学校に行けなくなった。
『なぜか』と訊かれれば、おそらく答えは『失恋したから』になる。その一言で済ませてしまうのは個人的には不服───なのはいったん置いておくとして、それでも、失恋したからそれで塞ぎこんでしまってというわけではなかったのだ。
夜が苦しくなった。詩的には形容しがたく、ただ苦しかった。叫びたかった。叫んだら親に怒鳴られるんだろうなと思って飲み込んだ。日が昇ってやっと、別に気持ちが落ち着いたとかそういうことではなく単純に力尽きて、人体の仕組みとして眠くなった。最初の内は無理してそのまま登校していたが、そうなると当然授業で寝てしまう。受験を控えた大事な時期に何故わざわざ辛い思いをして学校で寝ているのか、もうわからなくなって、ついには朝家から出られなくなった。
「終わっ、っった!!!」
乙倉真帆乃は机に突っ伏した。7月2日水曜日。前期期末試験最終日である。
(いろんな意味で……終わった)
教室はどこもざわついている。あの問題が難しかっただとか、絶対追試だとか。
「はーい、じゃあみんなこっから1枚引いてくださーい」
喧噪の中、爽やかな笑顔の男子が教室の前方からクラスに呼びかけた。学級委員の和栗だ。教卓には裏紙を折って作った箱。その中には2つ折りの紙片が40枚入っている。そう、席替えである。中間試験の時点では教師がまだ全員の顔と名前を把握できていなかったとかで、真帆乃たちにとっては高校生活における初の席替えとなる。
(席替えかぁ、今の席ってけっこうアタリだよね)
周りを見渡す。今の出席番号順の席で、真帆乃は後ろから2番目。どちらかと言えば人気と言える位置だろう。教卓におかれたくじには活発な男子たちが真っ先に群がっている。しばらくは混みそうだと考えて、真帆乃は楓の席に向かった。
「お疲れー、どうだった?」
「追試は回避できたと思うけどな……」
楓がやや不安げに言う。数学A、そして今しがた終わった数学Iは30点を割ると赤点となり追試がある。
「ひーん、わたし自信ない……」
「まー大丈夫でしょ、勉強してたじゃん」
「そうだけどー」
「座席表書いたんでー、引いた番号のところに名前書いてくださーい」
女子の学級委員、安藤がチョーク片手に声を張る。最初にくじを引いた男子たちが喚きながら黒板の座席表を埋めていく。
「次どこがいい? 後ろ?」
真帆乃が訊く。
「んー、窓際は暑いからやだな」
「あーそっか、これから暑いもんねぇ。え、それでいうとさー、エアコン当たんない席とかあんのかな」
「あー、ヤだわ」
「ね! 絶対やだ~」
などと話しているうちに、徐々に教卓の周りも空いてきた。それを見て立ち上がったのが晴人である。スッと寄って何の迷いも無く1枚取り、眠そうな顔のまま自分の席に帰ってきた。再生紙を切って作ったお手製のくじを開く。
『13』
(13?)
