Operation Chaos Girls 第八話
翌日は朝寝坊して慌てて支度した為、良子はニュースなどを見る暇がなかった。その為、会社に着くまで何も知らなかった。出社すると、何か様子が変だった。いつもは一番に来ている課長もいないし、課員もひそひそ話をしている。何だろうと不思議がっていると美樹が良子を見つけてやってきた。
「せんぱい、貴子さんと連絡しましたか?」
良子は誠一の事をどうして知ったのかといぶかしげに美樹を見たが、美樹の様子がいつもと違う。からかっている様子ではない。むしろ心配しているように見える。
「何かあったの?」
「課長が逮捕されたんです」
「え~」
思わず大な声を出したせいで、課員の目が一斉に二人の方に向いた。良子は慌てて口を押さえた。
「うちの会社って輸出規制に引っかかる製品有るじゃないですか。それを本来売ってはいけない国に輸出していて、それを企てたのが課長だって」
「うちは販売部門じゃなくて技術よ。そんなこと企んだって出来る訳無いじゃない」
「そうなんですよ。だから不思議で。ポンちゃんに聞いてみます」
「ポンちゃんって?」
「滝沢専務です。子供の家庭教師していた事があったので、今でも懇意にしてるんです」
「あ、あの男やもめの滝沢専務。相手は美樹ちゃんだったの」
「清いお付き合いです。というか、息子の幸太君と結婚の約束をしてます」
「あ、そ」
美樹は口は悪いが実にもてる。これで気落ちする社員がいっぱいいるだろう。
「ともかく先輩は貴子さんを慰めてあげないと」
「そうね。ちょっと出てくる」
良子は立ち上がると、実験室に向かって歩いて行った。予想どおりだれもいない。部屋の片隅に小さい無音低反響室がある。入り口の使用者の名簿に記入して札を使用中にした。中に入る。スマフォを取り出すと貴子に電話をかけた。貴子は電話番号は親戚と良子ぐらいしか教えていない。そのせいか直ぐに電話は繋がった。
「貴子さん、私よ」
「良子ちゃんなの?」
「そうよ」
良子の声を聞いて安心したらしい。そのせいで緊張が解けたらしく、貴子は電話の向こうで咳き込み始めた。二分ほど咳が続いた。
「もう、何がなんだか」
「判った。そっちに行くわ」
「でも、マンションの前は記者が山の様にいて入れない」
「大丈夫、記者のことは任せておいて。一時間でそちらに行くから。何かそれまであったら、私に電話してね。何も準備しないでいいからね」
「わかった、待ってる。私怠くて立てないから。寝て待ってる」
「気をしっかり持ってね。また後で」
「うん。お願い早く来てね」
「任せておいて」
良子は電話を切った。良子は部屋を出ると、自分の課に戻り、主任に有給の申請をした。
「お兄ちゃん頼みがあるの」
「課長さんの事かい?」
家に帰って啓介に電話すると、啓介の方が情報を持っていた。課長や貴子のことはよく話すので啓介も知っている。
「ともかく、修おじさんに弁護を依頼してくれない。私は貴子さんに会いに行くから。なんかいい手無い?マンションの周り記者でいっぱいらしいわ」
「ちょい待ち」
啓介は少し調べたらしい。五分ほど待たされた。
「課長さんのマンション五階建てで、大通りに面した四階に部屋があるだろ」
「そうよ」
「通りの反対側に建築中の七階建てのマンションがあって、今資金難で建設が中断中だ。お前そのマンションの六階から例のバトンで課長さんのマンションの屋上に行く度胸有るか?」
「それ、不法侵入じゃない?」
「貴子さんは来て欲しいんだろ。覚悟あるか?」
「ある。貴子さんの為だもん」
「じゃ、手配する。おじさんにはこちらから課長さんの事を頼んでおく」
