布団の中は温かい。まるで胎児の眠る腹の中のよう。
「ひなちゃん」
暗くて居心地のいい壁は突如取り払われ、冷たい外気が容赦なく肌を刺した。
「ひいっ」
思わず身を固くして身体を丸める。小気味いい音でカーテンが開かれ、むき出しの手足に温かな朝日が降り注ぐのを感じた。
「おはよう、朝だよひなちゃん。急がないと遅れるよ」
陽菜を起こしたのは小夜子だった。同じ小学校に通う友達である。
「えっうそ! ――ほんとだ、もう七時半……」
勢いよく跳ね起き、傍に畳んでおいた小学校の制服を掴む。
「おはよう、さよちゃん、ごめんね今日も……」
「ひなちゃん」
「なにっ」
慌ててスカートのジッパーを上げていると、小夜子が手を伸ばしてきた。
「ボタンがずれてる」
「え、あ」
白く華奢な指が、陽菜のブラウスのボタンを一つ一つはずしていく。少し屈んだ小夜子の黒絹のような長い髪がふわりと香った。陽菜とおそろいのハーフツインテールに、羽根の形の髪留めが光っている。
ボタンはあっという間に正しく留められた。
「あわてんぼさん」
小夜子がくすりと笑った。
二人が下へ降りると、陽菜の母親がクッキーの缶を手に待ち構えていた。
「ごめんなさいねえ、さよちゃん」
言いながら缶からクッキーを取り出して渡そうとする。
「陽菜ったらいつも寝坊するんだもの」
「ちょっとお母さん……」
「本当のことでしょ。はいさよちゃん、陽菜を起こしてくれたお礼」
「いいんです。そんな」
小夜子は眉を少し寄せて首を振った。
「ほんとに、いいんです。私はひなちゃんと学校に行きたいだけなので」
「本当、さよちゃんは礼儀正しくて良い子ねえ……陽菜にも見習ってもらわないと」
「ちょっともう、本当に時間がないから、行くね!」
洗面所で顔を洗い髪を整えた陽菜が小走りで通り過ぎていった。色素の薄い短い髪が揺れる。小夜子とおそろいのハーフツイン。どんなに寝坊してもこれだけは譲れなかった。
「こら、一口でもごはんを食べなさいっ」
母親の言葉を背に、陽菜が玄関を飛び出す。小夜子は慌てて後ろを振り返りぺこりと会釈した。
二月の空気は氷のように冷たい。寒風の吹きすさぶ中で陽菜は思わず身をかがめた。
「さむいね……」
「はやく教室に行かないとね」
小夜子が返すと、陽菜は、そうだね、と手を差し出した。
「こうすればあったかいかな」
「……うん」
小夜子はいつも上等な手袋をしていた。陽菜の毛糸の手袋とは違う、滑らかな外国製だ。しかし小夜子はその手袋を乱暴にはぎ取り鞄に突っ込んだ。
「さよちゃん、それ、いいの」
「平気。ひなちゃんの方があったかいから」
ふたりはいつも手を繋いで歩く。おそろいの髪型に、おそろいの髪留めをつけて。ふたりは学校でも有名な仲良しだった。
五年二組の教室に入ろうと扉に手を伸ばしかけたところで、ふと陽菜は動きを止めた。
「なんか、静かだね」
小夜子も耳を澄ませる。いつもなら扉の向こうはがやがやと騒がしいのだが、今日はいつになくしんと静まり返っている。
小夜子はおもむろに手をかけ、扉を勢いよく開けた。
クラスメイトたちの目が一斉にこちらに向けられる。戸惑いと不安の入り混じった目は一瞬にしてほっとしたように緩んだ。
「陽菜ちゃんか、おはよう……」
手前の女子生徒が声をかけてくる。陽菜は後ろの扉から入ってすぐの席である。おはよう、と返しながら席に着いた。小夜子はそのまま真っ直ぐ進み、同じ列の一番端の席に座る。
ランドセルの中身を開けながら小夜子の目は陽菜に向けられていた。陽菜は、身を乗り出して前の席の女子生徒に話しかけている。
「いったい、どうしちゃったの? まるでお通夜みたい」
「お通夜って。陽菜ちゃん何も知らないの?」
「何が?」
きょとんと目を瞬かせる陽菜に、小夜子が思わず声をあげかけた時だった。
前方の扉ががららと開き、ごま塩頭の教頭先生が入ってきた。灰色の背広がどこかくたびれたように見える。
「みなさん、おはようございます」
教頭先生は教壇に上がらず、皆の席に近い場所に立ち全員の顔をぐるりと見回した。
「……みなさん」
その声は重々しく、教室の空気の底に淀み沈んでしまいそうだった。子供たちはごくりと唾をのみ、後に続く言葉をじっと待っている。
「すでに、知っている子もいるでしょうが――」
――金曜日に、担任の長井先生がお亡くなりになりました。
