その話をしたのは昨年の夏に付き合っていた元彼だったか、それとも名前も知らない誰かだったか。
思い出せないままジョッキに残ったビールを飲み干すと、生温くなった黄金色の泡が底の方に少しだけ残った。どうでもいいか、そんなこと。それよりも今はじっとりとべたついたこの夏をどうするかだ。
友人に誘われて訪れたビアガーデンは、都会の端っこにたたずむ五階建てのビルの屋上を貸し切って賑やかに営まれていた。お酒も料理も自分で取りに行くスタイルの店は人がごった返し、文字通りどんちゃん騒ぎだった。
普段は流行りの屋上緑化を取り入れているのかフェンス沿いには名前のわからない植物や背の低い木が並んでいて、遠くの照明が薄く輪郭を作っていた。
耳を澄ますとそこから囁くような虫の声が聞こえてきて、中には蝉らしき声も混じっている。その合唱が流し込んだアルコールと混じり合って、古い記憶を掘り起こしたのだろう。
「また来年だね」なんて、そんな言葉遊びみたいな。そういう言い方はすきじゃない。
そう話したら「何マジになってんの?」と茶化された。声が風船のように軽かったことは覚えているのに、台詞の持ち主に肉付けをしようとすると靄がかったのちに散っていく。どうせ「また遊ぼうね」と言いながら電話一本・メール一通ろくにしなかった相手だろうが、もうこの話を誰かにすることはないだろう。
そう思って考えるのをやめ、頬杖をついた。ビアガーデンの雰囲気は好きだけど、常に夜風に当たっているから少し間を空けるとすぐに酔いがさめてしまう。もう手元には白いあぶくしか残っていない。だが動くのも億劫で席を立たずにいると、白い丸テーブルに重い音とともに汗をかいたジョッキがふたつ置かれた。
「おまたせ」
あらわれた男の名前がすぐに出てこない。しかし笑ったときの、しわの寄った左の目尻に小さなほくろがあるのを見つけて思い出す。真崎さんだ。大学時代の女友達が連れてきた会社の同僚で、確かわたしよりもふたつほど年上だったはず。
そんな相手にビールを持ってこさせるのもどうかと思ったが、真崎さんは見るからに優男風で気が強そうには見えないし、連れてきたとうの友人は最初の乾杯もそこそこに別の男と消えていったからどうでもよくなってしまった。
敬語を使うのも忘れて「ありがとう」と礼を言ってから口をつける。キンと冷えたビールを半分ほど飲み下すと滲んでいた汗がすっと引いていった。真崎さんはなだらかなのどぼとけを小さく上下させながら一口二口含み、満足したように目を細めている。
少し離れた場所には昼間のように眩しい照明と夏らしい薄着の人だかり。荷物ごといなくなった友人の姿を探していると、向こう側にくすんだネオンライトが主張する建物が見えた。その生々しさにげんなりしながら、真崎さんにも誘われるのかな、とぼんやり思う。初対面同士が残された今、ふたりの間に流れる気まずさを埋めるのはお酒と塩気の薄いフライドポテトと、あとは一夜の過ちくらいしかなかった。
真崎さんのことはまるでタイプじゃない。しかし誘われれば応じてしまうだろう自分を思うと、首のうしろの熱がざあと下りていく。
「ねぇ、お酒、弱いんでしょ」
わたしは自分の想像を打ち消すように、少し意地の悪い口調で真崎さんに話しかけた。知らない相手に、それも年下の女に舐めたような態度をとられてさすがに怒るかな、と思ったのに彼は綿あめみたいに柔らかな声で「うん、そうかもしれない」と答えた。
「酒よりオレンジジュースの方がすきかな。風呂上がりの一杯は最高だよね」
「牛乳じゃないんだ?」
「牛乳飲むと腹壊すから」
なにそれ、こどもみたい。そう言って笑うと、彼も目尻にしわを寄せる。和ませてくれようとしていることがわかって、いい人だなと思う。
ふたりの間の空気が緩み、また小さなほくろが頬骨の丸みの上に乗っかった。普通にしていると気にならないのに、口角が上がると急にそれが魅力的に見えてくる。それだけ見ていれば一夜をともにするくらいは息をするほどに簡単だと思って、わずかに安心する。
「わ、やだ、なに?」
飛び飛びになった女性の声が不規則に跳ねて飛んできた。何かと思って目をやると人だかりの中から小さな塊が飛び出し、床やテーブルに身体を打ち付けながらこちらへ逃げてくる。ちょうど真崎さんの革靴の足元をかすめて落ちたのは、蝉だった。
ざらついて尖った床の上、薄闇の中で黒々しい命がひっくり返っている。こと切れたのかと思っているとジジ、と火花を散らすような悲鳴を上げた。
それを最後に、渦巻いていた力が煙のように濃紺の空へと抜けていく。
わずかに困惑の色を強めた照明の下も、すでに何事もなかったように活気が戻っている。声を上げた女性も残り半分になったハイボールを美味そうに飲み干していた。
わたしも手元のビールで唇を湿らせ、苦味の濃い泡を舌の上で転がした。もう誰も、気にするものはいない。
「びっくりした、蝉かぁ。よくこんなところまで飛んできたな」
真崎さんはわずかに眉間にしわを寄せて暗がりに目を凝らしていた。
確かにここは五階建てのビルの屋上だ。重く硬そうな巨体を携えてやってくるには些か骨が折れそうではある。しかしいくら都会でも珍しくはないだろうに、彼は綺麗に羽を畳み込んだ姿をいつまでもまじまじと見つめている。
「また来年も飛んでくるでしょ」
口の中の泡がいつまでも消えず、苦味に顔をしかめる。ぽたぽたと汗を垂らしたジョッキはすでにぬくまりはじめ、手を濡らすばかりで身体の中までは潤してくれない。
何もかもが曖昧で、生温い夜だった。夏ってこんなだったっけ、と思っていると、ふいに小さい頃の自分の背中が見えた。
「来年なんて、ないよ」
音が形になったみたいにわたしの上にず、とのしかかる。
夏の賑わいから締め出されて転がっている蝉。立ち上がった真崎さんの背中がずんずんと暗くなっていく。わたしが見ないようにしていたそれを、彼は大きな掌でそっとすくい、より暗がりの方へ歩いていった。わたしはヒールの足元をもつれさせながら慌てて追いかける。
「どうするの」
「埋めるんだ」
真崎さんはフェンス沿いに並んだ低木の中から丸くて細かい葉のついたものを選んで、その根元を掘り始めた。そんなことしたら手が汚れるよと言いたかったけれど、浅くくぼんだ場所に丁寧に収められた薄い羽根が安らかそうにたたまれているのを見ると、何も言えなくなった。
匂い立つ土でくるむように埋め、彼は最後にまだらに汚れた両手を静かに合わせる。背中越しに見ていたわたしも、遅れて手を合わせた。
「これでおしまい」
そう言って真崎さんは足腰をほぐすようにぐっと伸び上がり、大きく息を吐いた。さっき立ち上がったときよりも、ずっと背が高く見える。
形を持って重くのしかかってきた彼の言葉は、あの夏の日にわたしが言えなかった言葉だった。
大きく息を吸って、止める。そして小さなわたしがゆっくりと吐き出した。人の賑わいがそばに感じられる場所よりも、今日知り合ったばかりの男がふわあとあくびをしている横の方が息がしやすい。
並んで同じように伸びもしてみると「あ、真似したでしょ」と茶化すから、わたしはこどもみたいにそっぽを向いて笑った。真崎さんの左目尻のほくろも笑っていた。
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