Operation Chaos Girls 第四話
「資料は出来たかな」
「え、あ」
課長に言われて気が付いた。金曜日の午後一時半、目の前のパソコンの画面は同じ文字で埋まっていた。どうやら同じキーを押したまま眠り込んでいたらしい。
「その」
「弁当作りは出来る範囲にした方がいいぞ」
耳元で囁かれて顔色が赤くなった様な気がした。
「で、来週の出張の用意は?」
「これです」
クリアファイルに入れた資料を課長に渡した。良子のグループは係長や主任がいない。その為課長から直に業務が降りてくる。グループは良子の同期が一人と新人が一人いるのだが、同期は客先に長期出張中で、新人は研修中だ。課長は資料をざっと見ると良子に戻した。
「貴子に聞くといい。上手い手抜きの方法を知ってる」
そう言うと課長は自分の席に戻って行った。良子はしばらく手元のクリアファイルを眺めていたが立ち上がると、部屋を出た。寝ぼけ眼で廊下を歩き実験室に向かう。
「ありゃりゃ」
思わず奇声を上げてしまった。実験室の奥の小部屋の合成装置で先週と同じことが起きていた。装置の蓋を開けると試験管が中ほどで斜めに切断されていた。
「なぜかしら」
良子は腕を組み頬に手をあてて試験管をじっと見る。やっぱり胸が邪魔と思ったところでため息をつき部屋の換気扇を回して片付けを始めた。
「痛い」
試験管を摘まんだ指先に痛みを感じて慌てて手を引っ込めた。右人差し指の先端を見ると斜めに切れていた。何で切れたのかは分からぬがよほど切れ味が良いようで初め切り口がみえなかったほどだ。しばらくして切り口に沿って血がにじみ出してきた。
「痛い」
指先と試験管を交互に見ていた良子は目を丸くした。何も触れていないのにまた指先に痛みが走り、血がにじみ傷が浮き上がってきた。前の傷と合わせてX字に成った傷口を茫然と見た。
「心霊現象とか」
呟いてからあり得ないと思い、それで落ち着いた。右人差し指を目の前に持ってきてじっくりと見る。傷口は血のにじみでしか見えぬほど細そく、鋭い刃物で切ったように見える。
「なんだろ、これ」
よく見ると指先に透明な細長い結晶が付いていた。テーブルのトレイにあったピンセットを左手で取った。結晶をピッセットで掴む。目の前に持ってくる。しばらくピンセットをこねくり回して結晶を眺めていた。
「あっ」
力が入ったのか、結晶が割れてしまった。それと同時に結晶の軸に沿って平行にピンセットの先端が切れて落ちた。結晶の方は瞬時に蒸発したのか消えてしまった。ピンセットの先端自体は良子の胸で弾んでテーブルに落ち金属音を響かせた。
「我ながら大きい胸よね、ってそれはいいとして」
良子は呟きつつしゃがんだ。テーブルの高さに目を置いてそのピンセットの先端を観察する。切り口は滑らかで磨いたようにテーブルを映している。力でねじ切れたようには見えない。ピンセットで突っついてみても特に何も起らない。しばらくそうしていたが、とりあえずピンセットをテーブルに置くと洗面所で手をよく洗った。いつも財布に入れてある絆創膏を傷口に張る。
「白魚の指なんだけどなぁ」
呟きながら今度は合成装置の合成槽を覗き込む。LEDライトで照らしながらだ。
「この結晶のせいかな」
半分に切れた試験管の底に先ほどの細長い結晶が四本ほど沈んでいた。小物入れから先が長いピンセットを取り試験管につっ込む。静かに丁寧に衝撃を与えないように結晶を掴む。ペーパータオルをテーブルに敷き結晶を静かに置いた。結晶の回りの溶液がペーパータオルに染み込んで行く。LEDライトを結晶に近づけると、結晶はきらきらときらめく。
「ダイアみたい。誕生石なのよね」
しばらく左手の薬指に婚約指輪が付いている所を妄想した後、結晶の観測を再開した。何の変哲もない、無色透明の結晶だ。形は水晶のような正六角柱をしている。成長条件がいいのか表面に傷や変形がまったくない。持っていたデジカメで拡大写真を何枚も撮る。裏側を撮ろうとピンセットで掴んだ所だった。また結晶が割れた。同時にピンセットの先端とペーパータオルが結晶にそって切れた。結晶はまた消えてしまった。しばらく結晶があった所を眺めていた。ペーパータオルをどけてみると特に変化はないように見える。小物入れから倍率の高いルーペを取りテーブルの表面をよく観察する。
「やっぱり」
極々細い切れ目がステンレスの表面に付いていた。
