指先で触れて、

公開日時:2022年7月17日(日) 22:43更新日時:2022年7月17日(日) 22:43
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 蟻を一匹潰してみる。それと同時に、じゃりという音が鳴る。何も起こらない。ついでにもう一匹彼の隣にいた蟻を潰してみる。今潰した蟻はもしかしたらさっきのやつの彼氏かもしれないし彼女かもしれない、あるいは友人かもしれないが僕には到底わかるはずがない。そしてやはり何も起こらない。槍が降ってくるわけでも、蟻が悲鳴を上げるわけでもない。ただそこには毛玉の様に丸まった黒い二つのものと、指の形に合わせてできたクレーターがあるだけだった。この蟻の様になれたならどんなに楽だろうと考える。巨大な生物が地球に降り立ち僕だけを潰す。

 十代男性巨大な生物に潰され死亡

 そんな記事が新聞を飾っているのを想像してみる。ふっ、と思わず失笑してしまう。別に有名になりたいだとか、たくさんの人から愛されたいとかそんな願望があるわけではないが、より多くの人間に自分が知れ渡るというのは悪い気分ではなかった。ふと空に目をやる。シャボン玉が青い空の中でパチンと割れる。それが飛んできた方に顔を向けると、小さな子供がお母さんと思われる女性と、慣れない手つきでシャボン玉を膨らませていた。この子を世界中の人が見たら戦争なんてなくなるんじゃないか、と思うと同時に一人で蟻を潰していた自分を思い出し、こんな自分を戦争をしている人々が見たら何を思うのだろうと少しの思考を巡らせてみた。

 立ち上がり、ジーンズのお尻についた砂利を払い、両手を合わせ伸びをする。清々しいほどの快晴だった。こんなに良い空気を自分が吸っている事に対して少し申し訳なさを感じた。

 グレーのパーカーのポケットに手を突っ込み自分のアパートに向かう。美しい景色が霞み、一滴の水が頬を伝った。


 最後の呼吸をしようと大きく息を吸いお腹でそれを味わい、ゆっくりと吐き出す。良い味だった。今までありがとう。当てもなくそんな事を思ってみる。空への一歩を踏み出そうとする。

 本当にいいの?

 どこからともなくそんな声が聞こえてきた、気がした。周りを見回す。右を見て左を見かけた時、何かがいた。

 電線に一羽鳩が止まっていた。ただ羽を休めているだけなのだろうか、その姿は颯爽としていてまるでその周りだけ時が止まっているようでもあった。その鳩の頸から上は無い。自分の目を疑い擦ったが、その事実は変わらなかった。眼はないのにその瞳は僕を見つめているようで、美しかった。

 死という選択が僕に生を与えてくれると思っていた。でも、もう少し先延ばしにしてもいいのかもしれない。

 鳩と見つめ合っていた。長い間、ずっと。気がついたらそれはいなくなっていて、街灯すらないこの田舎の空には、ただ黙々と清らかな黒が光粒とともに膜を張って迫ってくるだけだ。

 蟻を潰していたことを思い出す。彼らは僕によって人生の終点が決まってしまったという微かな罪悪感が一時は胸を締め付けていたが、今となってはなんて烏滸がましいことを考えていたんだろう、と思えてきた。仮に僕が彼らを殺めていなくとも、石が、寿命が、もしくは他の虫が彼らの人生に終止符を打っていただろう。僕はただ天の定めの一部を担わされただけだ。

 

2

 瞼が重い。まるで床が僕を取り込もうとしているかのように体が起き上がる事を拒否している。時間はわからない。いつからあの時計が嘘をつくようになったのかも覚えていない。雨の音が心地良い。掛け布団を退け、自分を見つめる。

 面白いことに家族と暮らしているよりも、一人で暮らしているときの方が朝に寝坊することが少なくなった。自分しかいないという責任感からなのか、一人暮らしをするほど大人になったと感じているからなのかはわからないが。目覚めが良いわけではなく、辛いことは辛いがそれでも起きられている事実がある。母方の祖母の家があり、僕は母のことを父よりも好んでいたため、両親が離婚した小学校二年生の頃からこの町に住み始めた。祖母や祖父と暮らしているのが嫌で高校卒業と同時に家を出たが、どこか遠くへ行く勇気はなく、同じ町の実家と反対に位置するボロアパートの一室に住むことにした。大学には行かずにバイトに明け暮れ、たまにニシと彼の兄が営む居酒屋で、美化した過去を語り合うという毎日の繰り返しだった。

