「ねぇちょっと」
昼休み。一人でもそもそ食事していた晴人に声がかかった。ちなみに平時ならばまずありえないことだ。
「はい」
固いカツサンドを飲み込み顔を上げる。髪を茶に染めた、ちょっと派手な女子生徒がこちらをじっと見降ろしてきていた。にこやかな感じは無い。その顔に見覚えも───無い。
(なんか出すモンでもあったっけ? いやこの人他クラスじゃね?)
晴人にわざわざ話しかけてくる者があるとしたら、ほとんどの場合それは例えば学校行事に向けて何か聞き取りが要るだとか、例えば何か提出物を集めているとか、つまりは晴人にというより晴人を含む全員に用がある生徒だ。
「あんさぁ、教科書、なくなったんだけど」
「教科書?」
「数I。」
怒っているという感じもしないが、何かを警戒しているような、あまり友好的でない声色だ。
「はぁ。───え?」
話が見えない。数学の教科書が無くなったって? それで?
「───あんたじゃないの?」
「俺? が───あぁ、そういう……」
盗んだんだろうと、そういうことかと理解した。
(そういえば先生が言ってたわ、教科書も取られたとか そうか、それも俺になるか……なるな、なるわ…………)
「どこやったの」
想いを馳せていたら容疑を確定されてしまった。見た目に違わず勇気のある人物のようだ。
「職員室に届いてたり───」
「無かった」
(ちゃんと平和路線も検討してるの好感が持てますね…………)
言ってる場合ではないが。
「ああそう…………まぁでも俺、知らないっす」
「だってさ、なくなったのわたしだけじゃないんだよ? だって───」
茶髪の彼女はそこで晴人から視線を外し、少し泳がせてまた止めた。
「瞳! ねーさぁ、瞳もボタン盗られたんでしょ?」
彼女が呼びかけた方に晴人も目をやる。
「え、いや盗られたんかわかんないけど、まあ……」
やや気まずそうに応答した黒髪ショートの女子生徒は、晴人のロッカーから出土したボタンの持ち主、その内の1人だった。
(……多分ね。)
茶髪の方にはやっぱり見覚えが無いので確信が持てないが。
(やっぱ茶髪は他クラスか?)
「んでこいつが持ってたんでしょ?」
「まぁ」
「え、こいつじゃん」
(まぁごもっともじゃないかこれは??)
他人事のように、ふむと息を漏らす。割と大きな声でこんなやり取りをしているものだから、ついに自供か大捕り物かと教室の視線も集まっている。
(乙倉がいなくてよかったな またうるさそうだから)
真帆乃は他クラスの友達と食べているのか、昼休みは教室にいないことの方が多い。
「いや、え、まぁわかんないし……」
などと言いながら、瞳と呼ばれた女子生徒が席を立ってこちらにやってきた。
「なんでよ」
「声大きいって」
教室の注目を集めることに耐えかねたといったところなのだろう。瞳と呼ばれた女子生徒がもう1人の声量を落とさせる。
「いいからさー、返してよ」
そう言って、今持っているんだろうとばかりに勢いよく差し出された右手から、何かが晴人の机に落ちた。
「?」
3人全員の視線が机上のそれに落ちた。
「え」
「大丈夫!?」
「え?」
3人がバラバラと少しずつ違った反応をしたが、やることは同じだった。視線を、今度は茶髪の彼女の右手に。
「なんで!?」
右の掌、生命線を横切るように傷口が開いていた。そこから溢れ出る血が見る間に筋を作り、また晴人の机に垂れた。
「ちょ、え、ティッシュでいい!?」
瞳が慌ててポケットティッシュを取り出す。
「いや、えーでも他に無いか……とりあえず心臓より上に!だっけ!?」
晴人がどっかで聞いたような知識を喚く。教室のどこかで驚きの声が上がる。茶髪の彼女は渡されたティッシュ塊を握りこみ、晴人の言うように手を持ち上げた。
「保健室保健室!」
瞳が付き添い、わたわたと教室を出ていく。晴人は、さすがについていかなくていいかどうか、少し考えて───そこで異様な空気に気づいた。やけに騒がしいのだ。この教室が、ではない。だけではない。
「……!?」
教室を見渡す。今しがた瞳たちが出ていったそれの反対側、教室前方の扉から、男子生徒が、やはり何人かに付き添われ、足を引きずって出ていくのが見えた。
「まじ?」
小走りで廊下に出る。行きがけ、『なんか急に血が出たんだって』という誰かの声が聞こえた。さっきの茶髪女子のことかもしれないが、今の男子のことかもしれない。それ以外かもしれない。そうだとしたら───
「おおおう……」
西棟3階廊下はまさに異常の様相を呈していた。あっちにもこっちにも、慌てて移動する生徒の組が見える。
「つまり……?」
小声をそう呟き、腕を組む。左上右下。組み方によって感情型だとか論理型だとか言われているようだが、どっちがどっちだったか。どっちと言われてもピンと来ない。晴人は占いなどをあまり信じないタイプだ。
(『なんか知らんけどいきなり出血した』って人が同時多発してるんですか……?)
らしき生徒たちはみな我先にとばかり階段を下りて行った。つまりは保健室のある方だが。
(まーた錠か……?)
そんなことはあり得ない、あったとしてただの偶然だ。───普通ならそう片付けるしかない問題でも、晴人の生きる世界ではそうならない。晴人の指定スラックス、その左寄りのあるベルトループには銀白色の南京錠が提げられている。これは趣味の悪いアクセサリーではなく、晴人に特殊な能力を与える、そういう謎のアイテムだ。そしてこれは何も晴人だけが持つものではなく、錠の所持者それぞれがそれぞれ違った能力を使うことができる。つまり、錠を持った能力者の仕業と考えればたいていのことは起こり得てしまうのである。
(…………でも俺これ別に何もできなくね?)
彼ら彼女らの傷が致命的なものだとしても浅いものだとしても、保健室のキャパがオーバーしようとなんとか捌けようと、晴人にできるのは能力を使ってなおせいぜいガーゼと消毒液を運ぶくらいのことだ。
(乙倉だったら、うーん、まぁ…………ってか無事かなあの人)
誰が無事じゃなかったところでやっぱり何もできないと思って、晴人はすごすごと教室に戻った。
(あの人ならまず大丈夫だろうし……ね)
自分にできることはそう多くない。そこはただの高校生とたいして変わらない。晴人はそれを忘れないように気を付けている。いつも気にしている。
(本当なら、何もできなくてもやればいいんだ 俺にはなぜかそれができないんだ)
───以前ならば出来た?
(わぁんねえ、でもそうかも。あいつが騒ぎだして、しゃーなしついてって、そしたらやっぱりあの人もいて、俺は今頃保健室の前にでもいたんだろう)
窓に寄って、校庭を見下ろす。今日もまた天気は良くない。
(俺は今はどこにいるんだろう)
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