わたしは露天風呂の湯船から立ち上がった。ざばぁと湯が流れ、からだから滴る。わたしは自分の左胸に手をやる。とくん、とくんと脈打っている。
いい湯だった。温泉というものは初めてだった。いや、実をいえばこのリオンと名乗っている肉体に宿るこのわたしにあっては風呂に入るという行為そのものすらもが初めてなのだが。
わたしという存在はとても不確かだ。
わたしの本体は、ダンタリオンと呼ばれる魔界の魔王である。かつてソロモン王に仕えた七十二柱の魔王のひとりで、地獄の大公爵。書物と知恵とを司り、自身の知識を蓄えることと契約者にそれを分け与えることを無上の喜びとする。ただし、ここが重要なのだが、全知の存在ではない。あくまでも博識なだけだ。そのへんはしょせん一介の悪魔である。
さて、そのダンタリオンが、急な気まぐれを起こし、出会ったばかりの正体不明の存在に関心を示した。肉体を持たない、ばかりか霊体すらも持っていないその命無き者に、自らの名の半分を貸し与えた。半名付与と呼ばれる、珍しい魔術だ。魔界でもあまり使うような者はいない。誰でも使えるわけでもないし。まあともかく結果としてダンタリオンの本体は二つに分かたれ、片方はダンテと呼ばれる男性の肉体、もう片方はリオン、つまりわたしであるところの少女の肉体になった。
わたしはダンタリオンの記憶と知識をすべて受け継ぐ存在だが、わたしという意識はあくまでもダンタリオンという存在からみて下位に位置づけられるプロトコルである。つまり、わたし自身は外見相応の精神と寿命しか持ちあわせない、ダンタリオン本体から見れば「部品」の一つに過ぎない存在、すなわち分霊なのである。
例えてみればそう、『ソロモンの遺訓』という書物が何者かによって書かれたとする。この書物の存在そのものが、悪魔ダンタリオンだ。それに対してわたしは、その一冊の写本に過ぎない。写本が消えても、書が消えるわけではない。そういう、それだけの存在なのだ。
さて、湯船の縁に腰かけて一人でそんなことを考えているうちに、湯にのぼせた身体もいい具合になった。そろそろ部屋に戻らなければならない。夕食の時間だ。それはいい。だが、わたしには逡巡がある。
何故って。
ダンテと顔を合わせなければならないからだ。
最前から述べているようにわたしは独自の意識を持った悪魔の分霊、つまり要するに実は精神的にも肉体的にもただの小娘なわけだが、ダンテの前ではダンタリオンそのものを受け継ぐ存在であるように演じている。だから「わたし」とは言わない。本体がそうしていたように、自らを「余」と呼んでいる。まだ知り合って間もないこともあって、ダンテはわたしのそういう表面上の態度にちょろっと騙されている。
だから気付かれてはいないのだ。この胸のときめきも。
ダンテは恐ろしいほどの美形だ。ダンタリオンは知識だけはあっても人間性というものの機微には疎いので、あまり深く考えずに彼にそういう肉体を貸し与えた。自分自身でもある存在が相手だとはいえ、正直たまったものではないという思いもある。
だって。
造られたその日に、いきなり男女ふたりで旅館で同部屋なんだよ? 何にも気にしてないと思う? いや……何にもしてこないとは分かってるけどさ……。
丁寧に身体を拭き、浴衣を纏い、わたしはしずしずと旅館の廊下を歩く。だが、自分たちの泊まっている部屋が近づくと、態度を改めた。あえて尊大な風を装い、ずしずしと歩く。わたしは悪魔だ。悪魔の大公爵なのだ。
……そうとでも気を張り詰めていないと、自分の脆さに耐えられないもので。
さて、部屋に戻ると既に夕食が室内に設えられていた。温泉旅館睡雲閣、自慢の料理である。
「おかえり。じゃ、飯にしようぜ」
「おう」
「で、これ何? どういう料理なの?」
と聞かれたので、
「京懐石だよ」
とだけ答える。厳密に言うと、京懐石なんていう料理のジャンルが存在するわけではない。京都で食べる懐石料理は全部京懐石である。だが、そんなつまらないことを説明してもしようがないので、黙っている。なお、正式な懐石であれば色々と作法が存在するのだが、今回は既に部屋いちめんに全ての料理が並べてあって、面倒はないようになっている。わたしはまだしもダンテは明らかに日本人ではない容姿(と名前)をしているので、気を利かせてくれたのだろう。
しかしダンテに説明しはしないが、わたしにはどれが何の料理なのか、ちゃんと全て分かる。何しろ博識なもので。今日の献立は、言うなれば鱧づくしだ。鱧の旬は初夏、つまり、今が盛りである。