 

 冷蔵庫を開けると雨が止んだかと錯覚をした。昨日の出来事は夢のようだったという人がいるがまさにそれだった。自分はあの頸のない鳩を見たのか、自分は本当に死のうと思ったのか。でも三階建ての建造物から飛び降りようとしていた時点で、僕にその覚悟はなかったのかもしれない。

 コーヒーを朝一に飲むのは体によくないと知っていながら、やっぱり自分の体はそんな知識を気にも留めない。バイトのために顔を洗い、髪を濡らし、ドライヤーで整える。スマホの画面を見る、家を出るまで約二時間ある。

 自殺未遂は、「人間失格」を読んだ影響もあったのだろうか、いやないだろう。スマホを眺めながらふと考える。ただ単純に、人生に疲れていたのだと思う。でも彼女の失踪が心を抉ったことは認めなければならない。


3

 バイトはとてもホワイトだった。お昼に始まり、受付といわれるところに座り、たまにくる客相手に部屋の使用方法や、料金プランなどを伝え、簡単に部屋に案内をして彼らがいなくなったら掃除をする。レンタルスペースの事務員だ。何もない時間は本を読んだり、音楽を聴いたりする。母から家を出るときにもらった、廃れた白色の軽自動車を十五分ほど運転した、人口が僕の町の七倍ほどある隣町で働いている。 

 今日も客は少ない。こんな内容の仕事であるのに、一時間千円の価値があるのは、世の中の不条理を示唆しているのだろうか。

 ばっと椅子から立ち上がり、受付の部屋で読んでいた『メランコリア』をカバンに投げ入れた。三週間は生き延びれるくらいの貯金はあり(高校時代からコツコツ貯めていた)、必要なものは全てリュックに入れてきた。どうして自分がこんなことをしているのか、自分でも理解することはできないが、それでも自分から行動を起こした数少ないことの一つだから、とにかく始めてみようと思う。彼女に必死のアプローチをかけたこともそのうちの一つだ。


 高校三年の夏、なんの部活にも属していない僕は暇をしていた。受験なんて言葉は僕の辞書から数年前に排除されている。隣町の祭りに幼馴染のニシから誘われたため赴いた。活気があった、まるで国立公園の池の鯉のようだ。イカ焼きが好物だったので、ニシと僕は、ニシの兄がやっている屋台でたむろしていた。

 イカ焼きの半身一つください!

 彼女と目が合って、初めて世界に色があるということを知ったような気分だった。彼女は笑顔でイカ焼きをほおばりながら去っていった。ジュリという名前だと後でニシが教えてくれた。奇跡的に同じ高校に通っているということだ。どうして今まで彼女の存在に気づかなかったのか自分を責めたい。

 しかしそこからは恋愛映画の中にでも迷い込んでしまったのかという展開だった、夏休み明けの登校日に学校へ行ったら下駄箱に紙の切れ端が入っていて、中を見ると放課後体育館の裏に来てくださいと書いてあった、いたずらかと思って面白がってそこに行ったらジュリが立っていた、という妄想をしながら何ヶ月もかけてゆっくり彼女との距離を縮め、高校卒業とほとんど同じタイミングでなんとか付き合うことができた。デートに行ったのは二回。一回目は映画を観て解散。二回目に至ってはカフェで三十分話をしただけで帰ってしまった。キスなどは夢のまた夢だった。それでも僕は彼女のことが大好きだった。空っぽだった僕の心を幸せで満たして、まるで世界が入れ替わったかのように目に映る景色はどれも美しかった。

 

 そんな彼女が消えたのは付き合ってから五ヶ月が経った太陽が最も活気を帯びる八月のことだ。消えたと知ったのがそのくらいだからもっと早くからいなくなっていたのかもしれない。ある日から突然連絡がつかなくなり(それまでも大して頻繁にやり取りはしていなかったが)ニシに相談した。そして様々な人脈を使い彼女と連絡を取っている人物を探したが見つかることはなく、田舎者の僕たちは彼女は上京をしたという結論を出した。その一ヶ月後、つまり昨日、僕はあの頸のない鳩を見た。もう疲れていた。彼女という僕の生きる意味そのものだった一本の糸が、瞬きの間に切れてしまったようだった。でも死ななくてよかった。そのおかげで冷静になれたし、上京をするという大きな決断をすることもできた。もちろんそれは彼女のうっすらと揺らめく影を追いかけてのことなのだろう。

