翌日、六時間目の授業は理科だった。給食で腹が満たされた子供たちはあまり集中できず、教室内にはこそこそと控えめなおしゃべりがさざめきのように広がっていた。
「みんな、最近たるんでいるんじゃないか?」
長井先生は教壇に立つと、顔をしかめて言った。
「今回の小テストはひどかったぞ。前にも出した問題ばかりなんだけどなあ」
教室がしんと静まり返る。いつも明るく冗談を言う先生が一転して真面目な顔をすると、皆どうしてよいかわからずなんとなく下を向いていた。そんな教室内を見回しながら、長井先生は両手をぱん、と叩く。
「そういうわけで、みんなの中でも特に頑張っている人のノートを特別に見せようと思います。西本さん、立って」
突然の呼びかけに陽菜は驚いて先生を見た。先生は白い歯を覗かせて笑っている。
「ほら立って、ノートを持ってきなさい」
何が起こっているのかわからないまま、ノートを手に教壇へ進み出る。先生はノートを取り上げいそいそと教室を出て行った。
「……」
席に戻ったもののそのまま座っていいのかもわからず、陽菜は手持ち無沙汰で突っ立っていた。皆の戸惑うような、うさんくさいような視線が痛いほど突き刺さり、顔を上げることもできなかった。ただ机の模様に目を落としていた。
「みんなおまたせ!」
長井先生が意気揚々と帰ってきた。手には分厚い紙の束が抱えられている。
「前の人は後ろに回すんだよ。これは西本さんの理科のノートです!」
全身の血が一気に顔に上ったように熱くなった。自分のノートがクラスメイトに配られている。何か特別なもののように大げさに褒め称えられながら。
「よく見て。黒板をそのまま描き写すだけじゃないんだよ。授業で先生が言ったちょっとしたこともわかりやすく綺麗に書かれているね」
陽菜は長井先生に憧れていた。長井先生の授業が好きだった。だから、どの教科のノートでも、先生が何気なく話す雑談の中でできた単語などは、メモしていたのだ。だが授業と関係のないものも含まれている。それがクラス中に暴露されてしまった。
真っ赤な顔でぶるぶる震える陽菜に気づいているのかいないのか、先生はにっこりと笑いかけた。
「こんなに素敵なノートを書く子がこのクラスにいるんだよ。みんなもたるんでる場合じゃないぞ!」
先生はだめ押しに教室中を見渡し、陽菜に「ありがとう」とノートを返した。受け取るや否や陽菜は隠れるように席に座った。心臓がばくばく音を立てている。ノートの端をぎゅっと握りしめた爪先が白く染まっていた。
――ひなちゃん、贔屓されてる自覚、ない?
小夜子の言葉が脳裏にはっきりと浮かび上がる。
ノートが綺麗な子はたくさんいる。陽菜にとって理科は一番苦手とする科目だったし、それだけで言えばむしろ劣っているのではないだろうか。
どうしてわたしなんだろう。
その後の授業は全く耳に入らなかった。意識を教室から逸らすことで精一杯だった。だから、小夜子がこちらを時折見ていたことにも気がついていなかった。
悪夢のような授業が終わる。終わりの会までの十分間、先生は職員室へ姿を消した。いつもなら男子たちが騒いだり、女子もおしゃべりしたりするのだが、いつになく静かだった。ただこちらをちらちら見ては、ひそひそと何事か囁きあっている。
もしかして、贔屓されているというのは、みんな気づいていたのだろうか。
陽菜は机の上で腕を組み、頭を埋めた。何も聞きたくなかった。
気がつくと傍に人の気配があった。のろのろと顔を上げる。小夜子がこちらを覗き込んでいた。
「だいじょうぶ?」
小声でそっと囁かれる。陽菜はぼうっと首を振った。
「今日も、残るの」
は、と気がつく。放課後の塾があったのだ。
六時間目のショックで、できればそのまま帰りたかった。しかし、陽菜はうなずいた。
「うん……」
元来、陽菜は誰かが自分のために始めたことを断れる性格ではない。申し訳なく感じてしまうのだ。
小夜子は制服のポケットに手を突っ込んだままため息をついた。
「わかった」
終業のベルが鳴る。皆が各々荷物を持ち、教室から去りかける。出入り口に近い席にいる陽菜はそのまま動かず、ランドセルの取っ手をいじりながら座っていた。そんな陽菜をわざと避けるように、大げさな遠回りですれ違おうとする者もいた。
陽菜の肩にランドセルの角をわざとぶつける者もいたが、がたん、と小夜子が勢いよく立ち上がると、気まずそうに目をそらしてそそくさと立ち去った。
教室の喧噪がようやく収まりを見せた頃、長井先生がプリントの束を持ってにこやかに立っていた。
「二人とも、よく残ってくれたね」
爽やかな笑みを浮かべたまま小夜子を手招きする。仏頂面で立つ彼女の手に、プリントの束をごっそりと手渡した。
