俺たちは家に着いた。
千尋は入り口付近で狼狽えていた。
「ーー千尋、入りなよ」
「……うん」
躊躇しながら家の中に入った千尋を、俺は半ば無理やり中へ入れた。中へ入った千尋は、困ったように苦笑いを浮かべた。
「風呂入ってきなよ。お湯はもう沸かしてあるから」
「え、いいの?」
「ビショビショのままいる気か? そのままだと風邪引くだろ。お風呂入って温まってきなよ」
「……分かった」
俺からタオルを渡された千尋は、俺の案内でお風呂場へと足を運んだ。
「それじゃあ入ってくるね」
「ああ。千尋が入っている間に服とか用意しておくから。温まってこいよ」
お礼の言葉を云った千尋は、お風呂場へと姿を消した。
ーーさて、ここからが問題だ。
服は俺のを出せばいいだろう。タオルも別に問題はない。
問題はこっち。下着はどうすればいいか、だ。
着ないという選択肢はあり得ない。
かと云って、男用を着せるのもあり得ない。
なら妹の部屋から持っていく……か。
「勝手に借りていいのか……?」
少しだけ考えて、今回は借りることにした。
明日買いに行けばいいだろう。
俺は妹なら許してくれるだろうと思い、久しぶりに妹の部屋へ入った。
「千尋。タオルと洋服、洗濯機の上に置いておくからな」
「分かったー」
気の緩んでいる声を出した千尋に、俺は少し安堵した。俺と会って話をしてから、ずっと気を張っているように見えた。少しでもそれが和らいでくれたのなら、俺にとっても嬉しいことだ。
数十分後、千尋はお風呂から出て来た。
ほかほかの状態である千尋は、とても気持ちの良さそうな表情をしていた。
「お風呂から出ました」
「どうだった?」
「気持ち良かった。……ありがとう」
「それは良かった。飲み物を持ってくるから適当に座って」
俺はカップに紅茶を入れ、ゆっくりと運んだ。
千尋はリビングの床にちょこんと座っていた。
カップに入れた紅茶をテーブルの上に置く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「砂糖多めでいい?」
「好きな量を入れるといい」
俺の言葉に頷くと、千尋は迷わず3つ砂糖を入れた。
甘すぎやしないか。
思わず俺は言葉をかけそうになった。
けれどその言葉は云ってはならない言葉のように思え、俺はその口を噤んだ。
俺はゆっくりとテーブルを挟んだ向かい側に座る。
「え、あなたはソファーに座って全然いいよ?」
「いや、好きでここに座っているんだ。気にする必要はない」
否。本当はソファーに座りたかった。固い床ではなく、柔らかいソファーでゆっくりしたかった。
けれど、千尋が床に座るというのに、自分だけソファーに座るのはどうかと思った。
「それより、本題へと入ろう」
「そうだね。けれど本題へと入る前に、一つ謝らなくてはならない」
「謝る?」
「私の名前。朝倉千尋って名乗ったけど、それは正解であって正解ではない」
最初からのカミングアウトに、俺は困惑した。
何を云われたのか理解が出来ない。
心臓がドクンと鳴った。
ガンガンと頭が警鐘を鳴らす。
視界が赤と白に点滅する。
千尋の次の言葉を、不思議なことに俺は理解していた。理解できていなかったのは、感情だけであった。
「私の本当の名前は橘紅葉。この世界で云うと、あなたの妹ということになる」
「……ッ!」
千尋は申し訳なさそうに答えた。
同姓同名。その可能性が一瞬頭を過ったが、それはないだろうと判断した。もし同姓同名であるのなら、俺の妹だと断定しないはずだ。
つまり本当に俺の妹ーーけれど、この世界で云うと、と千尋は云った。つまりそれは、千聖はこの世界の人間ではないということだ。
別の世界から来た、ということになる。
つまり……転生?