「ありがとう」
「じゃ、迎えにいくから準備しておけ」
「了解」
啓介は電話を切った。良子は動きやすい服に着替えバトンを用意して啓介を待った。十五分後啓介の車が良子のアパートの前に止まった。
課長と貴子のマンションの周りは記者がたむろしていたが、その隣の建設途中のマンションは人気が無く静まりかえっていた。人目に付かない所から啓介と共に入り込む。中は当然動力は来ていないので、エレベーターは動いていない。六階まで上がるのは一苦労だ。
「おまえは体力有るな。俺はヘトヘトだ」
「お兄ちゃんは昔から怠けすぎ」
機材を入れたリュックを背中にしょって登ってきた良子はほとんど汗もかいていないが、手ぶらの啓介は汗だらけだ。
「俺は頭脳派なんだ。お前みたいに見るからに肉体派とは違うのさ」
「ま、褒め言葉ととっておくわ」
「男が出来るとこれだから」
「誠一さんが満足してるからいいの」
無駄話をしつつも良子と啓介は準備を進める。啓介は携帯端末を取り出し、情報を確認している。良子はリュックから測定機器を取り出した。貴子のマンションの屋上の高さを測る為だ。距離と高さが正確にわからないと、往復できない。測定機器と言っても距離と角度が判るゴルフ用の単眼鏡だ。啓介が用意した。
「おい、こりゃやばいぞ。裏の情報だけどな」
「なに、お兄ちゃん」
「お前の所の課長は生け贄だ。お前んとこの上の専務、滝沢って言うんだろ」
「そうよ」
「お前んとこの会社の権力争いに負けたようだ。その巻き添いだな。対立している専務の子分が実際にやらかしたのを押しつけられたようだ。お前んとこの会社の規模だと、検察や警察、マスコミも手が回っているな。下手すると課長は留置場で殺されるぞ」
「酷い」
「お前貴子さんに味方するって事はそれらも敵に回す覚悟あるのかい?」
「当然よ。貴子さんは肉親みたいなものよ」
「でも、警察が敵に回るって事は、誠一君も敵だぞ」
良子は啓介に言われて固まってしまった。しばらくしてまた測定を再開した。三脚に単眼鏡を取り付けて屋上の高さを何度か測る。
「もし、それで誠一さんが敵に回るなら仕方が無いわ。貴子さんは東京に出てきた私の居場所を作ってくれた人だもの」
「そうかい」
啓介は黙った。しばらく良子が触れる測定機器の音だけがした。
「あのマンションの屋上はここの床より十五センチメートルだけ低いわ。折りたたみの椅子を持って行けば帰れる。貴子さんも連れて帰るつもりだから、何処か滞在場所の確保もよろしく」
「判った。手配しておく」
良子は機材をリュックに収めていく。手袋を取り出すと手につける。あとバトンと折りたたみの椅子も取り出した。椅子はハンカチでよく拭く。
「それにしても良子は生き生きしてるな。ま、うちらのご先祖様は民間の始末屋だったって言うしな。血が騒ぐってやつか」
「村の長老が言ってたあれ?幕府とかの汚い仕事とかやっていたっていう話?流石に法螺話でしょ」
「でもお前が習った拳法は凄い独自で、異質だって言われてただろ。それにただの寒村があんな金貯まるか?」
「そうだけど、私はお巡りさんのお嫁さんになるからいいの」
「どう言う理屈だ。ま、ともかく貴子さんの逃げ場は確保しておくよ」
「お願いお兄ちゃん、じゃ行くわ」
「おう、気をつけてな」
良子は言われてウインクして見せた。ただ失敗して両目を瞑ってしまった。
「だからそれは誠一君にやってやれ」
「そうするわ」
