アパートに読書好きが二人いた場合

がざみ
がざみ

アパートに本好きが二人いた場合

公開日時: 2020年10月22日(木) 09:44
文字数:3,062

入瀬の掠れた声が、淡々と紡がれる。


紅茶を一口飲んで、自分が借りた本について静かに感想を述べてから、今度は砂沢の番だとでも言うように入瀬は尋ねた。


「砂沢、シェイクスピアはどうだった」


「そうですね、私は喜劇の方が好みですね。あんなに大仰な台詞を叫ぶ輩が、最後は男女結ばれてありきたりなハッピーエンド。そんな結末は痛快じゃあありませんか」


「じゃあ悲劇の方は?」


「マクベスを読みました。懐かしかった」


「懐かしかった?」



何気なく返した入瀬に、砂沢は柔らかく笑んで、本当に感想だけを語るように、言葉を続けた。


「ええ。マクベス夫人が、夜中に何度も何度も手をこすりながら、血が落ちないと呟くところ。私も昔軽度の潔癖症で。昼日中には気にせずいられても、太陽が沈むと途端にこの手が汚れて見えて、駄目だった」


「……」


「マクベス夫人も、きっと幾度となく手を洗って、指先がかじかみ凍えて血が滲んでも、やめられなかったんでしょうね。人殺しの罪は重い」


「砂沢、」


「やはり、悪漢毒婦なのでしょうね二人は。良き王を殺して自分らが良い治世を為せるなどと、傲慢で、無知で、稚拙な理想を掲げて。可哀想に」



入瀬が怪訝な顔をする。砂沢がここまで過去と物語を混同した発言をするなんてかつてなかったことである。


酒でも呑んだのか、と茶化そうとするより先に、砂沢の頬の紙のような白さに気づいた。砂沢の目には、物語のエピソードではなく過去が映っているようだった。妙なものを思い出させてしまったようだ。


暗鬱な昔話を止めるか迷った。しばし考えて、入瀬は寄せていた眉を解き、「そうか」とただ呟く。



「入瀬。マクベスが幸せになるのには何が必要だったのでしょうか」


室内は蛍光灯が病的に照らしている。カーテンの隙間から覗く空はまだ黒々しい。


入瀬は低い声で答える。いつも通り、砂沢と書物を語るように。


「野望など抱かなければ良かったのだろう」


「幸福な未来を描くことが野望だと?」


「幸せには代償が要る」


「いっそ、魔女を無礼者と追い払ってしまえば良かったんだ。いや、なんなら切り捨てて」


「王ではなく、魔女を殺すのか」


「…………入瀬だったら、何をします?」


「……そうだな」


手持ち無沙汰にティーカップを弄ってみせながらも、何かを熱く乞うように、砂沢は上目遣いで入瀬を見つめる。


軽く唸って腕を組んで、しばらく黙ってから入瀬はぐん、と身を乗り出した。


「友人を味方にしておくのはどうだ?マクベスは王になると、マクベスの友人バンクォーは子孫が王になると同時に予言された。予言が真実であるならマクベスの世は一代限り。子々孫々と天下を望むなら、友人と結託し自ら王になった後、娘を生んで友人家に嫁がせる。という選択をするな」



随分強引な解決策に砂沢は思わず吹き出す。笑われることが、入瀬は些か心外だ。


「それはまた、誰かが不幸になりそうなシナリオだ」


「しかし、少なくとも、友情と権力と配偶者の愛は保証される」


「まあ、マクベスは幸せになれそうですけどね。主殺しも友情で乗り切れば、感じる罪も軽くなる。私もそうすればよかった」


「……」


「紅茶が冷めてしまった。入れ直してきます」



適当に話を打ち切って、砂沢は緩慢な動作で立ち上がった。入瀬の眉間に皺が寄る。



せっかくだから紅茶の銘柄も変えようか、そんなことをとりとめもなく考えながら砂沢はティーポット片手に流しに向かう。と、背後からいきなり肩を掴まれて砂沢は反射的に振り返った。