あの後とりあえず実験室を片づけるともう一度同じ反応条件にして合成装置を動かした。現象自体は課長に報告していない。理由はない。面白そうなのでだれにも邪魔されたくないというところか。部屋に戻ると出張の用意を再開した。今度は目も冴えているのでどんどん進む。
「今日は早く帰ってもいいぞ」
「でも調子が出てますから」
課長が声をかけてきたがそのまま続けた。ふと気が付くと夕食の休み時間になっていて周りに誰もいなかった。しかも休み時間も終わりに近い。慌てて部屋を出て階段を下る。食堂に駆け込みタヌキそばを頼んだ。節約しているわけではなく良子はタヌキそばが好きなのだ。トレイを持ってテーブルに着くと、そばをすすり始めた。
「この一口が豚の元」
そんな事を言いつつ汁を一滴も残さず平らげ器を拝んだ。
「今度そば一緒に食べに行こうかな」
いつもの妄想も業務再開のベルに覚まされ慌てて食器を下げて階段に向かった。
「急におそばなんて」
「本官もそばは好きです」
またも二人は渋谷でデートとなった。翌日誠一は夜勤な為、朝飯代わりだ。渋谷にある蕎麦を肴に飲む居酒屋は五時からやっている。
「ところでその指はどうしました」
良子の人差し指のことだ。バンソウコウが巻いてある。
「仕事でです。細かいものを細工するから時々指先を切ったりするんです」
「そうですか、大変ですね」
「お巡りさんも怪我したりしませんか?暴漢から市民を守ったりとか」
「本官が駐在する所はそんな事はありませんよ。せいぜい酔っぱらいに絡まれるぐらいです」
誠一の仕事に話をもって行く。あの事は話したくない。何か面白いことになりそうな直感があり誰にも言いたくない。その後さしさわりがない話題が続いた。
「ところで、この前のはお見合いですよね」
「はい」
良子の問いに向かいの席の誠一は不思議そうに目をぱちくりとさせた。
「今のお付き合いは結婚を前提としたものですよね」
「は、はい」
しまった、早すぎたかなと思いつつも良子は続ける。
「じゃあ来週の旅行は泊まりにしましょう」
「はい、わかりました」
すこし引き気味に成っていた誠一も覚悟を決めたのかきちんと坐り直して答える。逆に良子の方が今に成って恥ずかしくなってきた。顔が赤くなっている。
「そうそう明日の朝食は持っていきますから」
慌てて話を逸らしつつそばをすすった。
「この結晶どう分析しようかな」
翌週の月曜日、いつものように実験室の合成装置の前で良子は腕を組んでいた。目の前のテーブルの上のペーパータオルには細長い結晶が九つ並んでいた。良子はピンセットを近づけては離すことを繰り返していた。結晶自身の解析は難しいので、現象と合成条件をまず調べることにした。
「まずは切れる方向だわ」
良子は結晶の一つをピンセットで優しく摘まむ。用意した目の粗いスポンジにそろそろと刺していく。運良く折れずに半分ほど埋まった。埋まった結晶の根元を使い捨ての安いピンセットで摘まみ横に曲げていく。曲げ角が五度ぐらいに成ったところで結晶が折れてピンセットの先端が切れた。別のピンセットで探るとスポンジに切れ目が付いていた。実験を繰り返すうちに結晶の折れた部分を中心に折れた結晶を含む円状の平面が切断される事がわかった。
翌日は切断出来る物体の種類を確認した。試しに棒状のダイアモンド砥石を切ってみたらあっさりと切れてしまった。切断面を顕微鏡で拡大して見るとダイアモンドの微粒子も綺麗に切断されていた。逆に柔らかいものはどうだと水中やアルコール中で折ってみたが特に何も起こらない。いろいろ試した結果、周りにある程度の酸素がないと切断は起きないようだ。逆に空気中なら空気も切れるようだ。レーザーをある程度広げて結晶の付近に当てて切ってみると一瞬光が円形に反射されたからだ。
もちろん良子はそんなことばかししていたわけではなく、仕事もこなしていた。ただ残業が増えてしまい昼休みは机でつっぷして眠っていることが多く、美樹にはおまわりさんって元気なんですねと言われてしまった。反論しても無駄なのでほおっておいたが同棲しているぐらい言われているかもしれなかった。
翌日は顧客にクレーム処理の結果報告をしに行った。胸の相当開いたスーツで派手なアクションでプレゼンテーションしたせいで受けはよかった。良子のグラマラスな容姿と整然とした説明に違和感を持って混乱している顧客に課長が上手くつけこみ話をまとめた。
「それにしても今日は一段と艶やかだな」
