先生は痛みに呻きながら首の後ろを押さえた。吹き出す血潮で手が赤黒く染まる。なんとか体勢を立て直そうとするが小夜子の方が速かった。小学生とは思えぬ素早い動きで机に駆け上がり、高く跳躍し――両足で先生の腹を思い切り踏みつけた。
口からなにか液を吐き出しながら悶絶する先生の身体にまたがり、手にしたカッターナイフをくるりと持ち直す。むき出しになった首元へそのまま一気に振り下ろした。
恐ろしい量の鮮血が飛びちった。小夜子の制服も、先生のシャツも、教室の床も、べったりと赤いもので覆われた。
「ひっ……」
声にならない悲鳴をあげて、陽菜が椅子から転げ落ちる。
小夜子はゆっくりと立ち上がった。こちらを振り向き、美しい微笑を浮かべて。
「ひなちゃん、だいじょうぶだよ」
ハンカチで手を拭い、スマホを取り出す。
「佐々木さん、今すぐ来て。学校なの」
誰かに連絡をとっている。極めて冷静な声で、淡々と。
「大きな鞄が欲しい。人を運びたい。それと、掃除できるもの。……事情は後。とにかく急いで。うん、うん、よろしく」
電話を切ると小夜子はスマホをポケットにしまった。つかつかと教室の後ろへ歩み寄り、自分のロッカーを開く。中からウインドブレーカーを取りだして羽織った。
「ひなちゃんには、かかってないみたいだね。よかった」
小夜子が再び先生の元へ向かう。倒れた大きな身体のすみずみまで確認し、真っ赤に血塗れた床も見下ろす。
「うん、まあ、取れるかな。佐々木さんならやってくれる」
「……だれ、それ」
やっとの思いで絞りだせた言葉は、それだけだった。小夜子は淡々と答えた。
「うちの、使用人」
小夜子は乱れた机や椅子を元に戻し、ぐったりと横たえた先生の腕をひっぱって動かした。机や椅子の影に隠れるように横倒しにする。
「さよちゃん、なんで……」
「おかしいと思ってたの。これは私だけじゃなくて、みんな思ってる」
ウインドブレーカーのポケットに手を突っ込んで、手近な椅子に腰掛ける。小夜子は動かなくなった先生の身体を見下ろした。その辺に転がる石でも見るような目だった。
「こいつは、ひなちゃんを贔屓してる。……初めのうちは細やかなものだった。だけど段々エスカレートしていった。絵の展覧会だって、ひなちゃんと個人的に近づけるきっかけが欲しかっただけ」
――信じられない。小学生でここまで描ける子を先生は見たことない。
長井先生の、優しい兄のような微笑みが脳裏に甦る。陽菜はぶんぶんと首を振った。目の前で転がっているおぞましい男と記憶の中の素敵な先生が同じ人物にはとても思えなかった。
「こいつはひなちゃんを狙ってた。放課後塾、勉強……ひなちゃんに近づきたいだけ。あわよくば……」
小夜子は足を振り上げた。白いスニーカーの先がびゅんと唸る。その勢いで床に転がる男の身体に思い切り振り下ろした。
「あんな、汚らわしい……ゆるせない……ひなちゃんに、よくも……よくも……」
何度も何度も、踵を叩きつける。その度に床の血だまりが広がっていく。
「さよちゃんっ」
陽菜が思わず立ち上がった、その時だった。
がらがらと教室の扉が開く音がした。二人がはっと振り向く。教頭先生が顔を突き出してこちらを覗いていた。
「東城さん、佐々木さんとおっしゃるお家の方がいらしてますよ」
「ああ、すみません」
小夜子が立ち上がる。教頭先生の後ろから、黒いスーツを身に纏った男がすっと入ってきた。見上げるほど背が高い。髪は後ろに流していて、その細く刃物のように鋭利な目つきも相まり陽菜はやくざもののドラマを連想した。
「おや、長井先生は?」
「今休憩中なんです。お手洗いにでも行かれたんじゃないですか」
小夜子の落ち着いた返答に、教頭先生はそう、とだけ言って扉を閉めた。
黒スーツの佐々木はつかつかとこちらへ近づき、大きなスポーツバッグを床に降ろした。
