多分SFになる予定です。
Operation Chaos Girls 第一話
三十直前の疲れた女は救いようがないとは、良子が思いを寄せていた男が呟いた言葉だ。身体はいいんだけどよ、とも言っていた。夕方に実験室の恒温槽に入って実験をしていると外から聞こえてきた。その男以外にも他の部員が数人いるようだ。良子がいる部に三十直前の疲れた女は良子しかいない。恒温槽で実験をしながら溜息が出た。視界が歪んでいるのに気がついた。あまり長い間恒温槽にいると時々目眩がする。そのせいだろう。目を揉むと指が濡れた。泣いているらしい。手を目の前に置いてみると汚れている。化粧が崩れたようだ。
今出ていってお互い気まずい雰囲気になってもしょうがない。今の言葉は忘れよう。そうすれば明日には元気になれる。また勘違いでも好きになれる。良子はまた仕事に没頭した。
良子の仕事は地味だ。半導体の製造では世界トップクラスの企業の設計部門に勤めている。と言っても新製品の設計はやっていない。客から不良品として戻って来たICを試験して不良を解析するのが仕事だ。プラスチックの固まりから百足のように金属の足が出たICを実験室の片隅で紙やすりで磨いたりしている。
今日は車のエンジンのコントローラー用のICが返品されて来たのでそれを調査している。ICと言ってもそのICが付いている電子基盤ごとだ。朝の気温が低い時に不良が出ると言う事なので、基盤ごと恒温槽で零度付近まで冷す。恒温槽と言っても四畳半ほどある。当然良子も一緒に入る。冷え性ではないと言ってもやはり寒いのだが仕事なので仕方がない。会社の制服の上に白衣を着込んで、その上に厚手の男物の作業用ブルゾンを着ている。ブルゾンというより作業服だ。結構胸は大きいので、ブルゾンはやたら大きい物を着ている。胸が大きくても良子自身は得した事など一度も無いと思っている。それどころか損だ。電車で胸を触られた上、顔を見て舌打ちされたなどという経験など無い方がいいに決まっている。そいつに何も言えぬ自分も嫌だ。
良子は手についた化粧を側にある資料の清掃用のペーパータオルでふき取ると作業台の表面も磨く。静電気を逃がすため、ステンレススチールで出来た作業台は、鏡のように良子の顔を映すようになった。我ながら全く魅力が無いと思う。それ程不細工では無いのだが、特徴が無い。目も口も鼻もこじんまりしてのっぺりしている。
住む者もなく廃村になった生まれ故郷の山里のみんなは、同じ様な顔付きをしていた。その山里は交通の便も悪く、昔からの噂もあり外部から殆ど人が入ってこなかった。そのせいもあり極端に子供が少なかった。良子が最後の一人だ。おかげでその山里の土地は良子の物だが、売っても二束三文なので固定資産税を払い続けている。村の者達がお金は残してくれたため、生活には困っていない。
ペーパータオルで濃い目に付けているアイシャドウをふき取る。サンプル清掃用の特殊なペーパータオルは綺麗に化粧を落とすことが出来る。顔に浮かんだ脂もだ。ステンレスの作業台にまた顔が映った。
溜息がでてしまう。昔は顔にメリハリがなくてもそれなりに可愛かったつもりだったが今は何もなくなっている。まるでのっぺらぼうだと良子は思う。転がり続けて、削れて何もなくなった道ばたの石だ。
「くよくよしててもしょうがない」
元気を出すため大声で言ってしまい、顔が引きつった。実験室の外の声が止まった。ここにいるのを知られた。おもわず表情が歪む。これで駄目だ。明日からちょっとした会話も楽しめない。かん違いもできない。いつもこうだ。とにかく間が悪い。作業台に置いた両手の拳を見つめた。その間にぽたぽたと涙が垂れた。