鱧はウナギの近縁種で、姿も、食材としての扱いにくさも似たところがある。骨が多く、下処理に大変な手間がかかる。そういう事情もあって日本でも利用法は限られるのだが、京都においては高級食材として扱われる。また血液には毒があるが、これは熱で失活する。だから生では食べない。鱧料理はすべて加熱調理をするものである。
「この刺身、うまいな」
とダンテが言って箸をつけているのも、刺身ではない、鱧のおとしと言って、骨切りした鱧をゆがいたものである。白芋茎に少々酢をして茹でたものと、シュガートマトが添えてある。それに、美しい唐草大根の飾り。わたしも食べてみる。味付けは醤油ではなく、ゴマだれだ。
わーお。おいしー
能書きだけ知っていても、わたしだって京懐石なんて初めてなのだ。ましてやこんな高級旅館。お安くはないのだ、ダンテには金額などは一切教えていないが。
酒器が一人分だけ用意されているので、わたしはダンテに酒を注いだ。
「ほれ、杯が空いておるぞ。余が特に注いでやろう」
「お前は飲まないでいいのか?」
「酒を飲んでから風呂に入るのはタブーだからな。常識だ」
わたしの博識はあらゆる分野に及ぶのである。
「ひ弱な人間みたいなことを言うんだな。お前さんは悪魔の王なんだろう?」
「リオンとしての今の肉体には、人間とほとんど変わらない程度の機能しか備わっておらぬ。無理はできん」
ある程度の情報開示はしておくのが、隠し事のコツだ。
「そうなのか」
「ああ、お前の方は違うぞ。その身体は使い捨てだ。どう丁寧に使っても一年は保たんように出来ている」
これは本当だ。そんな嘘はつかない。
「む」
「だから好きなだけ飲め。そして遊興に耽れ。楽しむなら今のうちだ」
あえて大人ぶった言動を取るのは、自分の童子性(自覚はあるんです)を糊塗するためである。さて、こちらの料理は賀茂茄子に鱧の子(卵)の冷やしあんかけをかけたものだな。美味美味。
しばらく、黙ってふたりで食事を続ける。鮑と車海老と冬瓜の葛あんかけ、昆布だしと酒をきかせた鱧のしゃぶしゃぶ、鱧の身を花のように美しく見立てた牡丹鱧。
ところでわたしの知識以外の能力はほとんど人間と変わらないが、本体から受け継いで少しだけ、他者の心を読むことができる。いつもできるわけではないが、このときはダンテが「奇跡のようだ」と思っているのが分かった。何が奇跡だと思ったのかまでは分からないが、ハッタリを利かせる。
「奇跡ではない」
「奇跡とは、いと高き全能なるお方の力の名だ。お前のそれは余の恩寵の賜物だ」
「感謝する、と言えばいいのか?」
「そんなものはいらん。ネズミで実験をするときに、ネズミに餌をやらん学者がいるか?」
「ネズミか」
「くっく。不服そうだな」
「まあ、ネズミでも何でもいい。生き延びることができるなら」
「もしかすると勘違いをしているかもしれないから、言っておくが……」
喋ってばかりいないで食べよ。わたしは牡丹鱧の器に入った、吸物地をすする。そして椀を置いて、言葉を続けた。
「余はお前の正体を知ってこの好奇心が満ちたならば、その先のことまで面倒は見んからな。心しておくように」
わたしはあえて、突き放すようなことを言った。そうでもしないと、自分がおかしな夢を見てしまいそうだったから。
「ああ」
とあっさり返されて、自分で予測していた以上に自分のこころが衝撃を受けるのに、わたしは驚く。分からないように、分からないように、本音を一瞬だけ混ぜる。
「……つまらんな。澄ました面をしおって」
「何の話だ」
「なんでもない。ふん」
わたしは牡丹鱧の残りを齧り、横を向く。さて、最後に残ったのは鱧寿司。寿司といっても、今日一般になじみ深い握りずしではない。棒寿司を六つ切りにしたものだ。鱧を白焼きにし、付け焼きをして、隠し味に……ダメだ、流石に分からない。とにかく、何か隠し味を使って焼いてある。シャリは酢飯。さて、パクリと。
きゃー、お口の中が至福!
などと思っているが、ダンテの前では澄ました顔を貫くわたしである。最後に茶を頂いて、食事はお開きだ。仲居がやってきて膳を下げ、布団を敷いた。
枕と枕がくっつけてあるので、わたしは仲居に言って、ふとんを離してもらった。
「あらあら。可愛らしゅうおますな」
どういう誤解を受けたのか、そう言われた。
多少ながら心が読めるわけなので、ダンテがわたしをこの場でいま女として意識していないことは分かっている。分かっているが。
その手がふとんをめくるだけで。わたしは心の中でびくっとするのだった。
ダンテが完全に眠りに付くのを見届けて、わたしも眠った。
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