黒鳥は憧憬を見る

償いの告白
シュリ
シュリ

第八話 オディール 二

公開日時: 2020年9月5日(土) 12:07
更新日時: 2020年9月5日(土) 12:08
文字数:3,120

「さよこちゃんっていうんだね。わたしは、ひなっていうの」

「ひな……ちゃん」

「そう。えっとね、おひさまと、なっぱの字なんだって」

 頭の中で二つの漢字が思い浮かぶ。父のくれた書籍だけでは飽き足らず、実家にある書物を片っ端から読みあさってきたことに初めて感謝した。陽と菜。陽菜。彼女の名前は陽菜だった。

 頭の中で「白鳥の湖」の情景が静かに流れ出す。

 婆やの目は固く閉じられたままだ。

 病院へ着くと母親は車を飛び出し、「誰か呼んでくるから、二人は見ておいてね、一応鍵をかけておくから、お母さんが来るまで決して出ないこと!」

 と念を押し、ぱたぱたと病院へ走る。

 車に取り残された私たちは、互いに顔を見合わせた。陽菜ちゃんは優しく微笑んだ。長い睫が重なって、本当にお人形のように――しかしお人形ではない、花のような笑みを浮かべて――

「おばあちゃん、もうだいじょうぶだね」

 と言った。

 おばあちゃん。彼女からすればそう見えるのだ。婆やは私の祖母ではない。世話人だ。だが、そういった文化が彼女の家にはないのだろう。

 違うと訂正できずに私は力なくうなずくのみだった。

 それからはめまぐるしく事が運んだ。母親の連れてきた看護師たちによって婆やは担架で運び出され、私たちは待合室で待機することになった。

 やがて医師がやってきて、病室に通された。部屋の奥の白いカーテンの向こうで、婆やはベッドに寝かされていた。手首に細い管が通されている。点滴を受けているのだ。医師は母親に向かって言った。

「身体に異常は見受けられません。過度な疲労、睡眠不足でしょうか」

 はあ、と返事を返す母親の隣で、私は固まっていた。

 婆やはとても働き者だった。昔から、東城家のためにと何かにつけて尽くしてくれていた。私が屋敷を出ることになったときも、どうか連れていってくださいと懇願していたことも知っている。そして別邸には婆や以外、誰もいない……。

 これまで家事など何もかも婆やに任せきりにしていたことを悔やんだ。すべて私のせいだ。まだ意識のない婆やの、深く皺の刻まれた顔を見て、私はただ唇を噛みしめていた。

 ふいに、私の手に温かなものが触れた。陽菜ちゃんが私の手を握っていた。大きな瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいる。

「だいじょうぶ……?」

 その声に、一体どんな魔法があったというのだろう。

 私の顔は意思から離れて歪み、気がつけば目頭が熱く熱を持っていた。視界が滲む。生温かい水滴が頬を伝い落ちた。

 泣いている、という事実に気がつくと私は慌てて両手で顔を覆った。泣き顔など他人に見られてはいけない気がした。みっともないことだと。

 お願いだから私を見ないで。放っておいて。そう言いたかったのに、喉はしゃくりあげるばかりで言葉を紡がない。

 そっと、背に温かな温度を感じた。陽菜ちゃんだ。陽菜ちゃんが私を――抱きしめている。

「つらかったんだね?」

 短いその言葉が、これまでの私のすべてを……屋敷を追い出され、婆やと二人きり、遠い別邸に移された私のすべてを労り、そっと寄り添うようだった。不思議だった。彼女は私のことなど何も知るはずはないのに。

 嗚咽が止まらない私を優しく抱く陽菜ちゃん。その様子を黙って見守っている母親。

 こうして私は西本家という温かな親子と出会った。

 婆やは昼前に目が覚め、病院の天井と、傍で付き添っていた私たちに気がつくと、激しく涙を流しながら何度も何度もお礼を言った。特に陽菜ちゃんとその母親には、無理矢理立ち上がって頭を地面に擦りつけようとするものだから、止めるのに一苦労だった。

