「先生、亡くなったんですってね……」
陽菜と母親は夕食を囲んでいた。美術大学で教授をやっている父はまだ帰らない。いつも通り九時を回ってから帰宅するはずである。
陽菜の箸を持つ手が止まる。ややあってから、ぎこちなくうなずいた。
「うん……」
「ニュースになっていたわ。びっくりしちゃった。陽菜も、学校で何か言われたでしょう」
「……うん」
母がサラダの皿を手に取る。陽菜の器に追加で取り分けながら嘆息した。
「良い先生だったのにね……。あんなに爽やかで、生徒みんなに優しくて、人気があったし……あんな先生、今時滅多にいないのに」
「……」
母の言葉を聞けばきくほど、陽菜の胸の内側がばくばくと震えるようだった。
どうしてだろう。今日は学校でその報せを聞いたとき、自分でもわけがわからないほどの不安に駆られた。悲しいのか苦しいのかよくわからない感情がこみ上げてきて、小夜子の世話になってしまったのだ。
確かに自分は先生が好きだった。とても悲しい。……悲しいから、こんなに胸が苦しいのだろうか?
皿に載せられたハンバーグが色あせていく気がした。母の夕食は一日の楽しみなのに。何か、例えようもない不安が心の底に渦巻いている気がしてならない。何か大事なものが抜け落ちている気がする。頭の片隅の目立たないところで、自分の知らないうちに……。
「そういえば陽菜、あの絵はどうなったの」
「絵?」
「ほら、すっごく朝早く起きて、描いていたでしょう。小夜子ちゃんと一緒に」
ああ、と陽菜は目を伏せる。
「だいじょうぶ、もう仕上げは終わってるんだ」
「そうなの、良かったわ。展覧会だっけ? 長井先生が教えてくださったんでしょう。陽菜がちゃんと出せたら、先生もお喜びになるわ」
そうだ。絵を完成させて、提出して、立派に飾られたら。陽菜はようやく微笑んだ。お空の先生はきっと褒めてくれるにちがいない。
――よしよし、いい子だね陽菜ちゃん。
ふいに先生の言葉が甦った。先生の温かな手が額を撫でる……そういえば、いつから陽菜ちゃんと呼ばれていたのだっけ……その後の理科……「贔屓されているんだよ」小夜子の言葉……。
「やだ、お父さん帰って来ちゃった」
母が慌てて立ち上がる。玄関の方で扉がばたんと閉まる音が聞こえた。
「もうお父さん、早くなるなら言ってよ、ご飯用意したのに!」
「ごめんごめん、いろいろあって今日は早くあがれたんだよ」
玄関先の父母のやり取りを耳にしながら陽菜は首を振った。
もう考えるのはよそう。先生はいなくなってしまったのだ。いなくなった人のことをあれこれ考えるなんて、とても酷いことだ。
寝る前に父に呼ばれ、展覧会の絵を見せることになった。
「おお、これはなかなか」
両手に広げた画用紙を眺めながら父は唸った。
「なるほど『朝』か……。素敵な色使いだね! さすが陽菜、センスがいい!」
父は両腕を広げて陽菜を抱きしめた。
母もにこにこして絵を眺める。
「ほんとねえ。お父さんの芸術センスを受け継いで良かったわ。私に似たらどんな珍百景を描くかわからないもの」
「何を言ってるんだい。君は僕にとって最高の妻だよ」
父は今度は母を抱きしめた。まるで外国映画のワンシーンのような光景だが、陽菜はこのやり取りが好きだった。平和的な西本家を象徴するようで、いつも安心するのだ。
画用紙一杯を彩るグラデーション。地の底をたゆたう濃紺に似た黒から徐々に焼けつくような赤を経て、薄墨のように青が広がっていく様を描いていた。暗い朝も明るい朝も、どちらも『朝』。陽菜はその全ての面を描きたかったのだ。
父のお墨付きをもらったので、陽菜は上機嫌で部屋に戻った。明日、絵を持って行こう。――誰に渡せばいいのだろう?
「教頭先生に渡せばいいんじゃない」
明朝、学校へ向かう道で小夜子は何でもないことのように淡々と言った。
「こういうときはとりあえず、それで問題ないでしょ」
「そうだね、そうするよ」
陽菜の手には画用紙が丸められている。小夜子は手を差し出した。
「見せて」
「えー」
少し照れながら陽菜は小夜子に絵を手渡した。
小夜子の両手が画用紙を広げる。瞳に飛び込んできた一面の空に――淡い青から広がる濃紺と黒の世界を食い入るように眺め、ため息をこぼした。
「ど、どうかな」
陽菜がもじもじと問う。小夜子があまりに固まっているので不安気である。
小夜子は我に返ったように顔を上げた。
「ごめん。つい……見入っちゃって。綺麗だよ、とても……ほんとうに」
「ほんとっ?」
陽菜の口元がほころぶ。
「ありがとう……良かった、さよちゃんに褒められるとなんだか安心するよ」
「そう?」
「そうだよ」
眼前に校門が迫っている。校長先生が立って挨拶をしている。
周囲に子供たちが群がる中で、小夜子は言った。
「絵、返ってきたら、もう一度、見せてね」
「え? うん、いいよ」
そう返しながら、陽菜は通り過ぎるクラスメイトたちにおはよう、と声をかけていた。
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