暗闇の中、温かな布団を引っ剥がされて目が覚めた。
「ひぃっ、さむい……」
「おはようひなちゃん。絵を描く時間だよ」
まだ朝陽の差さない暗い部屋で、小夜子のシルエットが真上からこちらを見下ろしている。
「うそ……」
慌てて時計を見る。蛍光の文字盤が緑色に光って、ぼんやりと午前六時を指していた。
「時計、鳴らなかった……」
「ちゃんと鳴ったよ。でも、ひなちゃんが布団から手を伸ばして、消しちゃったから」
小夜子がくすくす笑う。もう制服に着替えて、すっかり準備を終えているようだった。
「さよちゃん、一体どうやって入ってきたの」
「何言ってるの。ひなちゃんのお母さん、とっくに起きているでしょ。普通に入れてもらったよ」
陽菜の母は父の弁当や朝食の準備のために誰よりも早く起きている。母は小夜子をすっかり信頼しているので、なるほど、絵のことを伝えれば家に上げてくれるはずである。
陽菜はカーテンを開け、窓も全開にした。冷たい空気が一気に押し寄せ、部屋はたちまち冷蔵庫のように冷えていく。
上着もマフラーもしっかり着込んでから、陽菜は画板を手に外へ出た。空はまだ暗いが、ほんの少し、上澄み液のように薄明るい部分があった。
ベランダの冷えた固い足場を擦るようにして、椅子を好きな位置に動かした。ベランダは父が改造してくれた。柵を白く塗り細かな蔓薔薇模様を描き、同じく蔓薔薇模様のお洒落な椅子を用意してくれた。陽菜はこのベランダがお気に入りで、小夜子が遊びに来たときはしょっちゅうここでお菓子を食べたりしている。
エアコンの室外機の上にそっとパレットを広げ、絵の具を少しずつ置いていく。準備が整うと、薄い色を筆につけ、そっと優しく画用紙へ色を置いていった。
小夜子は片方の椅子に腰掛けて、そんな陽菜の様子をじっと眺めていた。かじかんだ手を温めることもせず、ただ見ているだけだった。
「ねえさよちゃん」
ふいに呼ばれ小夜子は目を上げた。
「なあに」
「朝って不思議だよね」
言いながら、陽菜は筆を休めて空を見上げていた。薄明るい部分は少しずつ広がっていて、もう半分ほどの広さになっている。
「どこからが朝なんだろう。同じ時間でも、冬はこんなに暗いのに、朝って呼ぶんだね」
「……そうだね」
小夜子も空を見上げる。明るい部分にどんどん浸食されていく暗い闇の彼方を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「私は、ああいう夜になりたい」
それは、どこかで垣間見た映画やドラマの台詞だったかもしれない。あるいは、いつか読んだ絵本にあっただろうか。小夜子は、自分と「夜」という存在に、ある種の親しみを込めてそう呟いたのだった。
やがて目覚まし時計が鳴り、もう学校へ行く準備をしなければならない時間を告げた。
「なんだかあっという間だったね」
パレットや絵の具を片付けながら陽菜は言った。画用紙は薄青い色で塗りつぶされていた。それは緩やかに濃さを増しながら紙一面を彩り、美しいグラデーションを描いている。
「うん。明日もまた起こしてあげる」
「でもさよちゃん、風邪ひいちゃうよ。わたし、ずっと絵を描いているだけだし。退屈じゃないかな……」
「退屈なんかじゃない」
ぴしり。冷たい空気を切りつけるような、鋭い声だった。陽菜はぽかんと口を開けた。
「そ、そう……?」
「うん。だから、これからも私は」
「陽菜、小夜子ちゃん!」
部屋の入り口から声が聞こえた。陽菜の母親がエプロン姿でこちらを覗き込んでいる。
「まあ、こんな外で……風邪を引くわよ。ああ、小夜子ちゃん、朝早くにありがとうね。陽菜はちゃんと起きられたのかしら」
「はい、大丈夫でした」
小夜子が微笑む横を通りぬけ、陽菜は慌てて制服に着替えだした。「わたしだって起きられるよ……」などと、ぶつぶつ呟きながら。
「ああ、ひなちゃん、ボタンがまた」
小夜子の指先が伸びる。白い陶器のような指先は、外気に晒されてひどく冷たかった。
「ひえ、つめたい……」
「ごめんね」
慌てて手を引っ込める小夜子に、陽菜もしどろもどろで
「あ、ううん、違うの、だって、さよちゃんはわたしのために……」
「二人とも本当に仲良しねえ」
母親はくすくす笑いながら部屋を出て行った。
「行ってきます」
二人は玄関を出て、どちらからともなく手を繋いだ。まだ静かな住宅街は、時折スーツを着た男の人とすれ違うくらいしかひと気がない。
「ねえひなちゃん。長井先生のこと、好きなの?」
唐突に小夜子が言った。
