夜明け前、まだ暗い時間にレッド・ハンドレッドは目が覚めた。夢の中で浴びた拍手の音が、耳を劈くような大きな音だったからだ。
時計を見ると、起床予定時間よりも2時間も早い。二度寝しようかとも思ったが、目を瞑っても興奮して眠れなかった。
「王都中の人間に賞賛され、拍手を送られる夢とは幸先が良いな」
青い屋根の家の寝室で満足そうに小さく呟くと、勢いよく飛び起きて窓の外を見た。まだ空は暗く街は黒い闇に覆われていた。
ベッドサイドに置いてあった煙草に火をつけて、暗闇の中に煙をふわりと漂わせると、幾らか部屋が明るくなる。まるで戦いの狼煙のようだな…なんて、ちょっとカッコいい感じのことを思いながら、ふーっと煙を吐いた。
でも、煙草が短くなるまで待ち切れず、高ぶる気持ちを抑えつけるように灰皿にそれを押し付けて火を消した。
「さて、準備するか」
国庫輸送の馬車は、大量の金を乗せて朝早くに南の領地を出て、パッカパッカガラガラと12時頃に南の森にやってくる予定だ。国庫輸送の馬車を丸ごとすり替えるために用意したハンドレッドの馬車は、早朝のうちに南の森に運ばれる。
ハンドレッドは少し早いが準備をし始めた。最終確認を行うために、朝から騎士団本部の前に張り込む必要があったからだ。騎士団が用意している馬車の種類や台数をこの目で確かめてから、早馬で南の森まで駆けていく予定だ。
騎士団が国庫輸送を積み直すための『本物の馬車』が本部を出発するのは、ワングから貰った資料によると朝の9時であった。よって、朝の9時前には騎士団本部前で張り込みをし、12時前には南の森にいなければならない。
ハンドレッドは必要なものをすべて鞄に詰め込み、この日のために用意しておいた騎士団本部の前にある隠れ家に移動した。
隠れ家についてほっと一息。騎士団本部に隣接しているカフェでテイクアウトしておいたサンドイッチと紅茶を広げて、軽い朝食を取った。まだ朝は早い。カフェは殆ど客がいなかった。
「うん、まあまあ旨い」
ハンドレッドはそのカフェのサンドイッチを食べるのは初めてだった。紅茶もなかなか良い。しかし、騎士団隣接のカフェなどもう二度と来ることはないだろう。そう思うと、このサンドイッチも名残惜しいものだな、なんて少しだけセンチメンタルになったりした。
そんなことをしながらぼんやりと過ごすこと3時間。とうとう、騎士団本部の大きな門がキーィと不快な音を立てながら開いた。
「来たか」
ハンドレッドは窓からじっと騎士団本部の門を見た。正義の青い紋章が刻まれた門だ。煩わしく白々しい、青だ。それをほの暗い赤混じりの黒い瞳でジトリと見ると、門の奥から馬車が出てきた。
「1…2…3…4…馬車の種類も数も予想通りだな」
ハンドレッドは嘲笑うように騎士団の馬車を見下してやった。全て自分の思惑通り。寸分の狂いもなく事は進んでいる。ハンドレッドは沸き上がる興奮を押さえられず、ギュッと拳を握りしめた。
そして、騎士団の青い紋章が刻まれた馬車がガラガラと音を立てて、隣接するカフェの前を通ったとき、ハンドレッドは『あれ?』と思った。
「あれは…鍵屋じゃないか。随分めかし込んでるな」
カフェのテラス席、一番目立つところにお抱え鍵屋がいた。花束を抱えて一張羅を着ている彼はいつものナヨナヨした様子はなく、ビシッとしていて緊張している様子だった。
「ははぁん?さてはデートだな。羨ましいことだ」
とは言え、自分には無関係。早馬で南の森に移動しなければと思って鞄を持ち、窓を施錠しようとした瞬間、目を見張った。
「ミリー?」
なんと、もう二度と会うこともないだろうと切り捨てたミリーがカフェの前にいるではないか!そして、ミリーはちょこちょこと鍵屋に近づいたかと思ったら、向かいに座って何やら会話をし始めたぞ!
「おいおいおい…」
―― なんでミリーが鍵屋と知り合いなんだ!?偶然か?いやいや、こんな偶然…
ハンドレッドは持っていた鞄を床に置いて、食い入るようにミリーと鍵屋を見た。
「…行ってみるか」
騎士団が用意していた馬車と、自分が用意していたすり替え馬車は完全に一致していた。それが確認された今、南の森での変更箇所は一つもない。まだ時間はある。国庫輸送の前にミリーと鍵屋の関係を少し把握しておきたい。嫌な予感がしたハンドレッドは、とりあえず2人に近付くために隠れ家を出ようと玄関に向かった。
そして玄関を出て、カフェに向かうと2人の姿がなかった。鍵屋が飲んでいた飲み物はそのままで、花束もミリーもいなくなっていた。
―― どこに行った?