仕事を終えて実験室から戻ると、課ごとに別れている部屋には課長しかいなかった。当然だ。もう少しで次の日になってしまう。大柄な課長は明日の会議の資料をパソコンで作成している。キーボードを叩く音が部屋に響いている。良子が入ってきたのに気が付いたのかキーボードの音が止む。
「どうだった」
「やっぱり進行性のパッケージクラックです」
パッケージクラックとはICのプラスチックの表面にひびが入ってしまう不良のことだ。だいたいそのICは壊れてしまう。
「困ったな」
課長は大柄でごつい顔付きの割に声は甲高い。というより子供っぽい。体格はエンジニアと言うよりラクビー選手の様に骨太で筋肉質だが、運動は一切やった事がないそうだ。ミットのような大きな手で頭をかく。
「これがX線写真です」
良子はUSBメモリーを課長に渡す。中にX線写真と測定データーのファイルが入っている。最近この課で扱っている製品のうち、比較的大きいICにパッケージクラックが多発している。良子はその不良の解析を受け持っている。
販売担当がお客からそのICを組み付けた電子基盤をもらってくる。まず外見のチェックをする。よく見るとICの隣り合ったリード線の間に半田屑などが付いてそれで誤動作する時などがある。それをピンセットで取るだけで直ることも結構ある。それが終わるといろいろな角度から写真を撮る。
次に、丁寧に半田を溶かしてICを剥がす。また外見のチェック、裏面の写真撮りなどをする。ICの電気的特性を測る専用測定機にかけた後データーを整理する。そういう地味な作業の繰り返しだ。 課長と今後の方針について少し話した。他にもこの種の不良が多発しているらしい。当分実験室こもりが続きそうだ。
「そうそう、貴子がまた飯でも食べに来ないかと言っていたよ。日曜日でも来ないか」
「そうですね」
課長の奥さんとは不思議な仲だ。以前アパートの近くの公園のベンチでぐったりしているのを助けたことがある。ホッソリとした体を震わせていたのを見かけて、アパートに連れて行って介抱した。貴子の衣服を緩めて楽にしてから自分のベッドに運ぶ。軽い貧血だったらしい。体力が無いようだ。
ベッドで力無く良子を見あげている貴子の目尻から涙がこぼれ落ちた。ごめんなさいと言われても困ってしまう。よく倒れて他人に介抱されるらしい。
少し休んで貰う事にした。貴子はぼそぼそと自分の過去を語り始めた。そこで課長の奥さんと判った。子供の時から体が弱く運動は殆ど出来なかったそうだ。それでも高校を卒業した後地元の大学に進んだ。二年の時、駅前通りの人混みで急に貧血を起こして倒れそうになり、課長に助けてもらったのが出会いだそうだ。
「熊の様にごついけど、とっても優しい人なんです。森の熊さんや熊のプーさんみたいなの」
その時の儚げな笑顔で判った。この笑顔は全てを相手に頼り切っている者がする笑顔だ。そしてその事が許されて望まれている者が出せる笑顔だ。
「羨ましい」
「取らないでね、私の熊さん」
そして、どちらからともなく笑い出してしまった。片隅に生きている者同士の様な気がした。貴子も同じ様な思いを持ったらしい。
良子が電話をしたところ、課長は貴子が学生時代の友達と会っていると思っていたらしい。絶句した後すぐに電話を切った。すぐにとんできた。課長が見たのは十年来の親友の様に話している部下と妻だった。
そんな感じで貴子に気に入られてしまったのか何かというと電話がかかってくる。貴子はあまり友人がいないらしい。山国育ちで体力がある良子が羨ましいといつも言う。嫌みではなく心の底からだ。こんな事でも誉められると嬉しい。電話がかかってくると夜遅くまで話している。時には課長の悪口を言い合ったりする。