良子は貴子のマンションに向き直った。バトンを右手で振り下ろした。空間に割れ目が出来て、貴子のいるマンションの屋上の入り口の建物がその向こうに見えた。良子は割れ目に飛び込んだ。特に違和感も無く割れ目を通り過ぎて屋上の上に出た。屋上の床は測定したとおり十五センチほど下だった。ゴム底の靴を履いてきた為、着地時にほとんど音はしなかった。良子は蹲って辺りを見回し気配をうかがった。特に音はしない。屋上の真ん中辺りに降りたので、下の大通りからは良子は見えない。建設途中のマンションを見ると啓介が手を振っていた。良子は持ってきた折りたたみ式の椅子を組み立て屋上の入り口に向かう。ドアの横に置いた。
屋上の入り口には内側から鍵がかかっていたがバトンの一振りで切断した。出来るだけ音を立てないようにドアを開く。ドアはそれほど軋まなかった。階段を音を立てないように降りていく。五階まで降りたところで、階段の陰から廊下を覗くが誰もいない。良子は何食わぬ顔で廊下に出て歩いて行く。エレベーターに着くと四階に降りる。四階の廊下にも誰もいない。貴子の部屋の前まで音を立てずに歩いて行く。ドアのインターホンを押そうとして手を止めた。念のためスマフォを取り出すとメッセージを貴子に送る。数分待った。反応が無い。電話をかける。やはり出ない。何かおかしい。背筋がぞわぞわする。何か起きている気がする。それと共に少し興奮しているのが判る。何かこの状態を楽しんでる自分がいる。
「貴子さん、大丈夫?」
インターホンを押すと出来るだけ自然に声を出した。
「鍵貰ってるから開けるわよ」
ドアのノブをカチャカチャさせながら、バトンで鍵を切断した。チェーンロックはかかっていない。
「お土産にモンブラン買って来たわ」
ドアを開けてわざと音を立てながら入って行く。ドアを後ろ手で閉める。部屋の間取りは判っている。2LDKで玄関を入ったところにダイニングキッチンがありテーブルが見える。貴子は外出する格好のままテーブルに突っ伏して寝ていた。テーブルには薬の瓶が転がっている。睡眠薬の瓶だ。おかしい。貴子はむしろ寝付きは良い方でどこでも寝てしまうたちだ。貴子のものじゃない。
「どうしたの貴子さん」
良子は部屋に飛び込んだ。ただしフローリングの床を仰向けで滑り込むようにだ。間取りは判っているので入り口から見えない部分を見えるように、滑り込んだ。フローリングの床は掃除が行き届いていてよく滑る。滑りながら入り口からは見えなかった死角の位置を見る。その死角には男がいた。特徴が無い男だ。その男は流石にびっくりしていた。大女が仰向けで滑り込んでくれば唖然とする。良子はバトンを振った。男の手に拳銃の様な物が握られていたからだ。慌てていたので振り方をしくじった。腕だけ切り落とすつもりが、男の身体の真ん中から真横に切れ目が入りずるりとずれ、上半身が落ちた。何が起きたのか判らない男は二三度痙攣したが直ぐにショック状態になり動くのをやめた。
「ひひゃ」
まだ立っている男の下半身と、落ちた上半身と両手からは血が吹き出ている。幸いな事に良子も貴子も血は浴びていない。ただそれを見て良子の口から変な声が出た。すごく現実感が無いが人を殺したらしい。慌てて立ち上がる。何か悪夢の中のような感じだ。ともかく貴子だ。近寄って見たが怪我は無いようだ。ただ呼吸が変だ。実際睡眠薬を大量に飲まされているのかも知れない。良子は貴子を肩に背負った。凄く軽い。少しうらやましいが貴子の手がだらりと下がる感触が怖くすぐにそんな感じは消えた。男の血を踏まないようにマンションの部屋を出た。幸いなことに誰も他の住人はいない。エレベーターと階段を使って屋上に上がる。現実感が無いままだが、ともかく貴子を救わなくてはという考えだけが頭の中を回っている。
「お兄ちゃん、そっちはOK?」
「おう。こちらは誰もいない。いつでもOKだ」
