西暦2098年、春。

　世間的には春の四月も、北方の地である青森では肌寒い。まだまだ桜は咲かず、始業式を既に終えて数日が経っていても、窓の外は雪景色だった。

　ここ数年、以前にも増して東北地方の春が遅いのは、地軸が微妙に歪んでいるからだという話もある。

　どっちにしろ、教室内で悪目立（わるめだ）ちする摺木統矢（スルギトウヤ）には関係がなかった。

　そう、目立つ……無個性に塗り潰された同世代の中でも、統矢だけが際立っていた。

　一人だけ詰め襟の、兵練予備校北海道校区（へいれんよびこうほっかいどうこうく）の学生服。

　全身の肌を覆う、白い包帯。

　刺々しく伸び放題の髪。

　端正な細面（ほそおもて）には今、暗い光を灯した双眸（そうぼう）だけが輝いているが、表情らしい表情はない。

　そして、彼は授業中にも関わらず堂々と自分だけの作業に没頭していた。教科書の裏にとか、机の影に隠れてとか、そういう態度は微塵（みじん）もない。ただ淡々と、周囲の目も気にせずタブレット端末をタッチしてスライドさせてゆく。

　この時代、既（すで）に個人の端末は珍しい物だったので、自然と同級生の注目を浴びてしまう。

　だが、統矢は意に介さなかったし、それは授業のルーティーンにしか興味のなさそうな教師も同じようだった。

「――さて、2065年の絶対元素Gx（ぜったいげんそジンキ）発見と共に、人類の科学文明は絶頂期を迎え……そして、急激に落ち込み下降、退行し始めた。奴ら、パラレイドの登場によってな」

　老年の男性教師は、まるで呪詛（じゅそ）を連ねるように言葉を淡々と並べてゆく。

　それらも全て、統矢にとっては意識の埒外（らちがい）だ。

　彼の目には今、8インチの四角い世界しか映っていなかった。そこに並ぶデータの羅列をただ読み取り、チェック項目に指で触れる。YESかNOか、0か1かを淡々と選別してゆく作業……それが彼にとっての全てだった。

　だが、瞬（まばた）きすら忘れたかのようにタブレットを凝視する目とは裏腹に、耳は先程から眠気を誘発させる呪文を拾っている。そして、統矢の意識に流れ込んでくる雑音はそれだけではなかった。

「端末なんか見せびらかしやがって、転校生が……これみよがしによ」

「俺らと同じ授業は受けたくないってか？　田舎者が、本土を馬鹿にしやがって」

「あ、それホントの話なんだ？　あの北海道で生き残った、数少ない幼年兵の一人だって」

「北海道……消えちゃったんだよね？　次は本土も戦場になるのかな？　戦場になったら、あたしたちも――」

　ひそやかに不安と疑念が交錯（こうさく）して、ささやきがざわめきへと膨らんでゆく。

　統矢を中心に教室内の空気へと伝搬してゆく伝言ゲームは、教師の咳払いで遮られた。

「ウォッホン！　……では、先程の続きだ。絶対元素Gxは、他のあらゆる元素と結びついて多種多様な化学反応を見せる。軽くて硬い合金から、柔軟性と剛性を両立した樹脂、そしてエネルギー革命をもたらした常温Gx炉（じょうおんジンキ・リアクター）まで様々だ。だが、絶対元素Gxがもたらした一番の恩恵は？」

　じろり、と教師の視線がサーチライトのように教室内を見渡し擦過してゆく。

　自分の上にそれを感じても、統矢にはお構い無しだ。

　ただ、淡々と作業を……あの機体を直すための損傷チェックを続けてゆく。

　しん、と静まり返った教室の重苦しい雰囲気に、教師の溜息だけが響き渡った。

「では、そうだな……五百雀（イオジャク）君。答え給（たま）え、絶対元素Gxのもたらした最大の恩恵とは？」

　ふと、統矢の作業の手が止まった。

　五百雀……その名に聞き覚えがあった。

　統矢が顔を上げたのは、視界の隅ですらりと見心地のいい女生徒が立ち上がったのと同時だ。

　ほっそりとした華奢な後ろ姿は、女性特有の柔らかな曲線で構成されている。カーキ色の制服の上からでも、そのラインが浮き出てくるかのような美しさを感じた。

　そう、美少女だった。

　周囲が着せられている没個性な制服すら、彼女を飾るドレスのようだった。そして、たしかに彼女は「はい」と、楽器の歌うような声で返事をしたのだ。

　さらりと肩に長い黒髪で光の断層を描きながら、その少女は教師の問に答える。

「絶対元素Gxが実用化を可能にした機動兵器、パンツァー・モータロイド……通称ＰＭＲ（パメラ）です」

「……よろしい！　その通りだ、五百雀千雪（イオジャクチユキ）君。流石（さすが）は五百雀家の御令嬢、優秀だ。では、教科書の続きを私に代わって読み給え……くっ！　くはっ、はあ……読み給え！」