「では伺います」
「そうか」
「ただソニーさんからお呼びがかかりそうな気も」
「その時は俺が行って来るよ」
お得意先の品質管理部からお呼びがかかれば行って頭を下げてくるのも仕事だ。良子は謝り要員でもあると思っている。不細工でも女は女と自分でも思っている。怒りにくい場合が多い。自分の会社の品質管理部からもお呼びがかかることが多い。
暫く不良解析の日程について課長と話した後、その日は帰宅する事にした。
夜の地下鉄は味気ない。色彩が沈んでいる。皆灰色だ。実際は色があるのだがそうは見えない。疲れて寝ているサラリーマン。何が不機嫌だか判らぬが、顔をしかめている学生。大声で携帯で話している主婦。化粧をしているOL。
良子もその一人だ。自分でも何が不満かは判らぬが、俯いている顔に浮かぶ表情が歪んでいるのが判る。先程から自分の前に立って上から胸の谷間を覗こうとしている男のせいかもしれない。酔っぱらっていなければ真面目そうな男はあからさまに覗いている。ただ吊革にぶら下がって下を見ること自体を取り締まる法律はない。
意を決して上を向き睨み付ける。視線が絡まった。丁度駅に着き減速している時だった。
「けっ」
捨てぜりふよりも短く、一言で嫌みを吐き出すと男は乗車口に向かう。ドアが開いた。出しなに捨てぜりふを吐く。
「女は顔だよなぁぁ」
既に下を向いていた良子は、自分の顔がよけい歪むのが判った。その男の捨てぜりふのおかげで良子に視線が集まりよけいいたたまれなくなる。その後五駅良子は我慢した。自分が被害者なのにと怒りでよけい表情が歪む。
駅に着くと勢い良く立ち上がった。その為胸が揺れる。周囲の視線が胸に集まる。胸だけに集まる。歪んだ表情のまま良子は地下鉄から降りると自動改札に向かう。ポケットから定期を出し差し入れようとしたとき横から割り込まれ先に行かれる。頬が軽く痙攣したが、その後に続いて自動改札から外にでた。ゆっくりと目の前の階段に向かい、ゆっくりと階段を上がっていく。
階段を上がりきるとそこは町の大通りに面していた。目の前の電柱の側まで行くと深呼吸をする。また胸が揺れた。酔っぱらいが胸の事でからかって行くが、今度は余り気にならない。初秋の夜の空気が美味しいからかもしれない。簡単なことで気分が良くなった良子は表情も和らいだ。アパートに向かい歩き出す。空を見ると星が綺麗だ。何となくせせこましいことが忘れられる。
理由は無いが手を振って歩く事にした。大きく手を振り足も振る。血の巡りが良くなりまた元気がでる。
「良子ちゃん、今日も元気がいいね」
駅から400m程の交番の前でお巡りさんに声をかけられた。髪がだいぶ白くなったそのお巡りさんは、良子が独身寮を追い出されてこちらに移ってきてからのつき合いだ。早田正雄という。
「ところでこの前の話は考えてくれたかい」
「えっと」
厳つい顔をしたその巡査長は良子の事をえらく気に入っているらしい。自分の息子と見合いをさせたがっている。気に入ってくれるのはありがたいのだが、巡査長の息子は三つも年下だ。あまり趣味ではない。それに自信がない。
「今は仕事が楽しいし」
嘘だが、断る理由も思いつかない。困っている良子の様子を察してか巡査長はそれ以上その話を続けなかった。
「そうかい。ところで最近変質者が出没するから気を付けるんだよ」
「どんな?」
「コートの前を開けて見せるそうだ」
良子は呆れ顔になった後微笑んだ。
「蹴り飛ばして逃げますから」
「無理をしてはいけないよ」
「はい。じゃ、お休みなさい」
「お休み」
良子はお辞儀をすると立ち去る。巡査長が敬礼をしたので、恥ずかしくなり顔が真っ赤になった良子は、足早にその場を立ち去った。50m程先の交差点を曲がると普通に歩き出す。アパートはすぐそこだ。急ぐ事もない。