「最近また胸が大きく成っちゃって」
「ん~」
「大丈夫です。セクハラだなんて言いませんから。私と課長の仲ですし」
「貴子も同意見だ。あの胸は反則だと言っている」
顧客からの帰りは、もう遅くなったので会社に寄らず帰ることにした。この前誠一とデートした居酒屋で蕎麦料理をつまみに飲んでいる。
「ところで最近実験室によく行くね」
「パッケージクラックを早く分析しないといけないですから」
「それだけかい?」
課長は良子をじっと見る。大柄だが課長はあまり迫力がない。とは言えじっと見られると良子も言葉に詰まる。
「その~~」
「犯罪行為じゃないだろうね」
「いえいえ」
良子は右手を顔の前で左右に振る。
「偶然見つけたんですけど」
良子はここ数日の経過を報告した。
「てな訳でもう少しまとまったら報告しようと思ったわけで。結晶がパッケージクラックに関係しているのも確かだし」
良子は両手の平をスラックスの股の間にはさみ身を縮こませて上目遣いで課長を見た。
「まあ、業務に関係あると言えば言えるようだが」
課長がじっと睨むので良子はますます身を縮こませた。
「黙っていてやるかわりに、私の言う事を聞いて貰おう」
「え?」
課長が口元をねじる嫌な笑い方をした。
「最近貴子が疲れて寝込んでいててね」
「ええ~、だっ駄目です課長。不倫はいけません。それに私にはもうフィアンセが」
「何を勘違いしているのかな?」
課長の笑いが優しい物に変わった。
「私は週末貴子を元気付けに来て欲しいと頼むつもりだったのだが」
「なんだぁ、脅かさないで下さいよ」
「ところで今フィアンセがいると聞こえたような。そこまで話は進んでいるのかな?」
「いえ、その、言葉の綾です」
「ほう」
「で、週末はいそがしいので」
「なるほど、挙式前の準備は大変だな」
「もう、課長まで」
家に帰ると誠一からメールが届いていた。週末は泊まりで甲府の温泉宿を予約したそうだ。
「とうとうね」
ベッドに坐りパソコンの画面を眺めていた良子はお腹をさする。
「胸は完ぺきだけど」
呟き立ち上がる。いつものピンクのジャージに着替え始めた。
「私の取り柄はナイスバディーだわ」
いつものリュックを肩に防犯ブザーを手に家を出た。
「いっぱい出来てるー」
翌日実験室の合成装置を覗いた良子は思わず声を上げた。試験管には結晶がびっしり詰まっていた。設定を変えて合成溶液内に酸素が無くなるようにしたせいか、試験管も何ともない。試験管はゼリー状の物質に包まれた結晶で満たされていた。
「こんなに簡単につくれて斬鉄剣より切れる結晶。応用範囲は無限だわ。次は原理と更なる使い勝手の向上だわ」
良子は思わず右手を握りしめた。そのポーズでしばらく試験管を見ていたが、合成装置のターミナルの前に戻る。ここ二週間の使用記録をUSBメモリに移して消していく。
「みんなの豊かな老後のためよ」
ぶつぶつと呟きながら完全に記録を消去した。証拠隠滅が終わった後はまた応用の研究に移る。結晶が大量に出来たのでいろいろ楽しめそうだ。まず結晶をいくつか取り出してスポンジの上に縦方向に並べた。一番端の結晶を折ってみる。
「へ~」
思わず声が出た。結晶は連鎖的に折れてスポンジは見事に両断された。しかもいつもより深い位置まで切れている。今度はスポンジではなく、古くて捨てるつもりだった硬質プラスチックのマウスパットにランダムに20個程置いて端の方の結晶を折ってみた。
「やばいのかも。これって世界最強の武器の元に成るわ」
結晶をばら蒔いたマウスパットだけではなく、下のステンレスの台もずたぼろに成っていた。いろいろやってみたが遮蔽物に成るものは何もなくとにかく切れるようだ。
「次は持ち運びをどうするかだわ」
結晶の入った試験管をアルコールでいっぱいにした後脱酸素材代わりの金属粉末を入れた。しっかり蓋をして、サンプルを入れる丈夫な金属ケースに入れて手下げに入れる。片づけた後社内の図書館に向かった。文献を漁ってみたがこの結晶の切断現象のヒントに成る物はなかった。元からそう簡単に見つかるとは思えなかったので、特に気落ちする事も無く事務所に戻るとまた資料作りを再開した。
そんなこんなで週末がやって来た。定時近くに成りそわそわし始めた良子に、課長が早く帰れと笑いながら言ってくれたので言葉に甘えて帰る事にした。家に帰ると誠一からメールが届いていた。明日と明後日は温泉づくしに成るようだ。甲府の勝沼にはぶどうの丘という町営の施設があり、ワインの試飲所や温泉宿泊施設がある。そこから周囲の散策と温泉巡りをするそうだ。
