5月。連休明けの今朝は久しぶりの雨が静かに降っていた。夜明け頃から降り始めた雨は、酷く強くはならないものの日暮れまで続く予報になっている。そうなれば全国の中高生は朝練があろうが最終下校時刻まで部活があろうが、1限に滑り込み6限のチャイムと共に飛び帰ろうが、例外なく行き帰りと念入りに制服を湿らせることになるだろう。
「…………」
さてここにもそんな高校生が1人、校門前の赤信号にちょうど引っ掛かって短く息を吐いた。紺の長傘をさした、猫背に学ラン姿の男子高校生。時刻は8時15分。こいつは毎朝のホームルームの時間ぴったりに教室に着くタイプだ。名を雲居晴人。神菜川県立殻雲南高校、通称ミナミコーに通う1年生。そのミナミコーへ最寄り駅から至る道中、その最後に1つ横断歩道がある。そこそこ大きな街道で車通りも多く、歩行者側の赤信号も長い。信号次第で遅刻かどうか決まる、なんてこともままある。今日の晴人のように、ギリギリで青信号の点滅を見たなら全力ダッシュする生徒も多い。そうしなかった晴人にはつまり若干の余裕があるようで(ただし体力を使いたくないという理由も多分にあったが)、何をするでも無いこの時間傘を回しながら『雨というものを知った、理解したのはいくつの頃だったろう』などと考えていた。そんなところに、今日の雨に対しては特に感想を持っていないであろう正常な生徒たちが溜まり始める。タイヤが切る水の音にガヤガヤとした話声が混ざる。晴人に声を掛ける者は無い。
空から水が降り注ぐことへの驚きを得た記憶を探り当てられないまま、信号が青になった。赤信号が長いぶん青信号は短いが、横断歩道はもっと短い。晴人を先頭に、後は多くが2人か3人のグループになって、生徒たちは道を渡り始める。晴人に声を掛けるものは無い。
───が代わりに横断歩道を渡り終えた晴人の顔を覗き込む者があった。晴人の傘に潜り込むように、下から。自分の傘からも乗り出したために少し雨に濡れたその顔は、まさに容姿端麗。いわゆるイケメン。凛とした輝きを湛える瞳はアニメでしかみないような蒼。塩顔というのか、俺様系というのか、晴人にはその辺りの知識は欠けていたが、今にも『よォ、奇遇じゃねえか』などと言って目を細めて笑いそうだと思った。
(だが知らない人だ!!)
晴人は反応に困った。制服からしてミナミコーの生徒だろうが、知らない人である。少なくともクラスメイトではない。たぶん。こんな美少年がクラスに居たらさすがに印象に残っていそうな気がするが、全く覚えが無い。『奇遇じゃねえか』っていうかただの偶然である。そう言わないとすれば何を言われるのか?というかこっちが何か言うべきか? 晴人が瞬間的に悩んでいると、美少年が先に口を開いた。
「───さ」
雨音の中にあってもよく通るような声だった。
「さぐらぎかえでってコしらないで、ですかあああ…………・」
その声を震わせ泣き出した。恥を一切知らない喚き声がわんわんと伴う。
「え、なんて? ちょっ……」
震え声が上手く聞き取れず、しかもいきなり泣かれて対処が追いつかない。晴人の後ろにいた生徒たちが思い思いの種の視線を向けながら校門へと歩き去って行く。
(ええい、1人くらいコイツの知り合い居ねえのか!! ぼっちかこのイケメン!)