「貴子さん睡眠薬を大量に飲まされて呼吸が変。とにかくそちらに連れて行くから」
「判った」
片手でスマフォをかけるとすぐ啓介が出た。啓介のことだから直ぐに手配はしてくれる。ドアの横に置いてあった椅子を持って屋上の真ん中に行く。椅子の上に立った。バトンを振った。空間に割れ目が出来て、啓介のいる部屋の真ん中が見える。貴子が割れ目の縁に触れないように気をつけつつ良子は割れ目に飛び込んだ。
「無事か?」
ぐったりとしている貴子を見て啓介が心配そうに言った。
「多分、殺し屋?みたいなのに睡眠薬を大量に飲まされてた」
「そうか、直ぐに医者に連れて行こう」
「お兄ちゃん、多分その殺し屋、私殺しちゃった」
「殺しちゃったって、お前」
「バトンで身体の真ん中を二等分したから。多分生きてない」
「そうか」
「どうしよう。殺人犯じゃお巡りさんのお嫁さんになれない」
「そうかもな。今はともかく貴子さんだ」
「うん」
良子は貴子を担いだまま一階まで降りた。啓介が外の様子を伺い、人通りが少なくなったところで、路上駐車していた啓介の車に移動した。良子と貴子が後部座席に座ったところで啓介は車を走らせた。
「ちょっと恩を売ってある医師の所へ行く」
「もぐりの医者とか?」
「普通の開業医だ。ちょっと税金の面倒を見てやった事がある」
「そう」
啓介はそれから黙って車を走らせた。
「お兄ちゃん。私おかしい。誠一さんと結婚出来ない事しか頭に浮かばない。人を殺したのに罪悪感とか浮かばない」
「そうかい。どっちにしても俺はお前の味方だ」
「ありがとう」
「それにしても、貴子さんまで手が回っていると成ると留置場の課長さんも危ないな」
「そうかな。それなら、毒を食らわば皿までよ」
「脱獄か、まあ最後まで付き合うよ」
啓介は肩をすくめた。
翌々日の二十二時、良子は杉並警察署の裏手にいた。表は南阿佐ヶ谷駅のそばで夜でも賑やかだが、裏手は住宅街に面していて静かだ。先々日はあの後貴子を啓介の知り合いの医師に診せた。啓介に恩があるとの言葉通り事情は聞かず診てくれた。胃洗浄をして、睡眠薬の拮抗剤を与えられた貴子はとりあえず命に別状は無いそうだ。まだ眠っている貴子を乗せた啓介の車は八王子に向かった。鈴木法律事務所に着くと修に貴子を預けた。その頃には貴子も意識を回復していたが、まだぼけっとしていた。貴子には修は親戚かつ弁護士なので心配な事は相談したらいいと言ったところ、夫に会いたいと繰り返した。良子が男を殺したこととバトンの事を除いて状況を説明したところ、絶句した。とりあえず拳法で倒したと説明したが貴子は課長の事が心配でそれどころではない。課長の事は良子と啓介で何とかするので修の所で静かにしていてと言ったら、夫をお願いと抱きついてきた。興奮して疲れた貴子を寝かしつけ、今後の対策を三人で練った。その結果故郷の村に貴子を匿いその間に課長を連れ出そうと言うことに成った。
そんな訳で良子は今警察署の裏にいる。修が警察署の内部は調べてある。この警察署は留置場が署内の隅にある。普通なら問題ない。壁は分厚い鉄筋コンクリートだからだ。
良子はバトンを手に取ると無造作に振った。警察署の建物の隅に取り付けてある監視カメラが両断された。ここからは時間勝負だ。昨日、人を殺してから何か倫理観のような物が麻痺している。それどころかこのようなことをするのに少し快感を感じている。再度バトンを振ると空間に裂け目が出来た。署内の物置のような部屋に繋がった。ためらわず入る。部屋は暗い。ポケットから頭に取り付けるライトを取り出してつけた。啓介が用意してくれたものだ。ドアの位置から留置場との境の壁を確認した。課長にとにかく壁から離れて部屋の入り口辺りにいるよう面会した修が伝えている。もし空間の裂け目と課長が重なったら即死だ。その時は死んで詫びるつもりだ。部屋の入り口から離れた所に裂け目が出来るように慎重にバトンを振った。割れ目は留置場に繋がった。すぐに飛び込む。
