黒鳥は憧憬を見る

償いの告白
シュリ
シュリ

第七話 オディール 一

公開日時: 2020年9月4日(金) 12:05
更新日時: 2020年9月5日(土) 12:07
文字数:3,370

 四歳だった。あの日、私は見た。居間で父と母が言い争っているのを。

 私はその日、三階の自室で「白鳥の湖」のCDを聴いていた。ふと喉が渇いたので空の水差しを手に下へ降りたのだ。

 使用人は何人か雇われていたが、夜も遅いので、わざわざ水のためだけに呼びつけるのも気の毒だと思った。それが間違いだった。水差しを持ち廊下を通り過ぎようとした私の耳に父の怒号が飛んできたのだ。

「この売女!」

 立ち聞きしようという気はなかった。足が竦んで動けなかったというのが正しいだろう。私はその場に立ちすくみ、わずかに開いた居間の扉の隙間から中を覗き見た。

 父がいるときは、いつもこの時間になると母と二人でローテーブルを挟んで談笑したり、テレビを観たりしているはずだった。怒りに顔を歪ませて立つ父の後ろでソファが斜めに傾いている。扉の陰に隠れているのか母の姿は見えない。

「なんとか言ったらどうだ? それとも、申し開きもできないか」

 父がこれほど怒っているのを見るのは初めてだった。当時私は父から甘やかされていた。父は仕事に明け暮れていたので屋敷を空けていることが多かったのだが、帰って来たときはいつも私の様子を訪ね、大量の書籍を買い与えてくれた。お陰で自室の本棚はびっしりと埋まって、もう何も入らない。

 特別優しい人というわけでもないが、理不尽に怒鳴り散らすような人でもない。そんな父が一体どうしたというのだろう。

 しばらくして、ぼそぼそとか細い声が聞こえた。母だ。

「ほう、なるほど」

 父の声は、いつもとまるで別人のように冷たく、地の底から響くようだった。私は「白鳥の湖」のロットバルトを思い出した。黒鳥オディールの父、ロットバルト……彼に言葉があったなら、おそらくこんな声なのだろうか。

「認めるわけだ。すべてを。おまえはどこの誰とも知れぬ馬の骨と、下卑た欲に駆られ汚らわしく混じり合い、そうしてできた赤子を何食わぬ顔して私に……抱かせたというのだな」

 頭の中で何かがガラガラと崩れていくようだった。血の気が引いていく。水差しを取り落としそうになった。

 今、父はなんと言ったのか。聞き違いではないか。

 人が妊娠して子供を産むにあたってどのような過程を経るのか、私はまだ幼かったが知っていた。父の与えてくれる書籍たちは私に様々な知識を与えてくれた。だから、父の言葉の意味を悟ってしまったのだ。

 するとまたか細い声が何事かを呟いた。父が乾いた嗤い声をあげる。

「知るものか。おまえの相手が誰かなど。誰であろうと下賤であることに変わりはない」

 父の衣擦れの気配がした。私は慌てて走った。三階へ上がる階段を駆け上がり、踊り場の陰で身を潜める。

 父が居間を出た。その眉間に刻まれた深い皺と険のある表情を見て、父の底知れぬ怒りを知り、私の全身は震えた。

 ほどなくして、私は実家の屋敷を離れ、遠く県境にある別邸に置かれることとなった。父はいくつも家を持っておりここもその中の一つだった。母の実家と近いらしい。

 母はこの別邸には来なかった。私と、私の身の回りの世話をしていた婆やだけが移された。

 ばあやは泣いていた。新しい私の部屋を整えながら「ああ、おかわいそうなお嬢様……お嬢様は何も悪くないのに」とひたすら嘆いていた。その姿があまりに気の毒だったので、努めて気にしていないそぶりを見せなければならなかった。

 それまで幼稚園というものに通うこともなかったが、これからは通わなければならなくなった。必要最低限の使用人さえ割いてもらえなくなったので、私の教育は外部に託すしかなくなったのだ。