 

4 

 バイトの本社があるビルに駆け込み、七階までエレベーターで上がった。アルバイトの統括を行なっている、いかにも性格が悪そうな、酒っ腹で頭頂部からハゲが進行しているノサカという男を、エレベーターの扉が開き、探した。一番右奥に彼の上司のような男にペコペコと頭を下げているノサカを発見して、歩き出した。恐らくアルバイトなんかには一番見られたくない場面であっただろうが、もうアルバイトではなくなる僕には何も関係のないことだった。

 バイト辞めます。

 元気よくノサカに頭を下げて走って非常階段からビルの裏口へ出た。いかにも裏口っぽい輝く灰色の路地に出て、ゴミ袋に足を軽く引っ掛けたがそんなことはどうでもよくなるくらいの真っ赤な太陽が僕を迎え入れた。ようこそ世界へ。そんなことを言われた気がした。


5 

 何をしようかと考えながら新宿の汚れた美しい街を歩き回る。二時間くらい東京という巨大な人工物が蠢く街に圧倒されていたが、同じところばかりを歩いていたこともあり、段々と景色と空気のまずさと人の量には慣れてきた。働き蟻のように前だけを見て、どの一秒も彼らの全てであるかのようなその形相には、きっと慣れないだろう。時刻は正午を五分過ぎたところだ。手始めに映画でも観てみようと思い(もっと他にもやれることはあったであろうが)、いかにも古くからあるような映画館に入った。外観は東京の街には似つかない感じもしたが、これもその東京の街を形作っているものの一つなのだ。特に観たいものはなかったが白黒の時代劇を選んだ。恐らく人生においてこんな映画をチョイスすることは二度とないであろう。

 長かった。三時間は観ていたと思ったが実際は一時間半の映画だった。退屈で途中から寝ようとしたが、やけに音響が派手で大きかったため睡眠には至らなかった。

 ずっと暗い場所にいたためか外に出ると目を開けることができなかった。


 夜は、月の指令によって明るく照らされていた。

 この街は夜行性だ、と初めてながらにして思う。夜になると発光し自らの存在をさらに主張する。太陽に隠されていた部分が露出するのである。この街の夜を経験してみたいとずっと思っていた。テレビやスマホの画面の中に飛び込んだみたいだ。こんな形で実現するとは思わなかった。田舎者の僕には無縁の場所だと思っていたが、いつの間にか上京しこの街を動かす一つの細胞になっている。

 いつか僕は生殖細胞のような他とは違う、数少なく特別なものになれると思っていたが、それは飛んだ勘違いだった。僕はこの宇宙の細胞にすらなれない存在なんだ。それを彼女は教えてくれた、皮肉にも。

 ちょっと期待していた。自分には運命があって彼女はその運命の一部なんだと。妄想とは怖いものである。あれから数ヶ月が経った今でも、夢にまでは出てこないがふと考えてしまうことがある。

 バーは初めてだ。三個目でようやく入店を許可された。童顔なためか、服装がカジュアルすぎるためか、余所者はそもそもここにいてはいけないからなのか、理由はわからないが二つとも怖い顔をしながら追い出してきた。金を使おうとしてる客なのにもったいないなと思う。

 喧騒な街並みとは対照的に、海底に瞬間移動したかのようにそのバーは静かだった。場違いだな、と思いながらバーテンダーの右斜め前に腰掛ける。カウンターには赤色の革の椅子が七個ほど並んでいて、僕はその左から二番目に腰を掛けた。後ろにはU字型の心地良さそうな黒い革製のソファが二つ、丸いガラスのテーブルを囲んでいる。銀色の大きさが違う球体が三つ天井から下がっている。店は黒を基調とし、まるでブラックホールにでも包まれている気分だ。所々に鏡が配置してあり、店内が実際の倍以上大きく見える。

 客はカウンターの一番右側から上品な二人男女が座り、ソファの一方には二十代くらいの派手なネグリジェの女が二人、といかにも金持ちそうな端正な顔立ちの三十代前半とも十代後半とも見える金髪の男が一人、もう片方には、スーツを着た疲れた顔の無精髭を生やし、髪の毛が薄く小汚い男が一人、ウォッカが入ってそうなグラスを左手に握っている。ウェスモンゴメリーだろうか、そんな感じの音楽が店内を微かに揺らしている。

