への耐性は無い。炎を放ち続ける楓を吊り上げるのは無理だ。
「楓! しっかりして!」
向こうで千秋が叫んでいるのが聞こえる。すると、楓がわずかに身を震わせたのが見えた気がした。
(俺が呼びかけるより良い、か)
晴人は体をよじって空中で振り向き、千秋の位置を確認する。
「おにいちゃんヘルプ!」
「へ?」
間の抜けた声を上げた千秋の頭上から糸が伸び、今度はその胸に巻き付く。
「でえええ!?」
糸を縮ませて体を持ち上げ、こちらに引き寄せる。千秋がクレーンゲームで取れたぬいぐるみみたいな姿勢で飛んでくる。
「ええおおおええおおおおお」
────到着。急ブレーキ。慣性で千秋の上体が持ち上がる。
「ああああああん」
(うるせぇな……)
つい勢いを出しすぎた。千秋はまだ前後にブラブラしている。
「あぅ……か、楓! しっかりして!」
(おっ)
楓の視線が動いたのがわかった。晴人が呼びかけた時に比べて、明らかに反応がある。
「落ち着いて、元に戻るみたいに。ぎゅってするんだ」
お前が落ち着け、と言いたくなるかもしれないが、これは同じく能力を持つ彼の感性による表現だろう。能力を閉じる、その感覚というのは晴人としても独特なものだと思う。
「もとに」
かすれ声で楓が言う。その眼に、線香花火のような淡い橙の光が走る。
「お」
────炎が止まった。楓から吹き出すのが止まっただけでなく、まるで何かの間違いだったかのように全ての炎が消え、見慣れた床が露わになる。奇妙なことに、校舎は一切燃えて、もとい焦げてはいなかった。
「……ふう」
糸を緩めて外し、着地する。スニーカーの靴底が焼け、独特の匂いが広がった。
「あつっ、そりゃそうか、アツっ」
今の今まで燃えていたのだから当然といえば当然だが、そもそも今の今まで燃えていた、なんて所に立つことはまず無い。熱いと言っていられる温度で助かった。
「あの、僕も下ろして……」
「下、熱いですけど大丈夫ですか?」
「だいじょっっ」
返事し終える前に糸が消えた。千秋の体は落下していく。
「キャッチ」
晴人がそう言うと、青い糸が今度は床から無数に伸び、千秋を受け止めて柔らかく着地させた。
「おお……すごい」
役目を終えた糸は青い光となって霧散する。古い校舎には似つかない、ちょっとした幻想風景だ。
「やれ、こっからが面倒そうだ……」
晴人が周りを見渡す。いつもの校舎そのものだ。すべては炎が能力による特殊なものだったためだろう。突然炎の消えた校舎には、火災があったとわかるような痕跡が一切残っていない。扉が真っ黒に焦げるとか、ガラスが融けてとか、天井に煤が、すら、一切。そしてそこになぜかいる生徒が3人、晴人、千秋、葵。さらには───
「楓、立てる?」
───さらには、今日学校に来ていないはずの桜木楓。やがて駆けつけてくる消防、あるいは先生になんと説明したものか。
「……」
楓はうつむいたまま、千秋の手を取らずに立とうとする────が、大きくよろめいてしまう。千秋が素早く腕を回し、支えた。
(やっぱりこのコがいるのがまずいよなあ)
能力なんてものを当然に知らない大人がこの状況を見たらどう判断するのだろうか。あまり良い想像はつかない。
「どうします? 楓さんとりあえず隠します?」
「なんで!?」
「学校休んでるはずなのにこんなとこにいるの見られたらまずいでしょう。しかもこんなぐったりして……」
乙倉に『事故っていうか事件だったかも』と修正してやらなくてはならないかもしれない。めちゃくちゃ騒がれるのでなんとか避けたい。
「みんなはもう避難してるのかな?」
「じゃないすか? そろそろ俺らがいないことも騒ぎになってるかなあ」
晴人は階段の方に少し戻り、校庭側に開いた出口から様子を窺ってみる。生徒が既に整列しているのが見えた。もう点呼が済んでいてもおかしくない。
(トイレ行ってて……みたいなこと言うか? いや楓サンにトイレに隠れてもらうというのも)
再び振り返ると、階段の下で座り込んでいる葵が目に入った。
(あ、忘れてた)
「えーと、葵センパイ? さっきはどーも。大丈夫ですか?」
「……うん。えっと、君は……?」
「あー、なんていうか……」
「僕が今朝はなしかけた! 楓とまちがえて」
少し遠くから千秋が説明した。
「あんのバカ……ごめんね本当」
「同情します……と、火傷してますね?」
葵は炎を直に受けたのか、右手が少し爛れてしまっている。
「大丈夫、たいしたことない」
(うーむ、これじゃあごまかしも効かないか)
「しゃーなし、とりあえず楓さんには隠れてもらって……」
「どうせならみんな隠れて、校庭のみんなと合流するっていうのはどう?」
千秋が口を挟んだ。そりゃあ、そうできればいいかもしれないが。
「4人で? いやムリでしょう。そもそも楓さんがいるのはまずいんですって」
「あ、じゃあ楓はずっと透明になっててもらおうか」
「あん?」
「僕、さわってるものを透明にできるんだ!」
そういえば千秋が能力者と見てやってきたんだった。【透明化】。それが彼の能力のようだ。
(そういえばこの人、さっき突然現れてたもんな)
炎の印象が強くて忘れていた。あれは透明化の能力が解除されたところだったのか。
「そりゃあ都合が良い! まぁ最悪楓さんがここにいた事実さえ抹消できればよし!」
「よーし、じゃあこのまま一緒にね、で、えー……そういえば名前聞いてない」
そう言われてみたら、半ば一方的に名乗られただけで終わっていた。
「別によくないすか」
なにもこれから1年間よろしくやっていこうというわけでもない。
「えええ、教えてよう」
「……雲居」
「くもい?」
「…………晴人」
「はるとくん!」
「ええい下の名前で呼ぶな!」
「なんでえ、いいじゃん。じゃ、晴人くんと葵は手持ってもらおっか!」
…………なかなかコミカルというか、高校生が4人集まって取る体勢では無い。
「うーん、なんか誰か躓いて全員コケてバレるとかくしゃみしてバレるとか、お約束やめてくださいね!」
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