 朝、幼稚園の制服に着替えてコートを羽織り、屋敷の扉を開いた。たちまち冷たい真冬の風が吹き込み私の頬を打つ。

「お嬢様、手袋もなさいませんと」

 婆やが慌てて飛んできて、私の手に無理矢理手袋を嵌めた。昨年の誕生日に母がくれたものだ。上等な別珍の手袋。

「いいってば」

 嫌な顔をしてみせても婆やは離してくれなかった。

 婆やも小綺麗なスーツに身を包んで一緒に外へ出た。私の手を引いて坂道を下っていく。

「本当に、なんておかわいそうなお嬢様……」

 実家はどうやら運転手さえ私によこす気はないらしかった。婆やは私を連れて幼稚園までバスで向かわなければならなくなったのだ。

「バス停までしばらくかかりますよ、歩けますか」

「大丈夫」

 そう答えるしかない。実家から送られてくる仕送りも限られているだろうと察し、タクシーを呼んでくれなんて口が裂けても言えなかった。

 坂道を下りきろうとしたときだった。ふいに目の前の婆やの身体ががくりと崩れ落ちた。

「婆や!」

 私が叫んだのと、隣の家の扉が開くのは同時だった。

 隣の家から「忘れ物ないかしら?」という呑気な声が聞こえてくる。続いて「だいじょうぶ!」というはつらつとした声。軽い小さな足音が砂利を踏み、そして、こちらに気がついたように立ち止まった。

「あっ」

 見上げると小さな女の子が私を見て立ちすくんでいた。大きな目をまん丸に見開いて、はじかれたように急いで飛んできた。

「だいじょうぶですかっ」

 倒れた婆やの身体をさする、小さな白い手。私と同じ年頃だろうか。肩の上で切り揃えられた色素の薄い黒髪は、冬の淡い陽に照らされて栗色がかって見えた。お人形のような女の子は愛らしい唇を開いて後方に向かって叫んだ。

「おかあさーん! だれかがたおれてる、きて!」

 隣の家からばたばたと女性が現れた。女の子と同じくぱっちりとした目を瞬かせて、「まあ!」と叫ぶ。

「どうされたんですか? もしもし!」

 女性は婆やの肩を叩き、耳元で呼びかけた。しかし動かないのを見ると、すぐさまその目を私に向ける。

「もしかして、この上の子かしら」

 私は黙ってうなずいた。突然の出来事に困惑し、礼儀も何もかも頭から吹き飛んでいた。

「すぐにお家の方を呼んできてもらえる? 私、救急車を呼ぶから」

「すみません、居ません」

 やっとのことで絞り出したのはその一言だけだった。女性は首を傾げる。

「いない……? どなたも、いらっしゃらないの?」

「はい、うちには私と婆やしかいません」

 女性は困り果てたように遠くを見、とにかく、とスマホを取りだした。

「救急車を呼ぶわね」

「おかあさん、わたしたちで病院につれていってあげたほうが、はやいんじゃないかな」

 横で女の子がそう口にしたが、女性はスマホを操作して電話をつなげる。

「すみません、人が倒れているんです、はい、はい、いえ、気絶しているのか何も応答が……はい、え?」

 女性の顔つきに陰が落ちる。しばらくやりとりして電話を切った。

「救急車、十分超えるかも知れないって」

 母親の言葉を聞いて、女の子は立ち上がった。

「じゃあ、車で運んであげよう! はやく!」

 小さな手で婆やの身体を持ち上げようとする。それを制して女性はこちらを向いた。

「私たちの車で病院まで運んでいいわね?」

 私は呆然としながら、うなずいた。

 三人で婆やの身体を持ち上げて、隣の家に停めてあった青い車の後部座席に運び込んだ。私もその隣の席に乗り込む。運転席に女性が、助手席に女の子が座った。

「シートベルトをしめてね」

 女性が呼びかける。私はベルトを確認した。「大丈夫です」

 車が動き出す。揺れる車内で女性が女の子にスマホを渡した。

「これで幼稚園を探して」

 女の子からスマホを受け取ると、女性はスマホを耳に当てた。が、途中で思い直したように手を下ろし、バックミラー越しに私を見た。

「あなた、もしかして南野幼稚園に行くんじゃないの?」

 私はびっくりしてその通りだと返した。

 やっぱりね、と女性はうなずく。

「お名前は?」

「……東城小夜子です」

「さよこちゃんね。わかったわ」

 女性は再びスマホを耳にあて、電話をかける。

 私の婆やが倒れたこと、たまたま通りかかった西本家の車で病院まで運ぶこと、今日は遅刻か、欠席になるかもしれない旨を伝えた。

 私はようやく自らを奮い起こし、身を乗り出した。

「あの、……ありがとうございました」

「いいのよ、こういう時はお互い様なんだから」

 女性が言うと、女の子もこちらを振り向いてにっこり笑った。

「病院までもうすぐだよ。だいじょうぶだからね」

 その時私は、彼女をお人形のようだとは思わなくなった。彼女の顔は花開いたように可憐に、優しい笑みを湛えていたのだ。固いビスクの頬ではとても表現できぬ、生きた愛らしさだった。

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