「飲み過ぎないようにしないと。お巡りさんは問題がある人とは結婚出来ない訳だし」
ベッドに座ってメールを見つつ呟いていた良子は、急に立ち上がると冷蔵庫に向かった。
「お弁当の材料が無いわ」
寝室に戻りジャージに着替えてリュックを背負い手に防犯ベルを持って家を飛びだした。近くのスーパーに走って向かう。スポーツブラに着替えてはいるが全力疾走すると胸が揺れてしまい走りにくい。もっとも全力疾走のおかげで閉店間際のスーパーに駆け込む事が出来た。
「安いわ~~。これなら大量に作れるわ」
まず肉のコーナーに行くと、数少なくなった胸肉のトレイに割引のシールが貼ってある。三割引きのシールの上に五割り引きのシールが貼ってあり、それでも売れ残っている。ただ賞味期限が明日辺りの物だ。
「誠一さんは胃は丈夫だし。でもお巡りさんは腹痛で休めないし」
横を見ると割引のシールの無い物もある。
「ここでけちってもしょうが無いわ」
コーナーの端の方にある地鶏の胸肉を1kg程かごに入れた。次は野菜のコーナーに行き椎茸とエノキダケを二パックずつ買う。これは甘辛く煮ておにぎりの具に使う予定だ。それ以外にも卵一パックに漬物などをかごに入れた。柿とリンゴもだ。他にも調味料などをかごに入れレジで支払いを済ましリュックに全て入れると今度はゆっくり家路を歩く。
「あ、お父さんこんばんは」
考え事というより妄想を廻らせていた良子は、巡査長の自転車が近くに来るまで気が付かなかった。またついお父さんと呼んでしまい顔が赤くなったがもうこの際と特に何も言わない事にした。
「こんばんは。まだまだ夜は物騒だよ、よそ見しないで歩こうね」
「はい。気をつけて帰ります」
「じゃパトロールを続けるから。お休みなさい」
「お休みなさい」
巡査長が優しく敬礼をしたので良子は腰を折った。しばらくして頭を上げると巡査長は自転車で去って行くところだった。
「お父さんっていいなぁ。呼んだことないし」
しばらく後ろ姿を見ていた良子は、昔母に聞いた、自分が生まれてすぐ事故で死んだ父の事を想像しつつ家路を急いだ。家に着くと軽くシャワーを浴びてから明日のお弁当の下ごしらえを開始した。
「眠い」
もともとのっぺりとしているせいか顔はあまり普段と変わりはないが、セミロングの髪は洗濯して絡まったストッキングのようだ。パソコンの脇のクマさん目覚ましは五時を指している。左手を伸ばして騒がしい目覚ましを止めたはいいが体ごとベッドの下に落ちそうに成ってしまい慌てて箪笥に手をかけて事なきを得た。しばらくその不安定な体勢でいたが、勢いを付けてベッドの上に戻った。
結局昨夜は遅くなってしまった。下ごしらえしつつ妄想が止まらなかったせいだ。それに自慢のボディーをぴかぴかに磨き上げるため風呂もやたらかかってしまった。今日は八時に誠一が向かえに来る。それまでにいろいろやることがある。寝ぼけ顔のままベッドから降りる。パジャマの方も脱げかかって色っぽいと言うよりだらしない様子だ。スリッパをつっかけそのまま風呂に向かう。シャワーを浴びると頭もしゃっきりとして、髪の毛も落ち着いた。
ガウン姿のまま昨夜下ごしらえをしておいた弁当づくりに取り掛かる。昨夜の奮闘のおかげで順調に進んだ。あらかた終わったところで、自分の朝食も作り始めた。弁当を作り終わったところでやっと落ち着き朝食を平らげ始めた。
「私は美人」
シャワーを念入りに浴び、無駄毛のお手入れを済ませ、着替えると化粧へと移る。念仏のように自己暗示をかけつつ化粧をすると普段より上手くいっている気がした。化粧は七時四十分に終わった。
「完璧だわ」
鏡の中には不自然でない程度にくっきりとした良子の顔が映っている。しばらくすると鏡の中の顔が崩れ始めた。妄想タイムの始まりだ。
「あっ」
念のためセットしておいた目覚ましがダイニングテーブルで鳴り始めた。七時五十分だ。時間には正確な誠一は大体五分前にやってくる。ダイニングのテーブルで待つことにした。
「化粧濃過ぎるかな」
今度は悪い方向に妄想が膨らんでいく。
「ひゃはい」
おかげで呼鈴が鳴った時、変な声が出てしまった。
「ただいま、行きます」
慌てて粗相をしないように努めてゆっくりと玄関に向かった。
つづく
読み終わったら、ポイントを付けましょう!