蝉が、死んでいた。
小さい頃の思い出だ。家の玄関前だったか、通っていた幼稚園の園庭だったか、正確な場所はよく覚えていない。しかし確かにわたしはひとりで、薄い羽のついた茶色いものがひっくり返っているのを見ていた。
夏真っ盛りの青空が手に届くほど近く、どれほど背伸びをしても雲ひとつ見つからない炎天下。ネコかイヌかの耳がついた麦わら帽子の下から汗が流れ落ちてくる。わたしはふくふくとした小さな手でほっぺたを掻いた。
今でも虫が苦手なわたしはとても触ってみる気にはなれなかったが、砂でお尻が汚れないように気をつけながらしゃがみこんで、じいっと眺めていた。
遠くでまだ生きている蝉の声と子供たちの声が引き立て合うように騒いでいる。そのバックミュージックから幼稚園でのできことだったのかもしれないと思ったが、団地住まいの実家も似たような環境だったので自信はない。
ゆらり、視界に影ができる。
「どうしたの」
母親だったか、それとも幼稚園の先生だったかは思い出せないが、目の前のおとなは立ったままでわたしに聞いた。
「見てたの」
「蝉を?」
「うん」
影ができてより濃くなった茶色い羽根はよく見ると不思議な模様があって、わたしはますます目が離せなくなる。そのあともきっと何か話したのだろうが、目の前のものに夢中であまりよく覚えていない。ただ最後に、そのおとなは言った。
「また来年だね」
わたしの小さな手を引き、ひっくり返った蝉だけを残してその場から離れる。おそらく教師として生徒を炎天下の校庭に残しておくわけにはいかなかったのだろう。そうだ、あれは家の前でも幼稚園でもなく、小学校に上がって最初の夏のことだった。
わたしは何度も後ろを振り返りながら、蜃気楼に埋もれていく蝉を目で追う。暑さで朦朧とした頭には「蝉は七日間しか生きられない。だから大切にしてあげようね」と言った先生の声がこだましていた。
また来年、と、七日間の生、その矛盾に気づく程度には、小学一年生という年齢は成熟している。
呼吸すらままならない暑さの中、わたしは蝉のように息を止めて同級生たちの声がする校舎へ入っていった。
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