目の前に入瀬の顔があってぎょっとする。入瀬の鼻梁に唇が触れそうだ。


「いり、」


瞠目して固まる砂沢の頬を掴んで無理矢理視線を合わせる入瀬は、至極真剣な表情である。



「入瀬?」


「……」


「なんなんですかいきなり」



沈黙したまましばらく観察するように砂沢を見つめてから、入瀬はすっと息を吐く。


「安心した。薔薇は食ってはいないようだ」


「薔薇?」


「いつもと様子が違ったから、芥川の物語のように狂ってしまったのかと」




砂沢を放して笑う入瀬を見て、砂沢は初めて本を貸した日を思い出す。



言葉通り、砂沢の所有する本は入瀬の蔵書と同様に、日にも焼けず折り目もないものだった。


砂沢が捨てるつもりだった私物を全て読み終えたらしく、本を何冊も抱えて嬉しそうに礼を言う入瀬を前にして、時々すれ違うこの鉄面皮がかくも簡単に剥がれるものなのかと感嘆したものだ。


『ありがとう。面白かった。ちょうど一片の石を買おうか迷っていた所だったんだ。坂口安吾も良かった』


普段は立ち話を始める人など邪険をオブラートに包んで追い払うのが常だったが、その時の砂沢は、坂口安吾の堕落論についてこんこんと論じる入瀬に自分と同じ読書好きの臭いを嗅ぎつけていて、


『私も何か貸そうか。貴方の読みたい本を持っているかもしれない。此方の本も、誓って新品同然だ』


何年ぶりかに自分などに笑顔を向けてくれた入瀬がまんざらでもなくて、



『私、人が触った本は極力部屋に入れたくないのですよ。ほら、本一冊は人の思考によって編まれた代物ですが指紋一つだって人間の意志によるもので、古本なんて不特定多数のおびただしい意志に晒されて私が心の底から読みたい作者の思考を汚している訳です。吐き気がするでしょう?私が読書家を名乗るのはあまりにもおこがましいですが、私以外が触った汚い本など要らない。そこだけは譲れません』


『その点は全面的に同意するよ』


『だから私は人に本を借りたくはない。人には絶対貸さない。むしろ私が読んだ本を読める貴方が理解できない』


『そうか、なら仕方ない』


『でも、貴方なら構わない……かもしれない。決して合理的ではないのですけどね。貴方はきっと書物を私と同じに扱う方でしょうし、貴方の蔵書を覗いてもみたい。貴方が宜しいなら是非お貸し願いたいです』


『まどろっこしいな。だが承った。……貴方は、どんな本が好きなんだ?』



そんな提案を自然と受け入れ、入瀬と砂沢はまた本を貸す約束をしたのだ。



「そういえば貴方は会った頃から、無表情な癖して直球なたちだった」


砂沢は懐かしそうに呟いた。


何の話かと首を傾げる入瀬に砂沢は苦笑する。


「薔薇を食ったりなんかしませんよ。私が花なんて柄だと思いますか」


「まあ、確かに少女趣味とはかけ離れているが」



頷く入瀬に砂沢は、ついでにさらりと付け加える。


「ああでも、薔薇を食わないのは入瀬のおかげでもあるのかな」


「此方は何もしていない。ただ本を交換して読んでいるだけだ」


「貴方にとってはそれだけのことであっても、私にとっては本当に希有なことなんですよ。証拠に入瀬を部屋に招いても、潔癖な私が鳥肌一つ立たないでしょう?」


「冗談に聞こえないな」


「勿論本気ですよ。私の過去を根掘り葉掘り詮索せず、心配だけしてくれる人って存外いないもの。ありがたいありがたい」


砂沢が大仰な仕草でお辞儀してみせると入瀬はあからさまに不機嫌になる。からかわれたと認識したらしい。


入瀬が口を開いたところでにわかに部屋が明るくなった。


カーテンの隙間から白とも青ともつかない空が漏れ出している。


どうやら夜が明けたらしい。


夜通し喋り通したのかとお互い無言で顔を見合わせて、それは日常茶飯事だった。



「砂沢」


「何ですか?」


「昨日借りた本の続きを貸してくれ」


「芥川の全集ですね」


「ああ。頼む」



友には程遠いのかもしれない。常に情よりも知的欲求を満たそうとしてしまう入瀬にとっても、書物の話を存分に振れる砂沢は貴重な存在だった。

だから、微睡むような砂沢の横顔の美しさについての言及は慎んで、入瀬は夜明けをしばし眺めた。

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