「お嬢様は、本当に苦労なされたのです……」

「やめて!」

 放っておけば私の過去まで洗いざらい話してしまいそうだったので、私は必死で割り込んだ。

「何も言わなくていいから……お願いだから……」

「あの」

 母親が控えめに手を挙げた。

「小夜子ちゃんは、南野幼稚園に通うんですよね?」

「ええ、そうなのです」

「私たちも同じなんですよ。よろしければ、これから毎朝一緒に通いませんか?」

「ええっそんな!」

 婆やは卒倒しそうな顔をした。

「いけません、そんな、余所様のご迷惑になっては」

「余所様なんて。もうこうして、親しくなれたじゃありませんか。陽菜も新しいお友達ができてとても喜んでいますし……」

 陽菜ちゃんがこちらを見た。大きな目をぱちくりさせて、にっこり笑う。裏表のない、本当に心から喜んでいるのがわかるような笑みだった。

「それは……しかし……」

「すみません、婆やが倒れたので私も思うところがありました」

 私は二人の間に割って入るように鋭く声を張り上げた。

「婆やに何もかも任せきりました。運転手を雇いますから、大丈夫です」

「お嬢様っ」

 婆やの素っ頓狂な声も無視して私は言い切る。

「見ず知らずの私たちによくしてくださり、本当にありがとうございました」

 朝は緊張して何も言えなかったのに、いつの間にか私の舌は饒舌になっていた。緊張が解きほぐされている。私の手に、背に、陽菜ちゃんの温度がまだ残っているようだった。

 私は婆やから財布を借りて、病院の公衆電話へ急いだ。家の電話番号は覚えている。電話番号だけじゃない、郵便番号も住所もそらんじられる。

 電話に出た者に事情を話し、母と代わらせた。母の声は西本家の母親とは違う、暖かみのない、きんきんとした声色だった。

 婆やが過労で倒れたこと、このままでは幼稚園までバスでなど到底通えないであろうこと、今日は人様にお世話になってしまったことを告げると、母は慌てたようだった。そんなことになっていたなんて、だの、私だってあの人にちゃんと抗議したのに、だの、ぐるぐると呟いていたので私は一喝した。

「運転手をよこして! 婆やはもう目を覚ましたから、いつでも帰られる! このままだとまたその家の人に迷惑をかけるの!」

 通路を行き交う人々が驚いたようにこちらを見るが構ってなどいられない。彼らからすれば小さな幼児が公衆電話で怒鳴っているのだから異様な光景であろうが、こちらは必死なのだ。

 がちゃん、と力任せに受話器を投げて戻し(届きにくいのだ)、部屋に戻って私は告げた。

「運転手を呼びました。本当に、ご迷惑をおかけしました」

 ぺこりと頭を下げる私に、陽菜ちゃんの母親は「まあまあまあ」と慌てて顔を上げさせた。

「小夜子ちゃんは礼儀正しいのね。びっくりしちゃったわ。陽菜にも見習ってもらわないとね」

 二人を車まで送った。車に乗り込む際、陽菜ちゃんはこちらを振り向いた。

「あした、ようちえんであおうね」

 やくそくだよ、と手を振る。

 可憐な笑みを浮かべた彼女を乗せて、青い車は走り去っていく。

 その姿が見えなくなるまでいつまでも立っていた。陽菜ちゃん、という名前を胸に刻みつけながら、いつまでも、いつまでも。


 時計が午後三時を回った頃だった。病室の扉がゆっくりと開いた。再び寝入った婆やに付き添いながら私は病院に備えられていた本を読んでいるところだった。

 扉の向こうから、ゆっくりと足音が響いてくる。つかつかと固い革靴の音だ。見上げると、背の高い、黒いスーツに身を包んだ男が立っていた。

「小夜子様ですね」

 男が訊ねる。私は呆然としながらうなずいた。

「初めまして。佐々木と申します。これからこちらで、運転手としてお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」

 私は佐々木の顔を知っていた。

 母と「白鳥の湖」を観に行った時だ。母の左隣に座っていた男だった。特に知り合いらしいそぶりは見せなかったが、その足の長さと黒いスーツ姿、そして、鋭利な冷たい瞳がどこか異様で、思わず凝視してしまったので覚えていたのだ。

「はじめまして」

 そう返した私の声は、自分の声とは思えないほど機械的で、乾いていた。

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