　教師は心なしか、息を荒げて肩を上下させている。

　そのことに周囲が驚きをみせていないということは、瑣末（さまつ）なことなのだろう。

　統矢にもそう思えた……五百雀千雪という少女のこと以外の、全てが。

　千雪はそっと両手で花を摘むように、見るも流麗な所作（しょさ）で教科書を持つや読み始める。

「2065年の絶対元素Gxの発見と、それに伴う科学的発展の結果……人類は高度な技術を得ると同時に、有史以来最大の試練を迎えました。それが、天敵とも言える存在、パラレイドの出現。地球上の全人類による総力戦となったパラレイドとの戦いにおいて、現在も学童や女性を問わず多くの兵員が動員されています。そんな未完熟兵（みかんじゅくへい）にとって一番効果的な運用兵器は……個人と同じ姿をし、Gx感応流素（ジンキ・ファンクション）による感覚制御で駆動する人型兵器、パンツァー・モータロイドだったのです」

　滔々（とうとう）と、朗々（ろうろう）と。千雪が教科書を読み上げてゆく。

　その間、自分の作業の手が止まっていたことに気付いて、統矢は思わず奥歯を噛み締めた。

　あの時、あの瞬間から忘れまいと誓った怨嗟（えんさ）と憎悪（ぞうお）を、つかの間の刹那（せつな）に、忘れた。

　更紗（サラサ）りんなの死という、耐え難い現実すら忘れたのだ。

　ほんの僅かな、僅か数十秒という時間だけだったとはいえ。

「あいつ……そうか、あいつがこの青森校区の、いや……この日本のトップエースの一人。五百雀千雪。確か通り名は、フェンリルの拳姫（けんき）……【閃風（メイヴ）】」

　教科書の一節を区切り良く読み終えて、千雪がちらりと教師の方へ視線を向けた。

　その横顔を統矢ははっきりと見てしまった。

　まるでビスクドールのように整った目鼻立ちの少女だ。

　統矢が思わず見惚れてしまい、彼女が持つ物騒な通り名との違和感にギャップを感じていると……突然、教室内の空気が泡立った。

　バン！　と黒板を叩いた教師が、まるでひん剥くように目を見開いて叫び出したのだ。

「そうです！　そうですよ、五百雀君！　そして諸君！　いいですか、君たち皇立兵練予備校（こうりつへいれんよびこう）、青森校区の諸君は、戦士なのです！　幼年兵として鍛えられ、予備戦力として出撃の時を待つ、そう！　……戦士。そのことを忘れないように！　いいですか、忘れないようにぃぃぃぃぃ！」

　狂ったように黒板を叩く教師は、自分の言葉に酔ったように声を張り上げる。

　流石に周囲にざわざわとどよめきが広がっていったが、誰も彼を止めようとはしなかった。教師は泣き叫ぶように、喚（わめ）いて嘆（なげ）くように意味不明な言葉を口走りながら、顔を真っ赤に染めてゆく。

　そのさなかで、ふと気付けば統矢は視線を感じた。

　先ほどから立たされている千雪が、肩越しに振り返って統矢を見ているのだ。

　その視線に視線を重ねれば、収斂（しゅうれん）されて一本の線となった中を互いの思惟（しい）が行き交うかに思われた。だが、統矢から伝えることはなにもない……既にもう、人へ表現すべきものを持ち得ない。人ならざる悪意、敵であるパラレイドに対してのみ、殺意を向けるだけだ。

　だが、そんな無味無臭の冷たい視線を受け止める千雪の瞳は、鏡のようにそれを反射するだけだった。

「さぁっ、諸君ッッッッ！　憂国（ゆうこく）の意志を鋼と変える、人類の防人（さきもり）たる諸君！　今こそ裂帛（れっぱく）の決意も新たに歌うのです、歌うのですッ！　校歌斉唱、校歌斉唱だ！　五百雀君、伴奏を！」

　まさしく、狂気と狂奔（きょうほん）の入り交じる様がそこにはあった。

　今にも口から泡を飛ばしかねない勢いで、ヒステリックに教師が叫ぶ。もはや授業どころではなくなり騒ぎになり始めていたが、千雪はなにも言わずに教室の隅のオルガンへと歩く。誰もが互いに顔を合わせて肩を竦（すく）めながら、一人、また一人と立ち上がった。

　そして、アジテーションにあふれたメロディを、その誇張的な旋律に不似合いな千雪がオルガンで奏（かな）で出した。誰もが気だるげに、しかし義務や義理が存在するかのように歌い出す。

「そうです、歌いなさい！　歌うのです若人よ！　今こそ戦いの時！　地球の！　人類の！　敵を、倒すのです！　……妻の、あの子の仇を討つのですッッッッ！」

　泣き出さん勢いで教壇の前に教師が両手を広げる。

　彼を讃えて慰めるように、まばらな軍歌が故郷（ふるさと）や学舎（まなびや）といった歌詞を並べながら、やがて勇壮なる行軍曲（マーチ）の調子で高まってゆく。

　まるでそれは、幾億と散っていった者たちへの鎮魂歌（レクイエム）だ。

　たまらず椅子を蹴った統矢は、一人タブレットを手に教室を後にする。

　最後に一目振り返った時、その目に鮮烈に刻まれたのは……やはり、凍れる無表情でオルガンを弾く千雪の姿だけだった。

――次回予告！

その少女の名は、五百雀千雪。

日本でも五指に入るトップエースにして、この校区で最強のパイロット。

そんな彼女が、何故か統矢へ接触してきた。

物言わぬ残骸と成り果てた、幼馴染の愛機の前で……新たな出会いが始まる。

頑なに閉ざされ凍った統矢の心に、新しい光は差し込むのか。