2年前、彼女は地獄を見た。
11月17日。
3日連続で雨が降り続いた日だった。
当時の彼女は20歳。
彼女は淡々と仕事をしていた。
誰のためでもない。自身の弟に少しでも楽しい生活をしてもらいたくて。
彼女の弟は高校生だった。
高校1年生。
人生はこれからだと誰もが思っていた。
本人以外は。
その日、妙な胸騒ぎを覚えた彼女は、仕事を早めに切り上げて弟の通う学校へ行った。
ズキンズキンと胸が苦しかった。
激しい痛みが彼女を襲った。
それでも彼女は弟の通う学校へ急いだ。
その胸騒ぎを嘘のものにしたかったから。
彼女が学校に着いた時、皆屋上を見つめていた。
誰も一言も言葉を発さぬまま、ただ呆然とその姿を見つめていた。
誰かが止めるだろう。
そう思う気持ちと、
誰か止めてあげて。
そう思う気持ちが交差していたように見える。
皆の視線を辿ると、そこには彼女の弟がいた。
妙な胸騒ぎが現実のものとなってしまう。
自分にとっての希望の光が、徐々に遠くなっていくのを、彼女は感じていた。
ほとんど無意識のうちに駆け出していた。
体はもう理解していた。今から行っても恐らく間に合わないと。
理解していなかったのは、彼女の頭だけだった。
階段や廊下にいた生徒たちを、突き飛ばすようにして彼女は屋上へと向かった。
屋上の扉の前には、野次馬とも云える無数の生徒でごった返していた。
誰かが云った。
ーー扉に鍵が掛かっていて開かないんだとよ。
「……ッ! どいて!」
彼女は叫んでいた。
扉の前で立っている生徒を無理やり退かし、彼女は扉を蹴っ飛ばした。
バゴーンと扉の壊れる音とともに、彼女は弟の元へ駆けた。
あと少し。
あと少しで手が届く。
けれど現実とはとても残酷だ。
彼女が手を掴もうとしたその瞬間、彼女の弟はその身を投げた。
終わりが一瞬にして過ぎ去った。
ーーゴシャ。
嫌な音が鳴った。
頭から落ちた音だった。
頭蓋が割れたのだろう。
彼女が屋上から地上を見ると、そこは既に血の海と化していた。
他生徒たちの悲鳴が飛び交う。
間に合わなかった。
その現実だけが彼女の心を蝕んだ。
どこからか叫び声が聞こえた。
悲鳴とは違う叫び。
その事実に嘆き悲しむ叫び声だ。
やけに近くから声がし、その喉が痛むから彼女は気付いた。叫んでいたのは、自分だったと。
救急車と警察が到着した。
学校側が連絡したのだろう。
彼女はその場から立ち去った。
彼女の存在が警察に知られてはいけないからだ。
彼女の職業は殺し屋。人から依頼を受け、人を殺し、人からお礼にお金をもらう。それが彼女の仕事で、彼女の生き方だった。
人の死など見慣れていた。
もうどれだけ見てきたのか分からない。
それでも、そんな彼女でも、弟の死を受け入れることはできなかった。受け止めることができなかった。
たった1人の大切な弟。
その弟のために今まで頑張ってきた。将来的に弟が困らないように。
それなのに……
彼女は生きる糧を失った。
生きている心地がしなかった。
まるで地獄にいるかのような感覚だった。
彼女の瞳には光はなかった。
全てを闇で覆われてしまった彼女には、この先なんてどうでも良かった。
彼女は自宅へと戻った。
弟の思い出に浸りたくて、彼女は弟の部屋へと入った。もう何年も入っていなかった弟の部屋。
弟の机の上には、一冊のノートが置いてあった。
日記帳と書かれたノートを、彼女は何の疑いもなしにページを開いた。
ノートをめくった彼女は、その内容を見て涙を流した。
ノートは全てを物語ってくれていた。
何故自殺をしようと思ったのか。
その内容が逐一書いてあった。
彼女の弟はいじめを受けていた。
洋服から隠れる部分を殴られ蹴られ、タバコの吸殻を押し付けられ、ナイフを当てられ脅されたこともある。ノートや教科書は隠されるわ破られるわ。物はどんどん消え、ついには何も残らなくなった。
何のために学校に行っているのか分からない。
辞めたいなら辞めればいい。
このノートを見ている人は、実態を知っている人は簡単にそう云うのだろう。
けれど、そんなこと出来るはずがなかった。
俺には姉がいる。
姉は俺を養わせる為に、ほぼ24時間フル稼働してお金を稼いでいる。
俺の為に頑張ってくれている姉に、心配をかけるようなことは云いたくなかった。
だから云わない。
俺が1人で抱えればいい話だ。
けど……それでも……やっぱり辛いよ……
助けて、お姉ちゃん……
ページは全て埋め尽くされていた。
最後のページ。
そのページを見て、彼女は自分がとんでもないミスを犯してしまったことに気付いた。
最後のページには……
それから1週間後、地獄はそれだけでは終わらなかった。
「す、すまない。悪戯したかっただけなんだ。だ、だから命だけは……ッ!」
そう懇願するのは、弟をいじめた中心人物だった。
少し頬を切っただけで、本当に情けない。
彼女は冷徹な目を向けながらそんなことを思う。
「なら案内してよ」
「あ、案内……?」
「そう。あなたの所属するクラスに。いるんでしょう? 弟がいじめられているのを知っていた奴が他にも。囃し立てていた奴も、黙って見ていた奴も。いじめの中心人物にいたあなたなら、それくらい把握しているよね?」
「わ、わかった」
その場所にいるのは屋上だった。
彼女の弟が飛び降りた場所。
辺りは既に血の海と化していた。
いじめの中心人物にいた取り巻きの命乞いを無視し、四肢を切り裂き、目玉をくり抜き、見えなくなったことに恐怖している取り巻きの首を、ゆっくりと裂いて殺したからだ。
鮮血の血がしぶく。
辺り一面に取り巻きの血が弧を描いてコンクリートに付着した。
その様子を見て、死にたくないと思ったのだろう。
その命乞いは無様だったと、終わった後に彼女は思った。
頷いた中心人物の男に歩かせ、ゆっくりとその後ろを彼女は歩いた。
その足取りは軽かった。
大切な弟を失った彼女には、これ以上失うものなど何一つとしてなかったのだ。
ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
男は1つの教室の前でピタリと足を止めた。
「……ここです」
男の言葉を聞き、彼女はゆっくりとそのドアを開けた。彼女は男と一緒に教室へ入った。
ーーガチャン。
ドアを閉める音とともに、彼女の声が響いた。
「復讐の時間だよ」
それからどれほどの時が経っただろうか。
教室から聞こえていた悲鳴は、時が進むごとにどんどん、どんどん小さくなっていき、やがてそれは消えた。
「復讐は完了した。だから後は……あなたが私を殺すだけ。ねぇ、隼人。今まで気付いてあげられなくて、本当にごめんね」
彼女は泣き崩れた。
ノートに書いてあった最後のページ。
そこに全て書いてあった。
そのページを読んだ彼女は、弟の本当の願いを知ってしまった。
ノートの最後には……
大好きなお姉ちゃんと、もっと一緒にいたかった。
それが、彼女の弟のずっと思っていた願いだった。
これは、
2年前に妹を奪われ、復讐に囚われた青年と、
2年前に弟を奪われ、悲しみに暮れる青年が出会い、共に助け合う、
命懸けの物語。
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