「黄山君」
課長の慌てた声は初めて聞いた。課長にとってはいきなり良子が空間から湧き出た様に見えただろう。
「話はあと。ここにいたら殺されます。貴子さんは私たちが保護しています。無事です。信じてついてきてください」
「そうか。判った」
課長の決断は早かった。良子はすぐさま裏通りの方に向かってバトンを振った。多分向こうに誰もいない。空間転移を繰り返すうちなんとなく判る感じがしてきた。空間に裂け目が出来て裏通りが見えた。
「飛び込んで、通り抜けて」
課長は割れ目に飛び込んだ。良子も続く。警察署の裏通りだ。まだ誰もいない。監視カメラの故障も直ぐに警報が鳴るシステムではないのだろう。二十秒ほど待つと啓介のSUVが現れた。
「乗って。早く」
啓介に言われて課長は後部座席に乗り込んだ。良子も続く。シートベルトを二人が締めたところで啓介はゆっくり発車させた。
「貴子は」
「殺されかかりましたが、私が犯人を返り討ちにしました。無事です」
「面会にいった修おじさんが自衛隊と話をつけてます。ただ話が決まるまで、私の生まれ故郷で二人を匿います」
「あの、廃村のかい?」
「はい。貴子さんは先に待避して貰いました」
「何で自衛隊?」
「おじさんのつてがあるので」
「判った」
「ともかく、生き残りましょう」
「ああ」
一行は一般道を使い北上する。環状八号線から国道十七号線に出る。運転は良子に代わっている。啓介は端末を操作して情報を探っている。課長は寝ている。貴子が無事だと知って疲れが一気に出たらしい。
「おかしい」
「何が?」
良子は昔免許を取ってほぼペーパードライバーだったが、誠一とドライブに行くことが多くなったので教習所でペーパードライバー研修をうけ、とりあえず運転できるまで勘を取り戻している。
「今マスコミが大騒ぎしている事件の犯人が脱獄して、その夫婦の家に二等分に成った死体があるのに、全く情報が上がってこない。なんか勘にさわる」
「修おじさんの交渉が上手く行って、無罪放免になったとか」
「流石に早すぎる。何か妙だ」
「と言っても、とりあえず村に行くしか無いでしょ」
「まあな」
啓介は肩をすくめた。
村まで一時間ぐらいまで来た時の事だった。良子が欠伸をしつつ運転をしていると助手席の啓介がうめき声のような物をあげた。
「どうしたの」
「村の防犯システムが突破されてる」
「えっ」
「家の防犯カメラを見てみる」
啓介が端末をいじった。
「おいおい、貴子さん捕まってるぞ」
啓介は課長が起きないように声をひそめて、端末を良子に見せた。良子が横目で見ると、廃村の家の居間で貴子が裸で縛られてソファーに座っている。裸なのは逃亡防止の為だろう。胸が上下しているので生きてはいるが、気絶しているようだ。周りには三人男がいた。取り立てて特徴がある感じでは無い。ただテーブルに銃器らしきものがある。赤外線の白黒画像で、それほど分解能は高くない為、銃器の種類は判らない。
「他のカメラには人は写っていない。最低三人いるな」
「ねえ、お兄ちゃん、今私、殺しちゃえばいいって思った。なんかこの前から変」
「多分、俺たちの素質は犯罪者やそういう物なんだろう。基本的に」
「そっ。お巡りさんのお嫁さんは駄目ね」
「泣いてるのか」
「うん」
良子は運転しながら目に涙がたまってきた。