「えっ……好きって、そんな、何、急に」
陽菜の冷え切った頬にたちまち朱が差した。
「好きな人なんてまだいないよ。でも、確かに長井先生は、ディズニーの王子様みたいにかっこいいし、でも性格は優しいお兄ちゃんみたいで、憧れるね……」
「そうなんだ」
「それにね、わたしに展覧会のこと教えてくれたでしょ。なんていうか、ちゃんと見てくれてるんだなって、安心しちゃった」
陽菜の大きな目は朝陽を受けてきらきらと輝いている。目に映る何気ない景色の上に、長井先生の爽やかな笑顔を浮かべているのだろうか。小夜子はぼそりと言った。
「私は、あんまり好きじゃない。でも、ひなちゃんはそう思うんだね」
「え?」
「なんでもない。変なこときいてごめんね」
もこもこと分厚い陽菜の手袋ごしに、ぎゅ、と細い指が絡められた。手袋をしていない、冷たい手だった。
真冬の授業で一番つらいのは体育である。これには異論を唱える者がいない。
体育の前の休み時間に着替えを済まさなければならない。女子は用意された更衣室で、男子は教室で着替えることになっている。陽菜と小夜子は体操着の入った手提げを手に更衣室へ入っていった。
「はあ、さむいね……あんまり脱ぎたくないなあ」
陽菜がぼやくと小夜子がポケットから白い袋を取り出して陽菜の頬にあてがった。
「わ、なに……あれ、あったかい」
「カイロ。あげるね、私まだあるから」
もう一つ取り出してひらひらと振って見せる。
陽菜はその用意周到さに感心してしまった。
「さすがだね、さよちゃん、ありがとう」
二人とも着替えを終える頃になると周囲は誰もいなかった。陽菜も焦って出て行こうとしたが、隣に小夜子がいないので振り返る。
「さよちゃん?」
更衣室の壁にロッカーが立ち並んでいる。小夜子はその一つを開けてしゃがみこんでいた。
「どうしたの」
「いや」
ロッカーには番号が振られていない。今は使われていない予備のものだ。小夜子は立ち上がり、扉を閉めた。
「なんでもないよ。行こう」
二人は並んで運動場へ出た。他の子たちは震えながらおしくらまんじゅうをしたり足踏みしたりして寒さを紛らわせている。
「おーい、みんな、揃ってるかー?」
長井先生が両手にボールを持って現れた。
「今日は前半サッカー、後半ドッジボールをするからね。みんな、寒さに負けないようにがんばろう!」
先生がにっこり笑いかけると、主に女子たちは嬉しそうに頬を赤くした。
「じゃあ、まず準備体操するから、二人組を作って」
先生の呼びかけに子供たちは各々辺りを見回した。そして近くの者とぎこちなく手を繋ぎ始める。
「ひなちゃん」
後方から小夜子が手を伸ばした。背の順で前から二番目にいる陽菜の位置は遠い。陽菜も手を伸ばした。
「ああ待って、二人とも」
突然長井先生が割って入った。
「二人はいつも一緒にしてるでしょ。たまには他の子と組みなさい」
「いやです」
りんとした小夜子の声。いつの間にか辺りはしんと静まり返っていた。クラスメイトたちが固唾を呑んで二人を見ている。
「東城さん」
先生の呆れたような顔を見て、陽菜は逃げ出したくなった。自分のことで人に嫌な顔をされるのは耐えがたいことだった。しかし小夜子は頑として動かず、切れ長の美しい目で鋭く見上げている。
「もう、みんな組んでしまっています」
先生は後方を振り向いて手招きした。
「長崎君。東城さんと組んで」
このクラスは三十五人いるため、二人組を作ると必ず一人余ってしまう。そして、余るのはいつも長崎勉だった。彼はいつも鼻をすすっていて目は眠そうにとろんとしているため、特に女子たちに嫌われていた。男子たちは面白がって仲間に入れることもあるが、大抵は厄介者扱いだった。
小夜子の黒い瞳が長崎勉を睨みつける。しかしどうしようもなかった。
「西本さんは、先生と組もう。嫌じゃなければ」
長井先生がおどけてみせると、陽菜は少しだけほっとした。良かったと何気なく振り返ると、こちらに背を向けた小夜子の肩が小刻みに震えているように見えた。
「西本さんは身体が硬いなあ」
前屈する陽菜の背を押しながら先生は苦笑した。
「すみません」
「仕方ない、今日はいつになく寒いしね。少しずつ身体を動かして、温めていこう」
「はい」
そんな二人の様子を、小夜子はじっと見つめていた。長崎勉の背を押す指先は白く染まって、ぶよとした肌にじりじりと食い込んでいた。
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