「いや、私は転生してきたわけではない。転生というのは、簡単に云うと死んで生まれ変わることを指す。私は死んだわけではないから、転生とは云わない」
「なら何だ?」
「パラレルワールドって言葉を聞いたことはない?」
「ーーパラレルワールド。ある世界から分岐し、それに並行して存在する別の世界を指す」
「そう、それのこと」
俺は千尋のことを見た。
千尋はゆっくりと相槌を打っている。
「つまり君は、その別の世界から来たということか?」
「さすが。理解が早くて助かるよ。そう、私は別の世界から来た。世界って色々あってね。私のいた世界は、そのたくさんある世界の、ほんの一部分にすぎない。この世界を軸として、たくさんの世界に分けられた」
「なるほど。この世界が他世界の軸なのか」
「この世界で何らかの問題が起きて世界が分岐し、私や私の弟は生まれた。この世界ではあなたが殺し屋で妹さんが高校生だけど、私のいた世界では、私が殺し屋で弟が高校生だったからね」
「ああ、君って殺し屋なの?」
「あれ、云っていなかったっけ?」
「初耳だな……」
「ありゃりゃ。話にすれ違いがあると嫌だから、少しだけ私の話をさせてもらうよ」
ポリポリと頭を掻いた千尋は、そのまま手を胸元へと置いた。
「私の名前は朝倉千尋。元々の名は橘紅葉。2年前まで16歳である弟と、元々いた世界で一緒に暮らしていた。弟は普通の男子高校生。私は殺し屋をしていた。あなたも殺し屋でしょう?」
「ああ、その通りだ」
千尋の言葉は正しい。俺はゆっくりと肯いた。
「私とあなたの違いは、私にはこの世界の神代恭吾や三芳といった、味方がいなかったことだ。羨ましい限りだよ」千尋は苦笑した。
「組織だとかそういうものには入っていなかったのか?」
「私のいた世界では、殺し屋をすること自体がタブーとされていたからね。そもそも殺し専門の組織がないんだよ。汚れ仕事を好んでやろうだなんていう変な人間なんて、創られていないはずだったからね」
「どういう意味だ?」
千尋は薄く笑った。それは千尋がいた世界そのものを馬鹿にしているような表情だった。
「私のいた世界はパラレルワールドで創られた世界。何を血迷ったのか分からないけど、私のいた世界には神が存在する。神が選定するんだ。この世界に必要な人種と職業とを」
「ほう」
俺は体を乗り出して聞いた。
少しばかり興味がある。
「必要なものか不要なものか。それを神が選定し、理想郷を作る。それが目的なんだと思われる。だから不必要とされた殺し屋だとか、例えば生まれつき体の不自由な人間だとか、そういった者たちは、別の世界へと送られるか、そもそもそんな者はいなかったとして判断され、生まれることもなくその命を絶つことになる。その後ちゃんと別の者として生まれ変わり、人生のスタートを切るのだけど、偶に……本当に偶に私みたいな人間がスルスルっと受理されてしまうことがあるんだ。神様の見落とし、というものだね」
千尋は笑った。
俺は笑えなかった。ただ笑みを浮かべる千尋のことを無言で見続けていた。
「色々と話をしたけれど、頭の中は大丈夫? 情報を詰め込みすぎてパンクしていない?」
「……大丈夫だ」
「その少しの間が気になるけど、大丈夫そうなら、私がこの世界に来た目的をそろそろ話そうか」一口だけ紅茶を飲み、そして云った。
「私の目的はただ一つ。あなたに殺してもらうことだよ、橘隼人くん?」
不適な笑みを千尋は浮かべた。その笑みの真意は分からない。
「何故殺してもらいたいと願った? それは君の意思か? それともーー」
「私の意思であり、私の意思ではない」
千尋は俺の言葉を遮った。
「私は元々いた世界で罪を犯した。その罪を私は償わなければならない。そのために偽名まで作ってこの世界に来た」
「その罪は、殺し屋をしていたことか?」
「それもある。けど、1番はそこではない。私に弟がいたことは知ってるよね? 恐らくその話は話の中でしたはず」
「ああ。16歳の男子高校生だろ? 2年前まで一緒に暮らしていたと君は云った。その言葉だけで推測するに、君の弟さんはもう……」
「……うん。もう何処にもいないよ。2年前の今日、自らの意思であの世界から姿を消したからね。信じたくなかったけど、それが真実だ」
「それで何故君が罪を償うという話になる?」
自らの意思で世界から姿を消した。
その言葉を追求するべきか一瞬迷った。そして俺は追求しない道を選んだ。するだけ無意味だと思ったからだ。千尋はその男ではない。本人でもないのに、確認するのは野暮というものだ。
「弟は、私が殺したようなものだからだよ」
千尋は十分な間を置いてから云った。