「せめて、貴子さんは救わないと。私は諦めた」
「そうか。俺は一蓮托生だ。地獄まで付き合うよ」
「ありがとう」
啓介のSUVはいつもとは違う道を進んだ。切り通しの下の道では無く、崖の上の悪路を進む。この辺は木が鬱蒼と茂っている為、村からは直接見えないし、エンジン音も吸収される。村は盆地となっていて車が通れるような道は一つだけだが、徒歩でなら入れる道はいくつかある。と言っても獣道に近いところで、一般人ならすぐに迷う。幸いに良子と啓介は地形を知り尽くしている。悪路を進んだせいで課長も目を覚ました。状況を説明したところ、自分も妻を救いに行くと言ったが、逃げる為の車を守って欲しいと説得した。
「いいですか。ここに来る人は普通いません。私と良子と奥さん以外は全て敵です。躊躇しないで撃ってください。散弾銃ですから、大体の方向を向ければ当たります」
「判った」
どこで調達したのか、散弾銃を啓介は課長に渡した。ここは村の家がある所に近い崖の上だ。樹木に囲まれている為、家から車は見えない。ここに来るまで啓介が村の監視カメラやセンサーで敵の人数を調べた。やはり三人だ。武器までははっきり判らないが自動ライフルみたいな物は確認出来た。それ以上の武装は判らない。良子と啓介には地の利はあるがどうなるか判らない。
「絶対、貴子さんは救い出します。絶対」
「頼む、黄山君」
良子と啓介は崖を降りていく。バトンで一気に距離を詰めてもいいが動きが大きいので気づかれる可能性がありよす事にした。二人が着ている服のデニム生地の上下は夜の闇と樹木に紛れて見えにくいが、相手は暗視装置等を持ってきているかもしれない。だとしても奇襲しか無い。子供の頃この崖を登って上から遠くをみて、都会に出ることを夢見ていた。今度は都会で出来た友を救う為降りていく。出来るだけ音を立てずに降りていく。三十分かけて崖を降りた。そこで啓介が端末で監視カメラなどを確認する。貴子は家のソファーで気絶したままだ。男達もその周りにいる。良子と啓介は家の残骸や岩などの陰を使い少しずつ近づいていく。家から三百メートルほどに近づいた時だった。岩から出ていた良子は頭に寒気を感じた。蹲り岩の陰に転がり戻った。
何かが空気を裂いた。後ろの方の木から大きな音がした。その後銃声が聞こえた。銃撃だ。岩の陰から良く見ると男の一人が家から出て膝をついてライフルを構えていた。暗い色の背広の為、闇に紛れていたようだ。
「お前達、ずっと前から見えてるぞ」
ハンドスピーカーからの声に啓介と良子の顔が引きつった。敵は赤外線スコープ等を使い近づいていた二人を監視していたようだ。
「出てこなければ、この女を殺す」
「きゃあ」
残りの二人が貴子を家から引きずり出した。頬を叩かれた貴子は地面に転がった。
「チャンス」
距離は大体判っている。
「貴子さん立たないで。えい」
祈るようにバトンを横一文字に振った。次の瞬間家が真ん中から両断され、立っていた男二人は腹の辺りが、ライフルを撃っていた男は首が切断された。良子は岩の陰からダッシュした。後五十メートルで貴子に手が届く位置まで来たところで銃声がした。
「へ?」
何かが右胸に当たり衝撃で回転しながら良子は転んだ。転びながら家の方を見ると両断した男の一人が最後の力で拳銃を発射していた。
「そんな」
胸が熱い。まるで真っ赤に熱した金属の棒で刺されたようだ。血が吹き出ているのが判る。貴子が状況を見て悲鳴を上げているのが聞こえる。痛みで意識が薄れてくる。
「良子」
啓介が走って来るのが聞こえる
「貴子さんは、誠一さん」
目の前が暗くなってきた。
「眠くなるんだ」
呟くと意識が途絶えた。