 僕は未成年のためにノンアルコールカクテルを注文した。これはインターネットで得た知識だ。酒類を飲んではいけない未成年はバーではノンアルコールカクテルを頼むべきだ、と。そもそもバーは未成年が行くところではないと言われてしまえばそれまでだが。ソフトドリンクではカッコ悪いしちょうどよかった。バーテンダーは豊かな白髪を七三分けにして、いかにもという風貌だった。口髭がいい味を出している。

 綺麗な逆三角錐のグラスにエメラルドグリーン色の液体が注がれていく。スッと僕の前に現れた、南国の海のような飲み物はただ美しかった。

 唇に冷たい海とガラスが触れた時、肩に何かが現れ驚いてグラスから青い液体が溢れ、ズボンに染みた。甘いブルーハワイの味が舌に伝わる。右肩の方に首を向けると何もない、と同時に左耳に擽ったい生暖かいものが触れた。また驚き、グラスを置くことすら忘れ、満杯だったものが半分以下になっていた。左に急いで首を回す。

 美しかった、世界が3Dになった気がした。彼女に会ったころよりさらに世界が進化した。次は4Dだろうか。女の顔が目の前にあった、甘く味付けをされた唇に彼女の甘さが上書きされた。唐突であったからそれを飲み込むのに六秒ほどかかった。その後やっと僕のファーストキスが彼女によってあっさりと、しかし濃く盗られたことを理解した。ふふ、と彼女が笑った。僕は頬を赤らめていただろうか、どこか遠くを見ていただろうか、半分もないカクテルをがぶ飲みしていただろうか、よく覚えていないが、唇に残った柔らかい感触はよく覚えている。彼女は細長い指を司る手で僕の頬を撫でた。

「可愛い子ね、いくつ?」と、お決まりであろうセリフを放った。

「えっと、先月十九になりました」彼女の全身を舐め回しながら答えた。もちろん文字通りではなく目で、だ。ノースリーブの黒色のニットに緑色のタイトなパンツ、上からいかにも高級そうな革ジャンを腕を通さずに羽織り、銀色の細いネックレスに漆黒色のハイヒール。一眼でわかる、彼女には敵わない。そんな女がどうしてこんな男に声をかけてきたのだろう。僕が蟻だとしたら彼女はケーキだ。僕が何匹集まろうとも、絶対に食べ切ることのできない。

 カタカナを駆使して彼女はバーテンダーに飲み物を頼んだ。

「ここのバーは初めて?私がご馳走してあげる」

 かっこいい。女の人にかっこいいという感情を抱いたのは生まれてから初めてかもしれない。別にこのくらいのセリフなら僕でも、そこにいるサラリーマンでも言えるのであろうが、彼女から出る魅力には到底敵わない。瞳と瞳が合わさる時に僕は、彼女に抱かれている想像をした。彼女の中に入りたい。瞳から彼女を抉り彼女の一部になりたい。

 新しい飲み物が差し出された。

 あ、僕頼んでないんですけど、というのは遮られ、言ったでしょ私のご馳走だって、と笑われた。笑われていい心地がするものなのかと、新しいことを覚えた。

「私ね、このバーによく来るんだけど、すごく好きなのこの空間が。なんていうかいろんな人種の人間がいて、もちろん出身とかそういうことだけじゃなくて、鏡みたいな空間だと思うの。唯一自分を正しく綺麗にありのままに映し出してくれる場所。自分をより深く、繊細に、醜く、良いところも悪いところも全て、私なんだって思わせてくれるの。ごめんね、球に語っちゃって。でもなんか君をみた時に思ったの、あ、また一つ私を深くしてくれる人に出会えたかもって」

 空間が歪み始めた。美しい女性には空間を歪めることなど容易いのだ。漆黒の闇に引きずり込まれていく。

 目が覚めたら僕は彼女を抱いていた。


6

 肌が直接擦れ合う感覚はそこはかとなく気持ちが良い。無論、服は着ている。昨夜飲まされた二杯目の黄色の艶かしい飲み物のせいだろうか(彼女の美貌によってではなかったのだろう)。目が合うたびにそれを飲んだ。四回ほど口をつけたところでそれは空になった。そこからはよく覚えていない。彼女の言葉も脳みそに届くことはなく、彼女の美しさすら通用しなかった。しかし今は少しだけ彼女の中にいる気分だった。永遠が欲しい。