2DKの部屋は広くも狭くもない。
「ただいま」
戸を開けても誰かいるわけではないがそういうのが習慣になっている。ただそう言ってからため息をついてしまう。ついてから寂しくなる。ローヒールを脱ぐとたたきから上がり、玄関脇の風呂場へ入る。ストッキングを脱ぎ洗濯物入れに入れる。足に血が回りほっとする。浴室に入ると、浴槽にお湯を入れる。
寝室と言うより要は全てをこなしている部屋で服をどんどん脱ぐ。下着だけに成ってキッチンに行くと冷蔵庫から缶ビールを取り出す。プルタブを引く。よく冷えているので炭酸の弾ける音はしても泡はほとんど出ない。右手で缶を目の高さまで持ってくる。左手を腰に当てて右足を少し前に出しポーズを作ってしまった。その光景を横から見たところを想像して吹き出してしまう。なんとなく気分が良くなった良子はそのまま一気に缶ビールを飲み干した。
もう一本缶ビールを取り出すと寝室に戻った。ベッドに座り込む。プルトップを引いて開くとまた三分の一ほど飲み机に置いた。ベッドに大の字で寝転がる。
「あ~~あ、私色気皆無よね。もてないはずだわ」
それ程残念そうな声には聞こえない。一人でいるのも慣れた。数少ない親戚もここ数年会ってはいない。大きい町で独りぼっちもいいものだ。暫くそうやっていた。ヘソの辺りが痒いのかぼりぼりと掻いている。そのうち思い切って立ち上がる。缶ビールを飲み干すと、ショーツの替えだけを持ち浴室に向かう。水でシャワーを浴びてさっぱりした。髪をよく乾かし寝室に戻ると、三面鏡の前に立つといろいろポーズを取ってみる。
「私プロポーションは最高よね」
お腹は平らに引き締まっているし、広い骨盤に支えられた腰の豊かさはモデルなど敵では無い。胸はミルクタンクと言っていい程だ。胸の下で手を組んで少し前屈みになってウィンクをしてみた。鏡に映った姿を見て溜め息を付いた。
「顔が地味過ぎるのよね」
三面鏡の前の椅子に座り込む。暫く顔を見ていた。溜め息をつくと立ち上がる。タンスからスポーツブラを取り出し豊かな胸を押し込むように付けた。上にTシャツを身に付けた。ピンク色のジャージの上下を身に付ける。軽く跳ねてみる。相当きついスポーツブラなので、胸は然程揺れない。
「さてと」
タオル地のサポーターを両手に付け、タオルなどを入れたナップザックを背負ってアパートの部屋を出た。
夜の空気は気持ちがいい。秋の夜中は寒いと言ってもいいのかもしれないが、山中育ちの良子には丁度いい。今度は胸をがっちりと固めたせいか走ってもそれほど注目はされない。のぺっとした顔つきもこういう時は便利だ。もっともジョギングをして上気した顔はそれなりに色気がありちらほら顔を見る者がいる。それはかえって気持ちがよかった。太い通りから入った場所ではあるが、この辺は街灯も明るく人通りも結構ある。ジョギングをしていくとコンビニに買いに行く近所の主婦に出会った。その女性は共稼ぎでこの時間にコンビニや少し離れたマーケットに買いに行くため良く会う。近所のお買い得情報などを話してから別れた。
公園に来ると高校生ぐらいのカップルがキスをしていた。良子が入って来ると慌てて離れた。知らんふりをしていると二人で手を繋いで公園を出て行く。
「若いっていいわね」
言ってから本当に羨ましそうな自分の声に何とはなしに落胆してしまう。ナップザックを背中から降ろすとベンチに座り首に巻いたタオルで汗を拭く。
「お見合いしてみようかな」
