黒鳥は憧憬を見る

償いの告白
シュリ
シュリ

第六話 朝と夜 五

公開日時: 2020年9月3日(木) 12:09
更新日時: 2020年9月5日(土) 12:07
文字数:4,050

 坂道の途中から黒い鉄柵が道の両脇を囲うように広く続いている。既に敷地の中に入っているのだ。陽菜の頬が緊張に引き締まる。

 やがて、黒い鉄柵から溶け出したように滑らかな門が現れた。優雅な曲線を描いた門扉に、蔓薔薇の掘り模様が描かれている。陽菜の父のDIYとは明らかに違う、職人の技で彫られたものだ。小夜子は右手を門に近づけた。すると門扉はするすると横に流れ、二人の前に道を空けた。

 ぽかんとする陽菜に、小夜子は呟く。

「むだな設備でしょ」

 ぶんぶん、と陽菜は首を横に振った。ドラマや漫画で見るような、現実離れした光景にただ驚かされるが、決して無駄とは思えなかった。

 門の向こうには庭園が広がっていた。美しく整えられた緑のアーチ、整然と並ぶ低木、青々とした芝生……辺り一帯に点々と白い薔薇が花開いている。

 屋敷の扉も、小夜子が手を近づけると自動的に施錠が解除された。

 重厚な木製の扉が開く。取っ手には勇ましい獅子の彫り物が施されていて、まるでおとぎ話に出てくる魔女の館の門番だ、と陽菜は思った。

「二階に行くから、着いてきて」

「二階……?」

 扉の向こうは広々とした空間になっていた。真っ直ぐ目の前に階段が左右一つずつ、緩やかな弧を描いて並んでいる。小夜子は右側の階段に足をかけてうなずいた。

「私の部屋があるから」

 二階の廊下は薄緑の壁に囲まれていた。木製の扉が点々と並ぶ中を通り過ぎ、真ん中辺りで立ち止まる。

「入って」

 小夜子が扉を開け、促した。

 おそるおそる、陽菜が中を覗き込む。豪華な屋敷にしては拍子抜けするほど簡素な部屋だった。奥の壁に向けて置かれた学習机と椅子、その左右には本棚が並んでいる。

「ここ、さよちゃんのお部屋……?」

「そう」

「どこで寝てるの」

「寝るのは別の部屋」

 お金持ちになると、寝るためだけの専用の部屋があるらしい。感心する陽菜をよそに小夜子は机に備え付けられたクッション張りの椅子を引き出して見せた。

「とりあえず、座って」

「さよちゃんは」

「私にはこっちがある」

 よく見ると机の隣に折りたたんだ簡素な椅子が立てかけられている。

「悪いよ、わたしはそっちにするから」

「いいから」

 少し語気を強めて小夜子が言う。

「ひなちゃんは、休まないといけない」

 小夜子の手に押されるようにして陽菜が椅子に座る。

 小夜子の学習机はとても上等なものだと、疎い陽菜でもすぐにわかった。椅子はとてもふかふかとしていて、普段自分が使っているものとは大違いだった。

「着替えてくるから、待ってて」

 立ち去る小夜子の背中を目で追う。着替えなければならない……彼女の、紺のウインドブレーカーの下に広がる惨事を思い出す。

 焼けつくような真っ赤な夕陽。小夜子の腕が振り下ろされ、迸る真っ赤な血。おぞましい男の悲痛に歪んだ顔。真っ赤に塗れた床、小夜子の制服を濡らした真っ赤な血……。

 数分後、青いワンピースに着替えて戻った小夜子は、訝しげに立ち止まった。

「どうしたの」

 陽菜は固く握った両手を膝に押し当てて、下を向いている。

「ひなちゃん?」

 小夜子が慌てて駆けつける。陽菜の肩は震えていた。

「ひなちゃん……」

 小夜子の腕が、後ろから陽菜の身体をそっと抱きしめた。

「ごめんね、独りにして」

 ぴたりとくっつけた身体を通して、陽菜の震えを強く感じた。陽菜は泣いていた。膝の上にぽたぽたと水滴が止めどなくこぼれ落ちていく、その感触さえ伝わってくるようだった。

「……ちがうの」

 ひくひくと声を引きつらせながら陽菜は言葉を絞り出した。

「わたしのこと、なんて、どうでも、いい……」

 確かに自分は怖ろしい思いをした。先生のねっとりした手、生臭い吐息――逃げられない恐怖を今でもまざまざと思い出せる。あのままいけば自分がどういう目に遭っていたのかも、ぼんやりとだが想像がつく。だが、それよりももっと。

「さよちゃんが、傷ついたのが、一番、かなしい……」

 小夜子は困惑したように眉をひそめた。 

「私はどこも傷ついてない」

 陽菜の身体を抱く腕を一層強めて言い切る。

「傷ついたのはひなちゃんでしょう」

「ううん、だって……あんなふうに……さ、刺した、さよちゃんが、一番……」

 陽菜の嗚咽が一段と強まった。その先はもう言葉にならない。水滴だった涙は堰を切ったようにあふれ出ていた。

「ひなちゃん」

 小夜子の指が陽菜の瞼を覆った。その細い指はひどく冷たかった。

「あなたのその優しさが、あなたを傷つける。……私がもっとはやく、気をつけていれば」

 小夜子の指の隙間から涙が染み出して、手指を温かく濡らした。

「ひなちゃんはね、優しすぎるの。みんなあなたを好きになるけど……あなたは誰も、好きにならなくていい」

「……?」

 しゃくり上げながら陽菜は戸惑う。

「さあ、飲んで」

 小夜子の手にはいつの間にかティーカップが握られていた。

「……」

「だいじょうぶ。少し感情が高ぶっているだけ。これを飲めば落ち着くから。ただの紅茶だから」

 わけがわからないまま、陽菜は口をつけられるままにカップの液体を飲み干した。濃厚な紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。そのうち、陽菜の嗚咽は落ち着いていった。