 エマは突然目を覚まし、身支度を済ませて、行くよ、とだけ言って姿を消した。慌てて飛び出しエマの隣に並びながら歩く。外は朝日に焼けていた。人の流れは少ない。昨日のバーの非常階段から降りてきたようだ。二階にオーナーの所有する部屋がありそこを貸してもらっていたらしい。他にも自己紹介や昨日僕が倒れてから何があったかなどを話してくれた。人は少ないにしろたくさんの眼球がこちらを睨む。まるでゴキブリとアゲハ蝶を同時に発見したかのような、嫉みと憬れの含まれている眼だ。そしてそれはその通りである。どこに行くのか尋ねると、散歩と答えをもらった。こんな朝早くから新宿で散歩なんて誰がするのだろうか、でもエマといるなら何もかもがパレードだ。パレードのキャストのように道の真ん中を腕を組みながら歩いていく。


 この時ほど自分の目を疑ったことはない。エマの腕を引っ張り物陰に隠れようとしたが応じなかったので一人で物陰に身を潜めた。エマが視線を塞ぐように立ち、何してんのと聞いてくるのもお構いなしに彼女の腕を引っ張り背後に回した。

「なんなの」というエマの声は空気が飲み込んだ。

 ジュリがいた、昨日のバーで見た小汚い男と一緒に。男はジュリの耳に口を寄せ舌で舐めている。腰に手を回し男の方に抱き寄せている。ジュリは笑っている。吐き気が喉を覆い、口元を押さえる。

「大丈夫?」

 こんな美女にも腹が立つ自分が誇らしかった。

 気がついた時には男の頬を力の限り殴っていた。男はぐえという変な音を出しながら後ろに吹っ飛んだ。ジュリは大きく悲鳴をあげる、ミサイルでも飛んできたのだろうか。息を荒げながら男を見下ろす。

「ちょっとなんなのよ!」ジュリの声が耳を貫く。この感覚は何年ぶりだろう。綺麗な二重瞼に通った鼻筋、小さく潤った唇も何も変わっていない。赤いタイトスカートに両肩を晒している白のブラウス、ショートカットブーツ。シンプルながらも彼女の素材の良さが出ている。

「え、もしかしてアズマ君?」丸い目をさらに丸め彼女が訪ねてきた。そうだけど、の「う」と「だ」の間で鼻頭から上唇の間にとてつもない衝撃を受けて思わず尻餅をついた。そのまま僕は吐いてしまったが、昨夜は何も食べていないため出てきたのは胃液のみだ。ジュリとの感動の再会は汚らしい男のせいで台無しだ。

「大丈夫?」お姉さん気質なのかただのお節介なのか、エマが声をかけてきた。大丈夫と言って立ち上がり、男を無視してエマの腕を取った。

「行こう、こんなところにいたら危ないよ」僕はとんだお節介のようだ。「こんな汚いジジイのことなんか良いから一緒に行こう」いつからこんなくさいセリフを使いこなせる様になったのだろうか、自画自賛をしていると腕を振り解かれた。

「やめて。勝手なこと言わないで」と同時に二度目のパンチを喰らった。もう立つのも面倒くさい。

「おい小僧、これはビジネス、商売なんだよ。俺はこいつに金をやる、そんでこいつは俺の物になる。お前の出る幕じゃない」唾を飛ばしながら男は言った。何も言わなかったし、言う気もなかった。

 二人は立ち去った。

 彼女は僕たちが予想していた通り、ここにいた。生きていた。もう二度とあの透き通った目を見ることはできないと思っていた。本当に、ただ偶然に出会ってしまったみたいに、なんの溝も感じることなく自然に、彼女と話すことができた。

 顔面を擦ると赤黒い液体が手にこびりつき、顔の中心から外側にかけてとてつもない痛みが波のように広がっている。それでもジュリが僕のことを覚えていてくれたことが何よりも嬉しかった。


