――陽菜ちゃんはすごいね。授業中もそうだけど、テストの出来もいつも素晴らしい。
担任の長井先生に呼び止められたのは、昼休みの教室だった。陽菜はいつも通り自分の机で本を読んでいた。皆外へ遊びに出ていて他には誰もいない。いつも一緒にいる小夜子は給食の片づけに行っている。
「陽菜ちゃんは塾に行っているのかな?」
いいえ。首を振ると長井先生は爽やかな笑みを浮かべた。
「そうか。せっかく頭がいいのにもったいないな……。そうだこうしよう」
に、と白い歯を見せる。
「先生が特別に、放課後の塾を開いてあげる」
放課後、皆が帰った後に教室に残り、特別授業を受けるという提案だった。陽菜は思わず両手を振った。
「ええっ、でも、そんな、わざわざ」
「いいんだよ。先生はね、才能のある子にはもっと伸びてもらいたいんだ」
「それなら、えっと、東城さんは、一緒に受けても……?」
小夜子の成績は正直言ってかなり悪い。だが決して頭が悪いというわけではないことを陽菜は知っていた。むしろ頭の回転はとても速く、記憶力も優れている。だが全く勉強に精を出さず、高学年に上がる前から成績は低迷していた。授業もほとんど聞かずにぼうっと窓の外を眺めていることが多いがそんな彼女を叱る先生は誰もいなかった。なぜなら、彼女の家は――。
「ふむ、東城さんね……。そうだね、彼女の親御さんからお許しが出るかどうか」
陽菜の頭に、小夜子が坂道を上り帰っていく背中がぼんやりと浮かんだ。その向こうに佇む、大きな大きな、邸宅のシルエットも。
「東城さんが受けたいって思ったら、きっと説得してくれると思います」
陽菜の勢いに押されたのか、先生は頭をぽりぽり掻いた。
「そうだね、まあ、彼女は勉強自体に興味はなさそうだけど……熱意があるなら、先生も全力で教えよう」
にっこり、日に焼けた顔が快活に笑った。
小夜子さえやる気を出せば一緒に受けられる。陽菜は大きくうなずいた。
「特別授業、受けます」
「それはよかった」
放課後の特別授業は明日から開始されることになった。早速、帰り道で陽菜は小夜子を誘った。
小夜子はこの提案にあまりいい顔をしなかった。
「長井先生、あんまり好きじゃない……」
「どうして? すごく人気者なのに」
「だって、あいついつもひなちゃんを変な目で見てる気がする。なんていうか、汚いおやじみたいな目」
汚いおやじ。あの先生には最も似つかわしくない表現である。陽菜は眉をひそめた。
「どういうこと? 変な目って。普通だと思うけどな」
「普通じゃないっ」
思わず足を止めた。びゅうと寒風が二人の間を通りぬけていく。
「よく考えて。あの先生、ひなちゃんの担任になってからおかしくなってる」
「どうして」
「陽菜ちゃん、贔屓されてる自覚、ない?」
陽菜はきょとんと小首をかしげた。
「ひいき……?」
「わからないか。まあ、そうだよね。……」
冷たい突風が吹きつけ二人の髪を巻き上げた。陽菜は思わずくしゃみを飛ばし、慌てて鼻を啜る。
「ご、ごめん、飛ばなかった?」
「だいじょうぶ」
小夜子は巻いていた赤いマフラーを首から外し、陽菜の水色のマフラーの上からふわりと巻いた。
「さよちゃん? 寒いよ、そんな」
「寒くない。立ち止まらせてごめん。もう歩こう」
歩き出しながら、小夜子は呟くように言った。
「その、勉強会、私も付き合うから」
「ほんと?」
「でも、今の成績じゃよくわからないだろうから、ひなちゃん、勉強教えて」
「え」
小夜子はどこからか小枝を拾っていた。道路の内側にいる陽菜に当たらないよう、反対側の手で握りしめ、鞭のように振り回す。
「ひなちゃんに教えてもらえたら、絶対できると思うから」
枝先が鞭のようにうなり、ガードレールにへばりついた枯れ葉を鋭く断ち切った。
その日、小夜子は陽菜の家に上がり、二人で一緒に勉強した。宿題はあっという間に片付き、授業の復習までたどり着いた。小夜子はやはり飲み込みが速く、これまでの成績の低迷ぶりが嘘のように理解を深めていった。