「弟が自殺した原因を作った人物たち。そいつらを私は殺した。弟と同じクラスメイトだった人間のことも。その罪は重かった。そして1番の理由は、弟が苦しんでいることに私は気付けなかった。その罪を償うために、私は自身の弟の元であるあなたに殺されなければならない。ただ、それだけの話」
「ただそれだけ……?」
突然の告白。
しかもそれは、良い意味での告白ではなく、最悪を意味する告白だった。
俺の心臓がドクンと鳴った。
鼓動が激しくなる。
殺してはならないと頭が警鐘を鳴らしていた。
そこから来るそれに言葉を付けるのであれば、これは恐怖ではない。これはそう、『共感』だ。
俺は千尋の言葉に共感した。
俺自身、妹が亡くなった時、犯人を殺し、犯人の家族を有無を云わさずに殺した。弁明の余地すら与えなかった。その後、俺は死んだように生き続けた。
2年の月日が経ち、ようやくその時の気持ちに気付いた。そうか。俺は今まで……罪を償おうとしていたのかと。
妹の元へ行きたい。その気持ちもあったがそれ以上に、犯してしまった罪を償いたかったんだ。理由はどうであれ、今まで沢山の人間を殺した。俺は罪を償って楽になりたかったのだ。
俺は千尋のことを見た。
千尋は困った顔をしながら俺のことを見た。
幻滅されたかなと、不安な様子が表情に描かれていた。
けれど俺は、千尋の話を聞いて幻滅などしなかったし、むしろ千尋の気持ちにとてつもないほどに共感でき、俺の胸はキリキリと痛んだ。
俺も大切な妹が殺されてからずっと、犯人には殺意しか湧いていない。殺した今で尚、殺意しか湧かない。もう一度殺したいと思うほどだ。
だからとてもよく分かる。本当に理解出来るんだ。
「弟は私を恨んでいたと思う。これ以上ないと思うほど、私に落胆したと思う。私は弟の今後のことばかり考えていた。けれど弟は、私と一緒に暮らすことを願っていた。私は弟の想いを感じ取ることができなかった。弟に手を差し伸べることが私には出来なかった。これは私の罪なんだ。私は弟に裁かれなければならない。けれど弟はもういない。だから……」
「君の弟を生み出すきっかけとなった俺に殺してもらおうと思った。そういうことか?」
「そう、そういうこと。それに、私は殺されなくてはならない。それが私の罪の浄化方法だと神は云った。神の命令は絶対だ。逆らうことは許されない」
「逆らった者が過去にいるのか?」
「分からない。けれど私がその世界に誕生してから、今までに逆らった人間がいるとは聞いていない。恐らく神に逆らってはならないと、誕生する前に洗脳されていたのかもしれない」
「なるほど」俺は笑った。
「ならば俺がその第一号を飾ろうかな」
「……え」
「俺はその神の命令に逆らうよ。君のことを殺しはしない。殺させもしない。俺は君のことを守るよ」
千尋が叫ぼうと口を開いた。
けれどその口は閉じられた。
云うべきではないと判断したのだ。その言葉を口にしてしまった時、2度ともとには戻らぬ深淵の地まで落ちることになると理解していたから。
「君のせいじゃない」
俺は云った。慰めでも同情でもなく、俺の本心を。
「大切な人を守ることができなかったことは辛い。その気持ちは俺も痛いほどよく知っている。ずっと俺も後悔していた。妹を助けられなかった自分の無力さに、恨み、嘆き苦しんだ。けれど、今日初めて墓参りに行けて、気付いたんだ。後悔をしながら生きていたら、それこそ妹が悲しむんじゃないか……と」
だから、と俺は続けた。
「だから、君が弟さんを助けられなくて悲しくて悔しい気持ちになったのは痛いほど分かるが、その思いを抱いたまま殺されることを願っていたら、それこそ弟さんは悲しみ続けることになる。助けられなくて後悔したのなら、それ以上に弟さんを悲しませることはしてはいけないと俺は思うのだが、どう思う?」
「そ、れは」
「死者の気持ちは生者には分からない。だが、弟さんは今の状況になることを望んでいたわけではないと思う。大切な人が自分のせいで苦しんでいるだなんて、思いたくないだろう」
「それは」
千尋は口を開いた。俺を説得させられるだけの言葉があったのだろう。
「それは」
俺を説得させられるだけの言葉が、千尋の中にあったはずなのだ。
「それは……」
言葉が何処かにあるはずだった。
5秒……10秒もあれば、雄弁な言葉が出てくるはずだった。
けれど30秒経ってもその口から言葉が出てくることはなく、千尋はゆっくりと俯いた。
俺は目を細め、静かな声で云った。
「それが答えだよ」
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