「……」
床に広がる惨状を目にして眉根を寄せる。
「とりあえずここを片付けて欲しい。私はひなちゃんを連れて帰るから」
「かしこまりました」
佐々木が頭を下げる。
「お気をつけておかえりください。裏門の方は人の気配がありません」
「わかってる。この時間帯はいつもそう」
何が何だかわからない陽菜の手を取り、小夜子はうながした。
「行こう。ただし、そっと。誰にも見つからないで。もし見つかったら私が適当にごまかすから、合わせて」
陽菜は不安げに睫を震わせ、ただぎこちなくうなずくのみだった。
教室の扉をそろそろと開ける。小夜子が首を突き出して外を確認すると、陽菜の手を引いてそっと歩き出した。
夕焼けに染まったひと気のない廊下は、打ち棄てられたように寂しくひっそりとしていた。静まり返った空気の中で音を立てぬよう、二人は息を殺しつつも足早に歩く。
誰にも見つかってはならない。陽菜は訳のわからない状況から徐々に冷静になり始めていた。
小夜子は自分を助けてくれた。
とにかくそれだけは確かな事実だった。だから、今は誰にも見つからぬよう、音を立てぬよう、一緒に出て行くのだと――そう自分に言い聞かせながら、ひたすら小夜子の背を追った。
吐息一つも立ててはならない。背に、額に、脂汗が滲む。二人は唇を引き結び、廊下を曲がる際は壁に背をつけて周囲を確認しながら慎重に進んだ。
やがて校舎の一階に着いた。西側の階段を使ったので、眼前に校舎の裏口が見える。扉は半開きになっており、横ばいに進めば開けなくても通れそうだ。
陽菜は内心ほっとした。裏口の扉は重たい鉄製の扉である。おまけに相当古いのか、わずかでも動かす度に騒々しい音をたてるのだ。
まず小夜子が扉に顔を近づけ、外の様子を確認した。
「だいじょうぶ」
そう小声で告げ、先に身体を横向ける。小夜子は細い身体でするりと抜け出て見せた。
「さあ」
扉の向こうで手を伸ばす。陽菜は腕を伸ばしてその手に触れた。そして身体を傾けて、同じように外へ踏み出した。
真っ赤に燃え上がる夕陽が間近に見えた。つい先ほどの凄惨な現実を照り出されるようで、陽菜は思わず足が竦む。
「ひなちゃん」
小夜子がぐいと腕を引いた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」
裏口は駐輪場になっていて、教員の自転車やバイクが止められている。人目に付きにくいとはいえ、いつ誰が来るかわからない。
二人は駐輪場を囲むフェンスに沿って歩いた。雑草を踏みつけ、砂利を蹴り、裏門を抜け出した。
二人の家の分かれ道に来たところで、小夜子は立ち止まった。ここまで来る間、互いに一言も口を利かなかった。
「ひなちゃん、私の家に来て」
目を見開く陽菜に、小夜子が振り返る。鴉のように澄んだ美しい瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「このまま帰っても、落ち着かないでしょう。それなら、私の家で少し休めばいい」
落ち着き払った小夜子の声に陽菜は戸惑う。小夜子とは小学校に上がる少し前からの付き合いだが、これまで一度も家に上がらせてくれたことはなかった。
「いいの……? だって、今まで、一度も……」
「今日は、特別だから」
小夜子は陽菜の手首を握ったまま答える。
「いいの。来て」
そのままぐいと引かれて、陽菜は慌ててついて歩いた。いつも小夜子の背を見送るだけだった坂道に、一緒に踏み入っている……。
さよちゃん、どうして?
疑問は、口から出かかる直前に呑み込んだ。小夜子は自分のために気を遣っている――そう思ったら、何も言えなかった。
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