大粒の雨がしとどに降りそそぐ中を、少女がひとり、小走りで駆けていた。小柄な身体にそぐわぬ大きなスポーツバッグを肩からかけて、濡れた石畳にこんこんと靴音が響かせながら。
雨が重々しく少女の身体を叩き、体温を容赦なく奪っていく。草木が鬱蒼と生い茂る山間であった。細々と続く石畳の両脇にやがてぽつぽつと白薔薇が咲きはじめた。雨に打たれながらも上を向き、幾重にも花弁を重ねて立っている。息をきらした少女の眼前に、煉瓦と石の建物が姿を現した。
入り口の庇の下に人影がある。目をこらすとどうやら黒布を纏った女性のようだった。シスターのような恰好である。ベンチに腰掛けて、手に本を広げて持っている。シスターは少女に気がつくと、手を止めて立ち上がった。庇の下を飛び出し、雨粒に濡れるのも構わず駆けつける。
「こんなに濡れて……ずいぶん身体を冷やしているようだわ。さあ、こちらへ……お入りなさい」
ほっそりとした手指が少女の肩に触れる。二人はそのまま建物の中に入っていった。
「何もないところですけれど、ゆっくりお休みになって」
少女は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回した。玄関から真っ直ぐに赤い絨毯が敷かれている。それは正面の大きな木の扉の向こうへ続いているようだった。
「その先は聖堂ですよ」
少女の目線に気づいたのか、シスターが言う。
「さあ、お上がりなさい」
少女は泥の跳ねた靴を脱いだ。古い木床がみしりと軋む。ずぶ濡れの靴下が張り付いて気持ち悪い。
玄関の左側の空間にはくたびれたソファが並んでいた。
「どうぞかけて。今、暖炉に火を入れますから」
今時暖炉だなんて。少女が目をぱちくりとさせる。確かに壁が大きくくりぬかれており、薪がくべられている。シスターが立ち上がる頃にはぱちぱちと小さく火が爆ぜていた。
少女はソファにこわごわと腰掛けた。自分をぐるりと取り囲む古びた石壁、高い天井。なんだか現実離れしている様相に、好奇心と不安が入り混ざる。
「ここは……あの……」
「ただの修道院ですよ」
「こんな山奥に、そんなのがあるなんて知りませんでした」
「ここを訪れる方はみんなそうおっしゃいます」
黒布の影でシスターが微笑んだ。寂しそうな笑みだった。
「ここは元々、修道院ではありませんでした」
「え、そうなんですか」
「ええ。……そうだわ、温かいミルクを持ってきましょう」
シスターの細い手がブランケットを摘まみ、少女の肩にふわりと被せる。
「えっ、あ、そんな」
慌てて少女が止めかけるが、シスターは地下へと続く階段を降りていった。
しばらくして彼女が戻ってきた。手には白い陶器の水差しと同じく白いカップがあった。
「いただきます……」
少女がこわごわとカップを手に取る。そっと口をつけた。ミルクは甘く温かく、冷え切った身体を芯から解きほぐすようだった。
「おいしい……」
「お口に合って、よかったわ」
にっこり笑って、自分もカップにミルクを注ぐ。笑った目尻に皺が見えた。
一体この人はいくつなんだろう。カップを口にしながら少女は考える。
「心になにか、抱えておられるのではありませんか?」
唐突な質問に少女は驚いた。
「えっ?」
「何もない方は、ここへはいらっしゃいませんもの。もし何か、重い荷物を抱えていらっしゃるのなら、どうぞお話になって」
少女はうつむき、煌煌と燃える暖炉を見つめた。火の踊る姿を瞳に映し、山奥を彷徨うことになったきっかけを思い出す。
「私は……」
ごくりと唾を呑む。
遠く、くぐもった雷鳴が轟いた。
「死にに来たんです」
ぐ、と肩にかけた鞄のひもを握りしめる。この中にはネットで取り寄せた練炭が入っている。
「自殺したい人のためのサイトがあって、この山のどこかに素敵な廃屋があるって書いてあって。いいなって思ったんです」
「素敵な、廃屋?」
静かにシスターが繰り返す。少女はうなずいた。
「はい。最後の場所だから、綺麗なところがいいなって……綺麗って言うのは清潔とかいうことじゃなくて、なんていうのかな」
「趣き?」
「そう、そんな感じ。ちょうど、こんな……」
建物内を見回す少女の目が見開かれていく。まさか、と唇が戦慄いた。
「どうして、死にたいとお思いになったの」
少女のカップにとぽとぽとミルクが注がれる。シスターの声は優しいが芯があった。少女はうつむいた。言わんとする言葉を逡巡させるように、瞳を震わせて。
「私はいつも、誰かに棄てられる」
少女は生まれてすぐ親に棄てられ施設で育てられた。育ての親の義務的な冷たさと、同じ施設の子供たちとのすれ違い……誰の事も信じられず、いつも独りだった。
少女の趣味は専ら読書で、いつも本を持ち歩いて読み耽っていた。物語の世界に没頭することで孤独を紛らわしていた。
「でも、気づいてしまったんです」
物語の主人公はいつだって仲間がいた。気の置けない、愉快な、信頼できる仲間たちが――。
「本を読んでいるとき、楽しいけれどいつも胸が苦しくなって。どうしてかなって考えたとき、理由がわかったんです。私は孤独で、それはどうしうようもなくて、憧れても憧れても手に入らないって……」
どうして生まれてきたんだろう。少女の中に一つの疑問がぐるぐると巡っていた。お母さんはお腹を痛めてあなたたちを産んだのですよと、当たり前のように習うことも、自分にとってはただの嘘だった。
「生まれ変わりって、信じます?」
少女の言葉に、シスターは微かに首を傾げた。
「なぜ?」
「私は信じます。死んだら、やり直せるかなって。今度は、誰かに囲まれた人生でありたい」
ぱちん。大きく火が爆ぜた。外では荒れた風が吹きつけ、雨戸が酷く軋む。シスターは静かにカップを置いた。
「……わたしも、たったひとりだけ、そんな人を知っているわ」
はっ、と少女が顔を上げる。
鋭い雷光がシスターの顔を照らす。黒絹の下の顔には深い皺が刻まれていた。
「……友達なの。大切な……大好きな……友達」
震える唇で言葉を切り、シスターは天を仰ぐ。今にも泣き出しそうな、静かな哀しみを身に纏いながら目を閉じる。……
――死体が、こんなに悲しいものだとは思わなかった。
そこにいるのに、そこにいない。あるのは、虚しい空の器。それをわかっていても、冷たい肉体に縋り付いて離れられない。
しんしん。粉のような雪が降る。あなたの身体を埋めてしまおうというように。嫌だ、とわたしは叫ぶ。愛する者に降りかかる雪を必死で払いのけながら。
ああ、あなたに聞こえているかしら。わたしの生涯をかけた償いの言葉。懺悔の祈り。これから話す一言一言に、わたしの涙と魂を込めて……。
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