啓介が良子の所まで来て、ともかく出血を止めようと傷口を調べようとした所だった。いきなり辺りが明るくなった。村の入り口の方からトラックがやってきてその照明の為だった。軍用のごついトラックだ。唖然としている啓介の側まで来ると、トラックの後ろからバラバラと兵士が降りてくる。その中に修もいた。
「自衛隊と話がついた」
「おじさん」
「良子、誠一君も来る、死ぬのは早い」
駆け寄った衛生兵が良子の手当を始めた。
自衛隊中央病院は世田谷にある。その集中治療室に良子は収容された。部屋の外には誠一と啓介がいた。貴子と課長は防衛省の市ヶ谷に保護されている。修は自衛隊のトップ、防衛大臣と打ち合わせ中だ。修は個人的な知り合いだそうだ。今の防衛大臣はアイドル上がりの女性で、政権が代わってもしぶとくその地位に居続けている。噂では与野党の政治家の弱みをたくさん握っている為だそうだ。それはともかく良子の様態は一進一退だ。意識が戻ったり、反応が無くなったりを繰り返している。瀕死という訳では無いが、死んでもおかしくはない。
「早田さん、意識が戻りました」
「はい」
「俺はここで待ってる。良子が会いたいのは君だからな」
「はい」
「直ぐに来てください」
看護師に呼ばれて誠一は部屋に入る。ベッドに横たわっている良子がいる。胸部の銃創は手術で治療が終わっている。ベッドの良子は微かに目を開いていた。
「良子さん」
良子を揺すらないよう誠一は我慢しつつ耳元で言った。
少し前から良子は意識が戻っていた。何か凄く疲れていた。それにお腹が空いていた。目の前に誠一の顔が現れた。凄く嬉しかった。ただその首元が見えた時、何か変な気がした。凄くお腹が空いていた。何か食べないとと思った。良子の髪を整えようとした誠一の手が見えた。
ごく普通に良子は誠一の二の腕にかみついた。犬歯が皮膚を食い破り口に誠一の血の味が広がった。美味しかった。
急に身体を起こし誠一に噛みついた良子を見て、自衛隊の医師達でも固まってしまった。ただ直ぐに一人の医師が良子を誠一から引き離した。そのせいで誠一の皮膚が破れ辺りは血の海となった。
「脈拍、体温急激に低下」
看護師が叫んだ。
別室で手当を受けた誠一は直ぐに集中治療室の前に戻った。啓介は今後の事を相談しに修と別室で話している。誠一が部屋をのぞき込むと良子の周りには医師が沢山集まっていた。看護師の一人が誠一を見つけ寄ってきた。
「良子さんは」
「バイタルは安定しています。ですが」
「ですが、何ですか」
「私が説明しましょう。少し聞きたいこともありますし」
主治医が隣の控え室に誠一を連れて行った。
「良子さんの状態はどうなんです」
「バイタルは安定しています、それに意識もしっかりしています」
「じゃ話していいですね」
「その前に、患者の特殊体質についてご存じですか」
「特殊体質?聞いたことがありません」
「現在奥さんの体温は二十八度、脈拍は一分間に十回です」
「え、それじゃやっぱり瀕死じゃ」
「違います、普通なら瀕死ですが、実に安定してます。意識もしっかりしている」
「じゃ、なんなんですか」
「もう一つあります。血を飲みたがるんです」
「はい?吸血鬼じゃあるまいし」
「吸血鬼はともかく血をほしがる病気は存在しますが多くは精神的な物です。ただ奥さんは食べ物として血を欲しがっています」
「そんな主治医が無責任な、あ」
誠一は良子がしてくれた昔話を思い出した。
「良子さんのご先祖様は吸血鬼みたいな存在だったって、村に伝わるおとぎ話をしてくれました。愛する人の血を飲んで吸血鬼になったとか」
「そうですか」
何か主治医は悩んでいるようだった。