そうだったとして、全員素通りということは晴人の知り合いも居ないわけだが。
「かえでがぁー、うぅ~かえでぇ~~」
(最後にここまで泣いたの、俺いつだろう……)
雨を知った記憶よりは正確に思い出せそうだが、今はそれどころではない。
「なに? カエデ? 友達ですか?」
しかし泣くか?それで。
「いもうと、なんですけど、朝っ、今朝からいなくて」
少し落ち着いた様子で話し始める美少年。晴人の遅刻は確定した。
「ああ、妹……」
どうやら今朝から妹の姿が見えないということらしい。晴人に兄弟姉妹は居なかった。にしたって泣くか?とも思いつつ、小さい子どもが突然家から居なくなればそれは不安だろう。そうは思えた。
「あの、それをなんで俺に?」
事情は理解したが、兄妹と面識の無い晴人には手当たり次第探すような手伝いしかできそうに無い。こういうのって、警察に届けても取り合ってもらえないんだろうか。
「あっ、傘の色でそうかと思って、ごめ、ごめんね、急に……」
「ん?」
美少年は、いきなり知らん人に泣きついたことを少し自覚したように謝った。
(いやそれはいいけど、なんだって?)
「楓も確かこういう傘してた気がしたから……」
晴人の(そこらのスーパーマーケットで買った)傘を指さす美少年。晴人は別にとんでもなく背が低いわけではない。高いわけでもないが。幼女と見紛うはずはないのである。
「妹いくつ!?」
「じゅうよん」
「14!?」
幼女を想像していたので面食らう。
「ミナミコーの1年生なんだけど」
「じゃあ少なくとも15じゃねえか!!」
「あれ? そっか」
美少年は心底不思議だというような表情で何かを指折り数え始めた。晴人は年齢に関して何かを指で数えたことは無かった。
「んで、あれ!?妹って言いましたよね!?俺は男ですが……?」
「か、傘でよく見えなかったから……」
「制服はぁ!?」
「制服?」
「スカートかどうかはわかるでしょう」
いやまぁ、イマドキ『女子だからスカート』なんて言っていたらネットで炎上しかねない。実際そういう生徒を見たことは無いが、カエデさんとやらはジェンダーレス女子なのかもしれない。とすると『妹だから女子』も不確かなのか? 面倒な時代だ。
「あ、そっか」
「ええ……」
普通に納得されたので、今回は別にそういうことではないらしい。どんだけ焦ってるんだ、それともただのバカなのか?
「いやまあどうでもいいけど……ええと、今朝の時点でもう家には居なくて、学校にも来てないってことですか?」
小さい子供ならともかく、高校生ともなれば朝起きたら居なかったくらいでそこまで焦らなくてもいいように思える。女の子とはいえ。
「朝練にも来なかったみたいで」
「この雨で朝練すか? 何部?」
「陸上部。なんか筋トレとかあるみたい」
「へーえ、熱心なんだなぁウチの陸部。……うーん、かえで、かえで。」
その名を口に出し、聞き覚えを探る。
「……苗字なんでしたっけ?」
自分に下の名前で呼ぶ女友達なぞいるわけがないことを思い出した。
「さくらぎ!」
「うーん、知らん」
というか友達が居なかったことも思い出した。
「聞き覚えないすね」
「そっかあ……」
桜木兄はわざとみたいにがっくりと肩を落とす。
「委員会の仕事かなんかで早く来なくちゃいけなかったとかもありえますし、とりあえず先生にきいてみるのが良いんじゃないすか?」
「そう、だね」
彼は未だ不安そうに横断歩道の先、駅の方に視線をやったが、間もなく朝のホームルームが始まるこの時間ではもう生徒の姿は見えない。朝早く家を出て遅刻してくるのも妙な話だ。校舎の中に望みを持つ方が賢明だろう。
「まぁそういうことで」
「あっ、待って。僕、1年4組桜木千秋って言います。もし楓を見かけたら教えてもらえるとうれしいな」
「1年!? タメだっ───」
「あっ、2年だ、2年4組。1年4組は中学の時だ……懐かしい」
いつの間にか雨は止んでいた。雲の隙間から光が差す。詩的な風景の中で、美少年がアクの無い笑顔を浮かべている。
「───ああ、そう…………」
去年では無いんかい、とツッコむ気はもう起こらなかった。
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