お巡りさんのごつい顔を思い出す。似ているとしたらあまり顔の方は期待が出来そうもないが、多分誠実な人ではと思う。しばらく想像をめぐらせた。少し体が冷えて来たのでナップザックを手に取り立ち上がった。この公園の芝生は出入り自由だ。中にはいるとゆっくりと体中の筋を伸ばす。座って股を開き上半身を前屈した。大きい胸が邪魔だが、体の前面は地面に着く。今度は後ろに足を回して腹這いになると海老ぞりになり足首をつかむ。毎日の運動は欠かしていないので柔軟性には自信がある。しばらく体をほぐした後立ち上がった。今度は拳法の型を始めた。小さい頃に故郷の村のお年寄りが教えてくれた。この里から出て一人で生きていくことになるだろうからとみっちりと教えてくれた。この二十数年間毎日欠かさず型の稽古をしている。もっとも穏やかな性格もあり実際武術としては使ったことがないので健康体操だと思って続けている。
「おう、やっとるな」
熱中していると声が掛かった。動きを止めてそちらを見る。使い古した自転車に跨りパトロール中の巡査長が公園に入って来た。夜この公園で型の稽古をしていると必ず廻って見に来てくれる。おかげで夜でも安心して稽古が続けられる。
「感心感心」
巡査長が来たので型の稽古を終えることにした。汗だらけに成ったのでタオルで拭う。良子は巡査長の前までやってきた。
「あの」
何と言って言いのか判らない。あまり熱心に言うと男に飢えている様に聞こえそうで嫌だし、さりとてあまりそっけなく言うのはおまわりさんに悪いと思う。良子がそう思ってもじもじしていると、なんとなく巡査長は判ったらしい。年寄りだけが出来る、優しい微笑みを浮かべた。
「息子に連絡させればいいかな」
「はい」
別に恥ずかしい事をしている訳ではないのだが良子は真っ赤に成った。
「携帯の番号を教えてくれるかな」
「はい」
翌日の昼休みに早速電話がかかってきた。巡査長の息子は誠一という名だ。やはりお巡りさんをしている。今日は非番なので待ち合わせる事にした。
「先輩楽しそうですね」
実験用の資材を買う為伝票を係りのOLに持って行ったところ、美樹というちのOLにそう言われた。彼女は部長秘書と部内の雑務を兼ねている。ぽちゃっとした華やかな感じの狸顔の子だ。男女問わず人気がある。
「そう?」
確かに浮かれているかもしれない。自分でもにこにこしているのが判る。良子は部内を見回した。部内はたまたま他には課長しかいない。課長は海外からの技術的な質問に答えてもう三十分以上の長電話をしている。良子は美樹の耳元に口を近づけた。
「実は今日デートなの。しかも三つ年下」
「へぇ~~。これで行かず後家のお局様から脱出ですね」
全くもって口の悪い後輩だ。美樹が可愛い割にはまったく男っ気が無いのはこのためだろう。男女問わず口で切りまくる。
「あら、美樹ちゃんも気をつけないとそろそろ私と同じ事言われるわよ」
「私は黙っていれば引っかかる人がいっぱいいますから。目指せ上流階級、玉の輿」
良子と美樹が無駄話をしていると国際電話をおえた課長がよって来た。
「高宮君、急に海外出張が入った。出張の用意を頼む。月曜にドイツ支社だ」
「はい」
美樹が早速航空券の手配などを始めたので、良子は席に戻るとパソコンから回路図エディターを開き設計を再開した。設計と言っても不良解析用の治具だ。残業に成らぬように凄い勢いでマウスを動かし始めた。
「黄山君」
「はい」
急に机が暗くなり横から声が聞こえた。課長が立っていた。良子が熱中していた為もあるが、この課長は大男の割に気配が無い。その為急に現れてびっくりする。
「今日は残業はしなくていい」
「えっ」
「あれだけ大声で話していれば聞こえるよ」
ごつい顔に優しい微笑みを浮かべてそう言われて、良子は耳まで真っ赤に成った。