「吸血鬼は実在します。軍事秘密なんですが、太陽光以外に対しては肉体的に頑強な為、各国の軍事や諜報に関わる仕事をしています」
「何を言っているんですか」
「多分、生命の危機に際して眠っていた遺伝子が発現したのだと思います」
「そんな事あるんですか?」
「うちのトップからこの件について情報を本人とその配偶者には伝えていいと言われています」
「トップって」
「私のこと」
主治医は立ち上がり敬礼をした。誠一は気配も無く近寄って聞こえた女性の声に驚いた。後ろを振り向くと初老の女性がいた。初老と言っても色気たっぷりだ。
「初めまして。防衛大臣をしている栗山早紀です。よろしくね。お話をしたいからお座りに成って」
「はい」
誠一は椅子に座った。早紀は主治医に座れと手で指示をした。
「実は奥さんをスカウトしに来たの」
「スカウト?」
「ええ、奥さん吸血鬼に成って特殊能力を得たでしょ。それに発明品はいろいろと役に立つし。私の直属の部隊にスカウト」
「特殊能力?発明品?」
「説明してあげる」
その日の夜、良子は意識が安定してきた。相変わらず血が飲みたいし、体温や脈拍は低いままだが、それ以外は普段とあまり変わらない。銃創跡はすでに皮膚が再生し、内部の傷もほぼ回復している。入院直後にあった大型拳銃の衝撃による脳内出血も収まっている。
「誠一さん」
集中治療室に誠一が入って来た。凄く嬉しい。
「あの、二人だけで話したいのですが」
誠一が主治医に言うと直ぐに許可が出た。医師達は部屋を出た。
「暖かい」
誠一が手を握ってくれた。凄く暖かく感じる。
「私、人殺しに成っちゃった。お巡りさんのお嫁さんになれない」
「そう、でも話を聞いてくれ」
「うん」
誠一は早紀に言われたこと、主治医に言われたことを話した。
「吸血鬼なの、私」
「みたいだ、君のご先祖様と同じだ」
「そう。ますますお嫁さんは駄目ね」
良子の目に涙が浮かんだ。
「僕の気持ちを言うよ」
「うん」
「まず、吸血鬼でも良子さんは良子さんだからいい。かわらない」
「嬉しい」
「人を殺したことは悪いことだ。どんな理由があっても」
「うん」
「だから二人で一生償いをしよう。早紀さんの部隊はこの世全体を守る部隊だって。だから二人で加入して償おう」
「でも、お巡りさんはどうするの」
「僕はそれほど能力がある訳じゃ無い。早紀さんの屋敷の警備員になる予定だ」
「それでいいの」
「ああ。誰かを守る為お巡りさんになったのだしね」
「そう、有り難う」
「どういたしまして」
「ねえ、キスして。凄く冷たい唇だけど」
誠一の唇はとても温かかった。
「新居まで建てて貰って悪いですね」
「仕事場と家は近いほどいいでしょ」
二ヶ月後良子は退院した。良子の傷跡は全く残っていない。体温と脈拍が下がって、太陽の下ではやたら怠いことを除けば元の良子だ。その頃には課長の冤罪もはれて、貴子共々住まいに戻った。貴子を殺そうとした者達は綺麗さっぱりこの世から消えた。おかげで滝沢専務は時期社長候補に返り咲いたし、美樹も専務の息子との婚約を発表した。啓介と修はこれまで通りだが、良子の仕事を手伝う事になっている。
今後良子は早紀の家に通って働くことに成った。誠一は早紀の家の側の交番に巡査として働く予定だ。良子と誠一との新居は早紀の家の通りの向かいにある。今日は早紀と共にその新居を見て回っている。
「ところで早紀さん」
「なに、良子ちゃん」
「私の仕事なんですけど、具体的には何をするんですか」
「クラックを塞ぐの。左官屋さんね」
早紀はウインクをした。
おわり
クラック2に続く
読み終わったら、ポイントを付けましょう!