「久々じゃん」
1限の終わった月曜日の教室。隣の席の乙倉真帆乃にそう声をかけられた野田翔は、沈んだ声でもごもごと何やら応えた。
「ずっと隣が空いててさみしかったわー。ずっと調子悪かったん? 大丈夫?」
「や、まぁ、ちょっと」
「もう大丈夫そ?」
「ん……」
やはり声に張りが無い。
「なんか大丈夫そうじゃないなー、なんかあったら言いなねー? いやわたしじゃなくてもいいけどさ」
そう言って笑う真帆乃。
「……ホントに?」
「もちろーん」
「じゃあ、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」
「ん、なに? わたしにできることなら手伝うけど」
「約束してくれる?」
「? うん」
その時、なにか───
(……?)
「ありがとう」
野田が笑って言う。
「え? ああ、うん……」
真帆乃は戸惑いながら返事する。なにか、背筋に寒気が走るような嫌な感じがあった。気のせいかとも思うほど一瞬で無くなったが、今も冷たい汗が背中の辺りを滑っている。ちょうどそこで2限、数Iの担当教師がやってきて訝しむ向きの考えは途切れさせられた。席を立っていた生徒たちがガタガタと座り、日直が号令をかける。
「はい、前回はテスト返却と解説だったのでー、今日から新しいとこにまた入っていきますー。みんなね、体育祭の準備があると思うんですけど、勉強の方もね、がんばっていきましょー」
さてどれだけの生徒の心に響いたのやら。いつも通りの眠たい空気の中で、若い男性教諭もまたそれを気にもせず授業を始めた。少なくとも真帆乃は授業を真面目に聞いてノートを取るタイプであったから、黒板の上で始まった三角比の話に目を向けた。
(出たわね、サインコサインタンジェント……)
高校数学、というか『高校の難しい勉強』の代名詞。進学校である南高に合格が決まったばかりの頃、親戚連中が一通りの祝福と賛辞の後に言うのは決まって『あれでしょ、サインコサインとかやるんでしょ』だった。彼女は端から文系志望のつもりであったし、いやそうでなくても別に三角比を勉強したくて南高に進学をしたわけではないのだが。というかよく考えたら進学校じゃなくたって三角比の勉強自体はするだろう。というかあんたらも勉強したんじゃないの?
『勉強したことをさぁ、こう、俺らみたいなのは一応理解するわけだけど、大体。その大体を「よくわかんなかった」ものとして流して生きていく人がいるんだろうな、多分』
とはいつだかの晴人の言だ。そう言われて考えてみると真帆乃の他校の友人の中でも数人が先んじてその片鱗を見せ始めているような気がしないでもない。それは彼女らにとって将来───例えば追試のかかったテストとか───への不安などではなく、終わった過去への一笑に過ぎないのかもしれない。南高が仮にも進学校であることを実感させられる。───なんてことを真帆乃は明文化した思考としてはたいして持っていなくて、彼女は体育祭のことを考えていた。もちろん三角比のことを除いては、の話であるが。もちろん。仮にも進学校である南高だが、その生徒たるもの勉学に励むのはもちろんのこと、行事にも全力で取り組むのが美徳とされている。「生徒主体」を謳って催される数々のイベントは毎年大きな盛り上がりを見せる。体育祭などはその最たる例で、今日から夏休みを挟んでしばらくの間午後の時間は授業を行わず全て体育祭準備に当てられる。夏休み中も受験生である3年生を含む多くの生徒が準備・練習を進めていくらしい。教師が『行事もいいけど勉強もな』と言うのも「進学校なのに」と笑ってはいられないというか、まったく尤もなのだ。
(ダンジョ、優しい先輩だといいなぁ)
ダンジョとは男女ではなく『ダンス女子』の略、真帆乃の選んだ個人種目である。いくつかの内から1つを選んで参加する個人種目の内、ダンス男子・ダンス女子はいわば花形的な種目だ。主導する3年生の気合も並大抵のものでは無いと聞く。なおダンス男子の通称はもちろん『ダンダン』である。真帆乃は運動神経は悪くないが、ダンスの経験は無い。もちろん経験のある生徒の方が珍しいのは明白であって、余計な心配は必要ないとは思うのだが。
(うぅ、しよ先輩といっしょがよかった)
地理的に近いこともあり、晴人と真帆乃の通っていた外島野中学校からは毎年一定数の生徒が殻雲南高に進学する。その中には真帆乃にとって部活で仲が良かった先輩たちも何人か含まれるが、ミナミコーの体育祭においては組が分かれてしまった。
(しょこ先輩も別組だもんなー、まぁそもそもダンジョやらないって言ってたけど)
心細さ故顔見知りがいてほしいということ以上に、憧れの先輩との関わりがもう一度欲しいという気持ちが大きい。『行事のミナミ』、その体育祭は独特の形を取る。1年目に全校生徒が見守る中抽選会が盛大に執り行われ、『風』『林』『火』『山』のうちどれか1組に割り当てられる。以降その組の一員として3年間、3度の体育祭を戦うのだ。つまり抽選の縁が無かった生徒とは3年間離れ離れの敵同士である。
(のんびりしよ先輩が、しょこ先輩の天然が恋しい…………)
離れ離れの敵同士である。
(うるさいよ!!)
「雲居って何組?」
弁当を広げながら楓が晴人に訊く。4限後の昼休み、午後からいよいよ体育祭準備期間が始まるという教室はいつもより騒がしい。
「んー、謙信」
晴人は机に上体を投げ出したまま答えた。
「え?」
「風林火山を全て敵にまわす」
「ひとりで?」
「独りで」
「騎馬戦どうすんの」
「そこまでにケリをつける」
「あーもう途中で? 無いでしょそんなの」
「一対多がねぇよ、そもそも」
真顔で言う晴人を呆れたように笑う楓。
「で、何組?」
「山。まー出ないからどこでも関係ないけど」
「出ないってなに?」
「出ない。体育祭に」
「出ないの? 本番も?」
「本番だけ出たら迷惑だろ」
「いや練習から出ろし」
「いーやですぅ~」
だるそうに体を起こし荷物をまとめ始める。
「え、ほんとにサボんの」
「サボるよ」
「あれは? 個人種目は?」
「無い」
「無いとか無いから」
「そう言われても」
話声の横を通り過ぎる。笑い声の前を横切る。廊下に出る。どこもかしこも、誰かの居場所でもあったし道でもあった。
(なまぬる)
汗ばむ陽気というほどではないが、教室内の冷房に慣れた体は7月の外気に馴染めず浮いた。窓から見える校舎裏では数名の生徒が何やら叫び合いながら走り回っている。練習の準備だろう。ということは3年生だろうか。
「受験生は大変だぁ」
小馬鹿にするように呟く。それでも夏はやってくる。平等に、それとも公平に? あるいは分け隔てなく、容赦なく。また夏がやってくる。
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