「回路図は月曜日中に仕上げればいいよ」
「はい」
課長はそう言うと自分の席に戻って行った。良子は顔を真っ赤にしたまま作業を再開した。
課長の言葉に甘えて定時で会社を出た。巡査長に会わないように遠回りをしてアパートに戻った。軽くシャワーで汗を流し汗を落とす。この前買った直輸入のブラとショーツを身につける。上下で相当な値段がする。胸が大きくてもろくな事がない。
部屋に戻ると化粧をする。時間がかかったがいかにも薄化粧に見える様に念入りに厚化粧をした。
次に通勤用のスーツのうち胸が強調されるデザインの物に着替えた。これを着ると効果覿面に痴漢に遭うので普段は着ない。客先に謝りに行く時は結構効果があるのでそのときだけは着る。姿見で全身を見る。
「よし」
右手を握りしめてしまった。相変わらずプロポーションだけはいい。顔も苦労の甲斐がありいつもののっぺり顔からは脱出した。少しアイラインが濃いがこれはこれでいいだろう。姿見の前でクルリと回ったりポーズを取ったりしているといささか恥ずかしくなり頬が赤くなる。
「いい歳して、良子落ち着きなさいよ」
自分に言い聞かせる。深呼吸をした。五回ほど深呼吸をすると落ち着いてきた。
「そうね、おまわりさんに言われたから仕方なく誘ったのかもしれないし」
途端に鏡に映る自分の顔が醜く見え始めた。厚化粧もいいところだ。思わず溜息をつく。ベッドに座り込んで頬杖をして姿見を見る。
「すっぽかしちゃおうかな」
しばらく考えた。あの巡査長の息子さんならきっといい人だと思う。上手く行かなくてもきっときちんと負担にならぬよう断ってくれると思う。気が楽になってきた。立ち上がるともう一度クルリと回って最終チェックをした。
「うん、私はいい女」
思い切り思い込むために頷くとお気に入りのピンクのバッグを手に部屋を出た。
渋谷のモヤイ像の前はいつも待ち合わせの人でいっぱいだ。老若男女問わず皆人待ち顔で所在なくしている。急いできたため約束の時間よりまだ二十五分ほどある。しばらくつっ立っていたが少しうろつくことにした。まずすぐ側にある可愛い小物を売っている店に行く。やっぱり浮かれているのかもしれない。ちっちゃな熊のぬいぐるみを買ってしまった。レジまで行って恥ずかしくなってきたが仕方がない。少し赤くなりながら支払いを済ますと慌てて店を出た。
モヤイ像の前に戻るとギターを抱いた青年二人が歌っていた。足元を見るとCDが並んでいる。貧相な二人組みだがとてもいい声だ。CDの横のチラシを見ると新潟出身だ。チラシにはこんど地元の公会堂で全国放送のバラエティー番組に出る事が誇らしげにかかれていた。
確かに心を動かされる歌声だ。なんとなく自分が身体でリズムをとっているのに気が付いた。そのせいで胸が揺れている。おかげでスケベ面をして良子の胸を見ているサラリーマンがいるが二人の歌声のおかげで気にならない。横では女子高生二人が同じようにリズムを取っている。
五分ほどして歌い終わった。自然に拍手をしてしまった。
「素敵だわ」
良子が言うと二人はやっと良子に気が付いたようだ。初めは顔に視線が行き、すぐに胸に視線が釘付けになるが許せる気に成った。
「CD頂ける?」
「あっ、はい。五百円です」
良子が前かがみで足元のCDを取ると、唾を飲み込む音がした。胸の谷間が見えたのだろう。
「もう。駄目よ」
良子は身を起こすとウインクをした。二人組は真っ赤になった。良子は微笑みながらバッグから財布を出した。
「お釣りはいらないから、もっと聞かせて」
千円札を一人のジャケットの胸ポケットにつっこんだ。
「はい」
二人は意気込んで歌い始めた。
つづく
読み終わったら、ポイントを付けましょう!