「やぁ、こんばんは」
「……ん」
自分の意識が急にはっきりしたような感覚を覚え、目をぱちぱちとさせる。
それは普通の明晰夢の場合でも変わらないのだろうか、晴人にとってアンセとの邂逅はいつも唐突だ。大抵アンセの声が聞こえて、それから視界が得られる。考えてみればそれまでも何か見ていたように思えないでもないのだが、それを思い出すことはできない。
「今日はどんな一日だったね、少年よ」
少し芝居がかったような物言いだが、アンセはいつもこうだ。晴人もいちいち気にならない。
「別に何も。休みだった」
「またそれかい。一日中部屋に引きこもり? あれかい、日本は今雨が多い季節なんだっけ?」
今日───もとい晴人が今しがた過ごしてきた昨日───は6月16日、日曜日だった。桜木3兄弟とあれこれあった5月もそれ以降は何事もなく終わり、6月も半ば。世はまさに梅雨真っ盛りといった風情だ。
「そうね、梅雨。梅雨入り……したんだっけ? した気がするな」
「今日も雨?」
「わかんね。」
「ひどいもんだね」
一日中家から出ないどころかカーテンすら開けなかったためだ。梅雨入りしていようがしていまいが、雨だろうが晴れだろうが。晴人は必要に迫られない限り、滅多なことでは家を出ない。ゲームをするか、くだらない思索を巡らせるか、気が向けば勉強。年中通して実に不健康な休日を過ごしている。
「もっと積極的に日々を生きたまえよ、私のために」
晴人の夢に暮らす謎の少女、アンセ。彼女にとって、晴人の話を聞くのは唯一の娯楽のようなものだ。その相手として、このインドア少年は最適とは言えないだろう。
「そう言われてもな。『トモダチとショッピングに行きました~』なんて聞いたとこでおもしろいか?」
「ハルトが言っていると思うとおもしろいね」
「それはなんか違うじゃん……」
晴人には友達がいない。学校の友人とどこか出かけるなど、小学生以来縁の無いイベントだ。もっとも小学生男子が集まるのなんていつも近所の公園かお互いの家で、間違ってもショッピングなどということにはならなかったが。
「ほんとにいないの? 遊びに行く友達、ひとりも?」
「遊びに行く友達も遊びに行かない友達もいないが?」
いないが、晴人自身それを気にしたことは無い。
「誰かと行きたいとこなんて無ぇしな」
根っからのインドア派であり、外出を伴う趣味も無い。友達と買い物に、なんて晴人にとっては大変に億劫だ。
「ふぅん」
アンセはなにやら少し不満そうに頬杖をついた。白い長髪がふわりと揺れる。
「……なに。」
それを感じ取った晴人が、さして聞きたくもなさそうに訊く。
「別になんでも? 困ってないならよかったね」
「なに……・? そっちこそひとりには慣れてんじゃないの?」
「…………」
アンセはまっすぐ晴人を見たまま、答えない。
(……なんなんだホント)
晴人が何か言って、アンセが黙るのは珍しい。少し考えてから応えるときでも、先に大抵なにか、『ほうほう』だとか『なるほどねぇ』だとか芝居がかった呟きを漏らす。
「……そうだね、私は、ひとりだ。多くの時間、君がいないとき。君が現れるまでも、ずっと。」
ここは夢の世界。朝が来れば晴人は目覚め、日常へと返る。
───ではアンセは? 出会った当初、それは晴人にとっても当然の疑問だった。突然見るようになった明晰夢。そこにいつもいる、どうも自分からは独立した意思を持つ少女。日本人とは少しばかり考えがたい容姿で、しかし言葉は通じる彼女は一体何者なのかと。何か不思議なことが起こって自分と夢が繋がってしまった、日本生まれの外人さんなんだろうとは思わなかった。当初アンセとの会話はまるで成立しなかったからだ。言葉が通じることと会話が成り立つことは違う。日本語の文法、助詞その他は知っていて、単語をほとんど知らない人と話しているような感覚だった。『名前はなんだ』と訊くと、『私はいま質問をされているのか』と返ってくる。『そうだ』と言えば、『名前とはなんだ』と訊かれる。もちろん日本語が話せないのかとも思ったが、それにしては返しの問が、日本語としては流暢だ。なんとか『名前とは何か』を説明すると、しっかりと理解する。晴人が初めて『パンクラチオン』と聞いて、説明され理解するのとまるで変わらないように見えた。そうしていちいち単語を説明し、なんとか話を聞いてみると、彼女は夢にずっとひとりでいたのだと言う。そこに晴人が迷い込んだような形だったらしい。
つまり、結論として、アンセに返る世界は無い。晴人が目覚めれば、彼女はひとりでここに取り残されるのだ。
「ハルトが初めてやってくるまではずっとひとりだったわけだからね。何か考えていたような、何もしていなかったような。何年そうしていたのだろうね。───もっとも、何年だなんて、晴人の世界の時間の基準で測れるものなのかわからないけど。」
「そう、ね?」
アンセの不機嫌そうな表情が読み切れず、曖昧な相槌を打つ。
「慣れ、かぁ。」
少女がぐっと身を乗り出し、晴人に顔を寄せる。晴人は思わず目を逸らす。
「なに」
珍しく少し動揺する晴人を見て、アンセは満足そうにふふと笑い、目を細めたまま言った。
「……いやぁ、私はね、ひとりは寂しいよ?」
アンセの白い細腕が晴人の額へと伸び、そして突如、終焉。晴人は自室のベッドで小さくのけぞって目覚めた。額に掌を当てる。そんなわけの無いデコピンの感触が───あったように思えた。
「───あいつ、こっちにというか、か、干渉できんの……??」
いたずらっぽい笑顔に白い眼が綺麗だったな、などと寝起きの頭で考えて、すぐ自己嫌悪して布団を出た。彼女は何者なのか、それは未だにわからない。
────────────
「名前とは……?名前、は、ヒトに関して言えば、個体を識別するための固有の文字列……?」
「…………」
(……なんか冷酷キャラみたいなこと言っちまった 『データを超えただとッ!?』って言って負けそう)
「コタイ、シキベツ、モジ……?」
「それも!? 個体、はその───俺とあんた、は、それぞれ別の個体。 でいいのかな、説明…………」
「私は、コタイ?」
「おお理解した。うーん、そう、合ってる。……合ってるか? 初めて聞く日本語だな、『わたしは個体』。……識別は、えーと、個体がたくさんいるとき、どれが誰なのか判断するってこと?かな? 名前はそのためのモノ。俺は雲居晴人っての。晴人、って言ったら俺だとわかるようになってる」
「君は、ハルト。君の名前はハルト?」
「そ。あんたは?」
「私は? ───ああ、そういうことか。ありがとう。理解したよ。」
(『理解』は知ってるのか……)
「私は、私の名前は、アンセシスフォールト・ディオーレ・リ・イドトウェル。」
「なげーぇよ」
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