7

 エマとの日常は憂鬱を殺すことができる。あれから二週間ほどが経ち、エマとの仲も深まった。ジュリを探すのはもうやめた。見つけることができたし、これ以上彼女からは何も望まなかった。動いている姿を見れて満たされた。それに今の僕にはエマがいる。半分くらい彼女の中に入っている気分だ。エマは昼は仕事に出かける。その間に僕はバーのオーナーのお手伝いをした。彼はマンションを何棟も所有している男で、その一つの最上階に住んでいる。エマとはバーで知り合ったらしい。ゴミ捨てや掃除や、食事を作る。召使いのようだが、食と住は保証されていたため何も気にならなかった。エマは僕に夜の世界を教えてくれた。クラブで女を落とす方法から、金持ちと仲良くなる方法まで、世の中実際こんなものなのだ。人間は所詮この程度なのだ。複雑な技術や難しい知識もいらない、こんなことで僕は勝ち組になれたのだ。

 一週間ほど前に、何件かメールが来ていた。ニシからだった。

 元気にしてるか、ちょっと早めだけど地元残ってるメンツと、他にも何人も帰ってきてくれて同窓会みたいなのやるから、お前も顔見せくらいには来いよな、というものだった。

 当然無視をしていた。

 僕の過去と彼女は釣り合わない。

 過去は見えない、だからそんなものは捨てて仕舞えば良い。見えないものに価値はない。

 階段を駆け降りてエマのところへ向かう。今日はクラブ『コイン』の前で待ち合わせだ。途中で靴紐が解けていることに気づき、階段を三段降りたところの広場でしゃがむ。靴紐に手をかけた時に、蟻が一匹手の甲を駆けてきた。じっと眺め、全力で叩いた。と同時に鳩の群れが飛び立つ音が聞こえる。鬱陶しい。周りにも何匹も蟻がいた。全てを潰した。


 エマの踊りは魅惑的でありながら破滅的だ。まるで蛾のように周りのものの視線を奪い近づかせる、そして極限まで近づかせて、毒を撒き、殺す。

 レザーのタイトパンツに紅色のティーシャツ。まさに毒だ。彼女は僕の首に手を回し上目遣いでリズムを取る。こんな顔をされたらなす術がない。僕は彼女に吸われる花に、蜜になりたい。


8

 バーの二階に戻り、エマがシャワーの中にいる。あの踊りの後に彼女と同じ空間にいることが幻想でしかないと思わざるを得ない。翼が生え、鎧を纏っている気分だった。

 純白のバスローブに包まれた彼女を思い切りぐちゃぐちゃにしてやりたいと思い、彼女に抱きついた。僕は彼女になり、彼女は僕になることができたのだ。

 天国かのような朝だった。ずっとこのままであればなと思い、前に手を伸ばす。柔らかい感触と絹の擦れる音がする。

 誰もいない。

 頭をトンカチで叩かれたように起き上がり、部屋を見渡す。エマがいない他には変わったことはない。仕事に出かける時間だろうかと、携帯の時計を見る。ちょうど朝の五時になったところだ。仕事ではない。僕の鞄がなくなっていることに気づいた。急いで非常階段を降り、バーを覗いたが、闇が広がるだけだった。

 外はいつも通りの静寂と喧騒の融合だ。バーと隣の居酒屋の隙間から裏路地に出た。人通りはほとんどないが、シャッターが閉まり世界から締め出された様な気分だった。排気口からのモヤで覆われた空を座り込んで眺める、明るいのに先が見えない。

 とりあえずと思いエマに電話する、彼女の過去は削除されたらしい。電話には出ない。

 頭の中で糸が複雑に絡み合い、何をしていいのかわからなくなり、ニシに連絡をしてみる。過去の呪縛とは何よりも恐ろしいのかもしれない。手に持っていた携帯をアスファルトの地面に投げる。乾いた音とガラスが飛び散る。

 その視線の先の右側からふらふらと何かが近づいてくる。目の前のゴミ置き場で倒れたそれが、ジュリだとわかるまでに数秒を要した。顔は腫れ上がり、体には血の濁った塊が幾つもある。事情を聞いても何も答えない。ゆっくりと僕の隣に座るように運んだ。

 いつものように援助交際を行っていたら、ビデオの撮影すると言われ、それを断ったところこの有様になったらしい。なんて惨い仕打ちなのだ。

 こんな形で彼女と一番近い距離になれるとは思ってもみなかった。彼女は頭を僕の肩に寄り掛からせる。



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