ひ、と声にならない悲鳴が聞こえた。陽菜が大きな目を見開いて固まっている。目に見えるほどがたがたと震えだし、吐き出しそうに喉を押さえた。
「先生!」
小夜子が席を立つ。皆の視線を浴びながら小走りで駆け寄り、陽菜の腕を支えて立ち上がらせた。
「保健室へ連れて行きます」
「……あ、ああ」
呆気にとられたような教頭先生を尻目に、小夜子は陽菜を支えながら教室を後にした。
***
長井ハルキ先生は若くて格好良くて学校中の子供たちの憧れの的である。背が高く肌は健康的に焼けていて、冗談のうまい先生だった。陽菜もそんな先生が大好きだった。だから、五年生に進級して長井先生が担任になったのを知り、とても嬉しく思っていた。
長井先生は陽菜の成績が良いのをいつも褒めてくれたし、陽菜の絵の才能を見いだしたのも彼だった。図工の時間、彼は校舎の渡り廊下で風景画を描く陽菜の手元をふらりと覗き見て、ぽつりと漏らしたのだ。
「信じられない。小学生でここまで描ける子を先生は見たことない」
陽菜はこの言葉を素直に喜んだ。しかしそれをきいた小夜子は顔をしかめた。
「私は前からずっと、陽菜ちゃんの絵がとても上手だって言ってたよ」
それに、と付け加える。
「あの先生は誰にでもそういうこと言うから信じられない」
決して陽菜の絵をなじったわけではない。むしろ小夜子こそ陽菜の絵を最大級に評価しているのだが、長井先生の言葉は別だという。それを聞いて陽菜は「また鵜呑みにしちゃったのかなあ」と落ち込んだ。陽菜は嘘やお世辞を丸ごと信じてしまう癖があり、これまで幾度もいやな目にあってきたのだ。
しかし次の日、長井先生は陽菜を職員室に呼び出して、一枚のチラシをくれた。
「廊下の掲示板にも貼ってあるんだけど。小学生から中学生まで応募できる展覧会があるんだよ。西本さんも絵を出してみない? 今月中に描いてくれたら先生が提出してあげよう」
どうやら先生は本気で陽菜の絵を評価してくれていたようである。陽菜はその誘いに乗り、その日から展覧会のための絵にとりかかった。
展覧会は毎年テーマが決められており、今年は「朝」だった。朝の風景を描けば良いのかな、と小夜子に相談した。
「じゃあ、早起きしなくちゃね」
小夜子はなぜかとても嬉しそうだった。
「何時から描くの?」
「どうしようかな……朝って、たくさんあると思うの。明るい朝もあるし、まだ暗いのも朝だし……どれを描こうかなあって」
帰り道、陽菜はぶつぶつ呟いていた。小夜子は黙ってその隣を歩いていたが、ふいに「あっ」と立ち止まった。
「ひなちゃん、あんなところにパン屋さんができてる」
小夜子の指さす先を見た。道路を挟んだ向かい側に真新しい店が建っている。看板は虹色に塗られて綺麗なグラデーションになっており、太く丸い文字で「パン工房ながせ」と描いてあった。
「ずっと工事してたもんね。今度一緒に買いに行こう」
そう言って小夜子がちらりと目を向けると、聞こえているのかいないのか、陽菜は目を見開き何事か真剣に考え込んでいるようだった。
「ひなちゃん?」
「……そうか、そうだ!」
突然陽菜が振り返る。ひらめいたのだ。脳裏に鋭い電撃が通り過ぎていったようだった。
「小夜子ちゃん、ありがとう!」
「え、なに、どうしたの」
戸惑う小夜子の手が、温かな手に包まれる。陽菜の手は太陽のようだった。小夜子の冷え切った指先をぎゅっと掴み、おもちゃを買ってもらった幼児のようにきゃっきゃと跳ねる。
「思いついたのっ。わかったんだ、わたしの『朝』!」
「そ、そう? よかった」
戸惑い、目を白黒させながらも微笑む小夜子。
それから陽菜は、絵の構想を夢中で話しながら、自宅の前まで来て慌てて立ち止まった。
「あっ、ごめんね、うちまで来ちゃった……」
「いいよ。どうせ隣だし。毎日送ってあげるよ」
「いや、まあ、確かに隣だけど……」
陽菜が目を上げる。父がDIYを駆使したカントリー風な家の塀からすぐ左隣に上り坂があり、まっすぐ上っていくと大邸宅がある。この辺りは大きな家が多いのだが、その中でも一際目立つ屋敷であった。東城小夜子の家である。
「じゃあね、ひなちゃん。また明日」
小夜子は踵を返し、ほっそりした足で軽やかに坂を上っていく。
陽菜はその後ろ姿をいつまでも見送っていた。
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