 ぼうっと半開きの目で小夜子を見上げる。

「さよちゃん……?」

「怖い思いをしたね。でも、もうだいじょうぶ。何もかも忘れればいい」

「まって……何……どういうこと……」

「忘れなさい、何もかも」

 突然聞き慣れない、低い声が陽菜の耳に飛び込んできた。陽菜は一瞬目を見開きかけたが、すぐにとろんと瞼を閉じる。低い声はそのまま続けた。

「今日は勉強がはかどってしまい、いつもより遅くまでかかってしまいましたね。大丈夫です。お二人で一緒に帰ります……」

 陽菜はやがて穏やかな寝息を立て始めた。

「うまくいった?」

 小夜子が訊ねる。傍には背の高い男、佐々木が立っていた。彼はティーカップを回収しながらうなずいた。

「ええ。目覚めたときには何も覚えていないでしょう」

「そう」

「陽菜さんの家には、勉強が長引き少し遅れていると既に連絡を入れております。あとは、目覚めるタイミングで家の前にお連れすればよろしいかと」

「どれくらいで目覚めるの」

「三十分ほどです」

「わかった」

 小夜子はポケットから小さな黒い機械の塊を取り出してテーブルに置いた。

「これ、片付けといてくれる」

「こちらは……」

 佐々木が手に取る。彼の手の中にすっぽりと収まるほど小さなそれは、レンズの嵌ったカメラだった。

「学校の更衣室で見つけたの。中身を見ずに処分してほしい」

 佐々木は何か言いたげな表情を見せたが、無言で一礼して部屋を出た。

 小夜子は改めて陽菜の正面に佇む。

 陽菜はすうすうと寝息を立てながら、穏やかに沈黙している。椅子にもたれかかり、首を少し傾けて。

 小夜子は両腕を伸ばして、正面から陽菜の身体を抱きしめた。ぎしり、と椅子の背が傾く。

「ひなちゃん」

 陽菜の、短く切り揃えられた色素の薄い髪に鼻先を埋め、そっと囁いた。

「ひなちゃん……」

 まもるから。私がまもるから。

 瞼を閉じれば鮮明に甦る。男の手が陽菜の身体を汚そうと這い回る光景を。

 小夜子の左手が陽菜の太股に触れた。清らかな白さを帯びた肌を撫で、汚れを落とすように何度も、何度も、さすり続ける。

「まもるから。私がまもるから……」

 どうかあなたは、穢れないままでいて。

 普段陽菜の前で見せる、りんとした面影はそこにはなかった。ただ縋るように陽菜を抱く少女の姿がそこにあった。


***


「ひなちゃん」

 震える陽菜の身体を支えるようにしながら、優しく呼びかける。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだから。安心して……」

 わけのわからないまま陽菜はうなずく。自分がどうしてこんなに怯えているのか、見えない不安に駆られながら。

 校舎内は静かだった。陽菜の荒い吐息と二人の靴音だけが響いている。教室で聞かされた衝撃的な事実を思い起こしながら陽菜は呆然と呟いた。

「長井先生……どうして……」

「ひなちゃん、長井先生のこと、慕ってたものね。でも、今は考えないで」

 小夜子は諭すように囁く。

「今ひなちゃんは人一倍ショックを受けているんだよ。だから、落ち着くまでは何も考えない方がいい」

「そうなの……かな」

 小夜子が保健室の扉を開く。部屋の奥で養護教諭が棚にファイルを並べているところだった。

「あら、西本さんどうしたの?」

 養護教諭が眼鏡を押し上げながら慌てて駆けつける。眼鏡の奥の目尻の皺が心配そうに寄った。

「すみません、さっき教頭先生が来られて……」

 小夜子の言葉に、養護教諭は一瞬頭を巡らせ、ああ、と答えた。

「ショックを受けちゃったのね……かわいそうに。西本さん、ここで少し休んでいましょうね」

 小夜子に支えられながら陽菜は簡易ベッドに腰掛けた。小刻みに震える肩を抱きながら俯く。

「すみません……」

「謝らないでいいのよ。でも参ったわねえ。……長井先生、いろんな子に慕われてたから、こんな風にショックを受けた子も多いんじゃないかしら」

「先生」

 小夜子が鋭い声を出した。

「今は」

「あ、ごめんなさいね」

 養護教諭は慌てて眼鏡を直しながら言った。

「東城さんはもう戻っていいわよ」

「いえ、心配なのでここにいます」

「だめよ、教室にいないと」

「今日はどうせ授業にならないのではありませんか」

 陽菜の前で立ちはだかるように小夜子は動かない。

 彼女の小学生らしからぬ物言いは教職員の間でもしばしば話題に上っていた。養護教諭はため息をついた。

「仕方ないわね……あとで私から報告しておくから……二人とも、落ち着くまで休んでいなさい」

 簡易ベッドの目隠しが引かれ、白いカーテンが二人の視界を覆った。

 小夜子も陽菜の左隣に腰を下ろす。やがて、そろそろと右手を伸ばした。細く冷たい指先が陽菜の手に触れる。

 陽の肩がぴくりと震えた。涙の溜まった大きな瞳で小夜子を見つめる。

 小夜子も見つめ返した。鴉のような、澄んだ瞳で真っ直ぐに陽菜を覗き込む。

「安心して」

 小夜子がそっと耳打ちした。

「どこにもいかないから」

 うん、と陽菜はうなずく。そのまま、伸ばされた小夜子の指先をぎゅっと握りしめた。

 

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