翌日の放課後、先生は陽菜と小夜子を教室に残した。
「東城さん、よく来てくれたね。君にはまず、これをやってほしい」
A3ほどの大きさの紙が厚く束をなしている。表面にも裏面にもびっしりと、数学や理科などの問題が記されている。それを小夜子の両手に渡した。
「全て解けたら、晴れて放課後塾のメンバーに加えてあげよう。さあ、隣の多目的室を使うといい」
小夜子の眉がぴくりと動く。切れ長の目が不審そうに先生を見上げるが、彼は爽やかに笑うのみだった。ちらりと陽菜の方を振り向きつつも、小夜子は大人しく教室を後にした。
「少し厳しすぎたかな?」
教室の扉を閉めながら長井先生は言った。
「でも、これも彼女のためだ。これからやることは少しレベルの高い勉強になるから……基礎がしっかりできないとね」
「だいじょうぶです」
陽菜は微笑んだ。
「さよちゃ……東城さんは、すっごく頭がいいんですから」
「そうか。それなら、問題なさそうだね」
誰もいない教室で机を椅子を向き合わせ、陽菜と長井先生は向かい合って座った。
「さて、陽菜ちゃんは国語が得意だったね。苦手は……理科かな。でも暗記は全部いけるんだよね。論理的に考えるのが苦手?」
「そうだと思います」
陽菜が答えると先生は満足そうにうなずいた。
「先生は理数系でね。陽菜ちゃんにはいい先生になれると思うよ」
先生は足元のカゴから見たこともない冊子を取り出した。教科書に比べるとなんだか少し分厚い。
「これは、賢い大学を目指す子が使う教科書なんだ。安心して、小学生用だからね。先生が塾の講師をしていたときに持っていたんだけど、陽菜ちゃんにあげよう」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭をさげると、先生の手がすっと伸びた。大きな長い指が、陽菜の髪を撫でる。
「よしよし。いい子だね陽菜ちゃん。きっとこの学校で一番賢い子になれるよ」
ぞわり。陽菜の背に一瞬悪寒が走った気がした。なぜだろう? 教室が寒いからだろうか。
陽菜の髪は細く、色素が薄い。染めていないのに、染めているのではないかと幼稚園時代に先生から言われたことがある。陽の光を受けて一層明るく輝く短い毛先が先生の指の間をするりと滑り抜ける。
先生の手は生温かくて、少し湿っている気がした。
学校を後にした陽菜と小夜子は、再び陽菜の部屋で勉強に精を出していた。
「ひなちゃん、放課後の授業って、どんな感じなの」
「ううんと……ちょっと難しい教科書を使って勉強したんだ。賢い大学を目指す人用なんだって」
「ふうん」
小夜子は鉛筆を握ったまま下を向いていた。
「さよちゃんは? 全部とけた?」
「……解けなかった」
ぼきり。小夜子の鉛筆の先が折れた。砕けた芯がノートの上を転がった。
「あ、さよちゃん、削り機……」
「あいつ、私を入れない気だ」
「え?」
鉛筆削り機を手にしたまま陽菜は固まった。
「まさか。だって、言ってたよ。まず基礎ができていないとって……」
「基礎? あれが基礎?」
小夜子は白い指先で前髪を掬った。
「私、授業は聞いてないけど宿題とか問題集である程度問題は把握してる。そんなのに出るような内容じゃなかったよ。あいつに回収されなければ見せてあげられたのに。私に邪魔されたくないんだ。ひなちゃんとの時間を」
「さよちゃん……」
そんなわけないじゃない、と言いかけた言葉は喉の奥でつっかえた。
額に、生温かい手の感触が甦る。少し湿った、大きな手。
――よしよし、いい子だね、陽菜ちゃん。
「ひなちゃん?」
小夜子の綺麗な黒い瞳がこちらを覗き込んでいる。陽菜ははっとして、居住まいを正した。
「ううん。なんでもない。鉛筆削れたかな? 続きしちゃおうよ」
言いながら、陽菜は内心首を捻っていた。
先生はいつから、「陽菜ちゃん」と呼ぶようになったのだろう。
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