「それじゃ、またできあがり次第、持ってきてくれるかな」
「はい」
ちらとこちらを振り返りながら、小夜子がしぶしぶ立ち去った。隣の多目的室に向かったのだ。小夜子の姿を見送った後、長井先生は教室の扉を閉めた。
「さて、こちらも始めようか」
てきぱきと机と椅子を向き合わせる。先生が陽菜の真向かいに座った。
「さっきは、すまなかったね」
陽菜が顔を上げる。先生はぽりぽりと頭を掻いた。
「急にみんなの前に立たせたりして……」
たちまち陽菜の顔が真っ赤に染まる。その時の緊張が一度に思い出されて、思わず俯いてしまった。
「……いえ、その……だいじょうぶです、ちょっと、驚きましたけど」
「でも、みんなが悪いんだ。目立ったテストもないからって、たるんでいるんだよね。陽菜ちゃんみたいに日頃からちゃんとしている子の姿を見せて、目を覚まさせてあげたかったんだ」
ね、と先生が手を動かす。陽菜の膝の上に置いた両手に、ごつごつした手が触れた。机の下から手を伸ばしているのだ。
少し汗ばんで、湿った手。爽やかな先生にしては少し意外な手の感触。陽菜の肩が思わず震えた。
なんだろう。わたし、この先生のことすごく好きなはずなのに……。
「さあ陽菜ちゃん、まずは理科から始めようか。だいじょうぶ、苦手をつぶしていこうね」
手が引っ込んで、机の上の参考書をめくり始めた。陽菜はほっとして、問題集を取り出す。
さよちゃん、だいじょうぶかな。ふと、姿の見えない親友のことを思い浮かべた……。
一方、小夜子はりんとした佇まいで椅子に座り、机に向かっていた。一心不乱に鉛筆を動かしている。切れ長の目が素早く文字を追い、計算問題をこなしていく。小夜子は陽菜に教わるだけでなく、家でもひたすら勉強していた。何が彼女をそこまで駆り立てるのか――。
前回は中程で返却してしまった残りも片付き、今日新たに追加された分もみるみるうちに減っていく。
陽が少しだけ傾いた。机と椅子に溶け合うように、小夜子のまっすぐな影も少しずつ伸びていく。
「――陽菜ちゃん」
気がつけば、先生の手が陽菜の額に触れていた。
「よくできました。ご褒美をあげようね」
陽菜の前髪をくしゃくしゃとかき乱すように、大きな手が頭を撫で回す。陽菜の手は膝の上で固く握りしめられていた。思わず全身に力を入れてしまっている。なぜだろう、今自分はとても……怯えている。
わずかにうるんだ陽菜の目……大きな瞳を縁取る長い睫……その目に見上げられると、先生は耐えかねたように立ち上がり、陽菜の傍でしゃがみこんだ。そのまま両手を陽菜の膝の上にのせる。白い、うすらと血管の浮き出た太股がスカートから覗いている、その上に。
「陽菜ちゃん……」
掠れた声で名を呼ばれる。この時陽菜は初めてはっきりと恐怖を覚えた。温かな湿った手が膝の上を滑る。太股をゆっくりと這い、やがてスカートの内側へと、滑り込もうとする。
「あ、あ」
あの、何してるんですか、そう言いたいのだが言葉にならない。震えた音が喉から出るのみで、陽菜はわけのわからない感覚に怯えた。
逃げなくてはいけない。がたん、と椅子を後ずさらせると、先生は困ったように微笑んだ。
「逃げないでいいから……逃げると、先生、追わなくちゃいけないでしょう……」
ねっとりと絡みつくような声音だった。後ずさった陽菜の身体にしがみつくように、先生の大きな身体が覆い被さる。両手が陽菜の背に、腰に、がっしりと回されていて身動きが取れない。
「陽菜ちゃん……かわいいね。本当にかわいい。君は素直で、先生の言うことをよくきいてくれて、いつも真剣なまなざしで俺を見ていた……怖がらなくて良いから、君の気持ちは俺もいたいほどわかるから……」
何を言っているのか理解できない。わたしの気持ち? 確かに先生のことは憧れていたし好きだったが、それが一体どうしてこんな状況になっているのだろう。
身動きが取れない、逃げ場がない。健康的に日焼けした先生の顔が眼前に迫っている。爽やかな微笑みを浮かべて。こちらに近づく唇の隙間から、生臭い吐息が漏れている……。
その時、教室の扉が突如開いた。スニーカーの足音が猛烈な速さでこちらへ近づき、次の瞬間、どんという衝撃と共に陽菜に覆い被さる長井先生の顔が苦痛に歪んだ。
「ぐっ……」
鈍い、苦しげな息を漏らして先生が床に倒れ伏す。その後ろには小夜子が立っていた。
右手に握られたカッターナイフの先から赤い液体が滴り落ちる。焼けつくような夕日が照りつけ、赤いものが散った彼女の頬をくっきりと浮かび上がらせていた。
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