見慣れた数字だった。晴人の出席番号だからだ。そこで初めて黒板に描かれた座席表を確認する。予期した通り、席を表す枠に出席番号順に数字が割り振られている。要は、10番のくじを引いた人は今出席番号10番の人が座っている席に座ることになるというわけである。……晴人の出席番号は13である。
(……まぁ、移動しなくていいから楽でいいか…………)
希望の席があるわけでもなく、まさか隣の席の女子とのロマンスを期待しているはずもない。周りの生徒は皆、アタリだハズレだと騒ぎながら新しく決まった席に荷物を移動させている。その必要が無いので、晴人はだらだらと帰り支度を始めた。
「あ、でも同じ列だ」
「そだね」
真帆乃と楓が話しながらこちらにやってくる。荷物をまとめ終えた晴人はそれとすれ違う。
「…………」
いつもならたいてい真帆乃が何かしら晴人に絡む、その間が空いたことに楓はわずかな違和感を覚える。
「楓そこ? 今のわたしの2つ隣だ」
「あ、うん」
「今日からもう部活?」
「うん、お昼食べたら」
「そっかー、じゃあわたし帰るね、また明日」
「お疲れ」
いつも通りの笑顔で帰っていく真帆乃の背を見送る。楓は2週間前、あの昼休みのことを思い出していた。複数の生徒が突然、謎の切り傷を負ったのだ。事件自体、その異常さはしばらく生徒たちの間で議論を呼んだが、結論が出るはずも無く。それ以降はなにごとも起きなかったのもあって、今では気にしている者はほとんど無い。晴人は能力による攻撃だと言っていたが、そうとわかったとしてできることがあるわけでもない。楓が思い返していたのは2人のことだ。出血した生徒たちが保健室に押し寄せていた頃、晴人と真帆乃は人気の少ない教室で何やらやり取りをしていた。真帆乃は怒っていたようだった。晴人は少し驚いたような、少し悲しそうな顔で話していた。彼らが何の話をしていたのか、楓にはほとんどわからなかった。でもあの後から2人の会話は減っている気がしている。───いや、元より晴人から真帆乃に話しかけることはほとんど無かったのではないか。楓が真帆乃とよく話すようになった───今でこそお互い仲が良いが、それも最初は真帆乃からのアプローチだった───この1ヶ月ほどの間、2人で話していた彼女が晴人を見かけて何か話しかけ、彼は怠そうに、でも時に冗談を交えて返し、そこから自分とも少し話す、そんなようなことが何度となくあった。
(最近はそれも無いな)
5月の一件以前、楓は晴人とは全く話したことが無かった。正直存在感を感じたこともほとんど無かったと思う。今から思えば真帆乃とは多少話していたのだろうが、2人は隣の席どうしであったしそう目立ってもいなかった。逆に真帆乃以外と親しげにしているところは見たことが無い。話せばまぁ、口は悪いが頭の回転が速くおもしろい人だと思うが、どうやって真帆乃と仲良くなったのか少し不思議だ。同じ中学と言っていたが。
(……付き合ってはないんだよね)
贔屓目抜きにも可愛い女子としてクラスメイトに認知されている真帆乃と、お世辞抜きにも、じゃなかったお世辞にもクラスで目立つ存在ではない晴人。その2人が何やら揉めていたというのはやはり見目に珍しかったようで、真帆乃がとある女子から冗談半分に訊かれているのを見かけた。そういう関係だったのかと。彼女は笑って否定していたし、普段そんな空気を感じたことも無いが、高校1年生。7月。それが普通とまでは行かなくても、友達との会話の端々には付き合っただの別れただの告った告られた彼が彼女がという話題が上る。それを、どこか他人事のように笑って聞きながら、でもどこかでは自分のことを考えている。でもやっぱりなんだか蒙昧だ。中学から付き合っている相手が他校に、なんて話もそれなりに聞く。2人の間にそういうことが───あるいは過去にでも───あってもおかしくない───のかもしれない。
(そうだったとしても別に関係ないか……)
楓は思索を打ち切って、昼食を調達するため教室を出た。南高の正門を出て少し行った所、信号の手前に「ラッキーパーティー」、通称『ラキパ』というスーパーマーケットがある。スーパーマーケットといっても、店舗の大きさでいえばコンビニに近いような、小さなスーパーだ。それでも生鮮食品や日用品の品ぞろえが良いので、近隣住民には重宝されているのだろう。またその立地からして、特に休日のお昼時には南高生で賑わう。『ラキパまではギリ南高の敷地らしい』と晴人がほざいていたのはいつだっただろうか。
(このまままた話さなくなるのかな)
面倒だから関わるなと顔に書いてあるのに、真帆乃に絡まれればまんざらでもなさそうにツッコんで、冗談を言って、ついてきた自分にも同じ調子で。他人なんかどうなってもいいみたいなことを言ったかと思えば次の月には人を助けるために危険を冒している。『変な人だな』、などと第一印象を受けて、その後共通の友人を含んだどこかの折り合いが悪くなって関係がそれきりになるというのは、楓自身過去に覚えがあって、そして珍しいことではなくて、少なくともそれだけでは彼女にとってたいした問題では無かったのだ。
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