キョロキョロと辺りを見渡すと、先ほどはなかった馬車がカフェの目の前に停まっていることに気付いた。なるほど、この馬車に移動したのかとハンドレッドは思った。
そして近付こうと一歩踏み出したところで、馬車がゆっくりと走り出してしまった。
「ミリー!」
ハンドレッドが少し駆け足で追いかけながら、大きめの声で馬車に向かって声をかけると、馬車は止まらずに窓だけが開いた。
窓から顔を出した人物を見て、ハンドレッドは大きく驚愕した。
「お久しぶりですね」
驚くほど甘い声、そして嘘みたいに美しい女だった。ピンク混じりの金色の髪を風にたなびかせ、エメラルドグリーンの瞳を輝かせ、女はニコリと笑った。
女は花束を抱えていた。馬車の速度に合わせた風がひゅるりと花の香りを奪ってハンドレッドまで運ぶと、やたら甘くて鼻につく香りがした。
「お前…!!?」
美女はニコリと笑ったまま、ハンドレッドに見せ付けるように鍵束をチャリンと音を立てて窓から出した。
「その鍵…!まさか!?」
「ごちそうさまでした、ふふ」
それだけ言うと、窓は閉められて馬車の速度がグンと上がった。
「待て!おい!!」
馬車は止まる気配もなく、まさにスタコラサッサと走り去っていった。ハンドレッドは「ちっ!」と舌打ちをして赤黒い目で馬車を睨みつけた。その恐ろしい目は、夜会のときに見せたそれと同じ色だった。底知れない犯罪者の目だ。
しかし、ハンドレッドは煮えたぎるような頭の中を瞬時に切り替えさせた。今から馬車を追いかけても追い付かないと判断し、すぐに路地裏に入って鞄を開けた。女詐欺師が持っていた鍵束。あれは自分の鍵束と全く同じものだった。まさかいつの間にか盗まれていたのか!?
と思ったが、鍵束はハンドレッドの鞄の中に入ったままだった。
「どういうことだ…?」
女詐欺師は確かに『ごちそうさま』と言っていた。あれは『お前の金を奪ったぞ』の意味で間違いないだろう。しかし鍵はここにある。
「まさか複製された?いや、複製される隙など…いや待てよ」
ハンドレッドはそのとき、鞄の鍵部分にある深い傷が目に入った。3ヶ月前、物盗りに鞄を奪われた際に付いていた傷だ。あのとき確かにハンドレッドの手から短時間、この鞄は手放されていた。この傷が、何者かが鞄を無理やりに開けたときに出来た傷だとしたら、中の鍵束を盗むことは出来たはず。
「いや…しかし鞄を盗られてから取り戻すまで10分くらいだ。その間に複製することは不可能。…あの金髪女のハッタリだ」
大方、ここでハンドレッドに国庫輸送を諦めさせて、女詐欺師が全部頂くつもりなのだろう。そうとしか考えられない。鍵の複製は不可能だ。
―― たった10分で寸分の狂いもなく…それを…複製…
そこでハンドレッドは一つの可能性を考えて、背筋が凍った。ワングが言っていた『第一騎士団の超記憶能力の男』。ニルド・ニルヴァンも第一騎士団だ。もし、その男がニルドの仲間だとしたら…?
―― 鍵の複製は可能か?その前に、その超記憶能力の男が敵だとするならば、複製した国庫輸送の資料は偽情報の可能性も?…いや、ダメだ、冷静になれ。ここまで全部想像でしかない。決定打は何もない
ハンドレッドは一瞬迷った。
国庫輸送と、自分の資産と、そのどちらを取るか。
資料が偽情報だとは限らない。鍵は複製されていない可能性の方が高い。
そして、仮に今の時点で自分の資産を女詐欺師に盗まれていたとして、もう女詐欺師に追い付くことは不可能だ。このまま国庫輸送の詐取を続行すべきであることは明白だった。
―― 金庫室は無事だ。それに巨大金庫は女詐欺師には開けられない!
もし鍵が複製されていたところで金庫室には入れたとしても盗られるのはアタッシュケースに詰められた現金のみ。あの宝石がたくさん入った巨大金庫は絶対に開けられない。あれが開けられるのは、この世で2人だけ。そう、2人だけ…。
瞬間、ハンドレッドはまさに頭に血が上ったことが自認できるほどの冷静な怒りを感じた。
「…鍵屋の野郎!!!」
ハンドレッドは思い出した。鍵屋が抱えていた花束と、女詐欺師が抱えていた花束が全く同じものだったことを。あの美貌で誑し込んだのであれば、鍵屋などイチコロであろう。
「女詐欺師ごときが、ふざけるなよ…」
ハンドレッドは静かにそう呟くと、青い屋根の家に向かった。今から急げば、金庫室の状態を確認してからでも国庫輸送に間に合うと踏んだのだ。頭ではなく、心がそれを決めた。とにかく金庫室を確認せずにはいられなかった。彼は青い屋根の家に向かって、馬車を走らせた。
青い屋根の家に到着すると、馬車が止まるより前に飛び降りた。馬車の中でずっと握りしめていた鍵束で玄関の鍵を開けた。バタンと勢いよく扉を開けてガチャリと閉めて、全速力で寝室に向かった。クローゼットの服をバッサバッサと床に落としながら隠し扉を開け、金庫室の前に立った。震える手で金庫室を開けると、そこには…。
「…なんだ、そのままじゃないか…」
現金入りのトランクケースが所狭しと並べられていた。最後に見た状態と何ら変わりはなかった。
ハンドレッドはドドドドと鼓動する心臓を手で押さえ、巨大金庫の前に立った。そして決められた手順で金庫室を開けると、やはり宝石はそのままだった。ハンドレッドはその宝石のうち一つを手に取り、光に透かすように掲げた。
「本物」
そう小さく呟くと「ふー」と思わず安堵の息が漏れた。あの女詐欺師が資産を奪うことに失敗したのか分からないが、とりあえず資産は無事だった。
―― しかし、ここからどうするか…。国庫輸送詐取の作戦に戻るか…。いや、その間にここにある宝石を盗まれでもしたら…あ!そうか!
「は!なるほどな、こうやって足止めするのがあの女の狙いってことか!」
「足止めとは、何のことだ?」
そのとき、後ろから声をかけられ、ハンドレッドはまさに口から心臓が飛び出そうなほど驚いて硬直した。この部屋に、自分と鍵屋以外が足を踏み入れたことはなかった。
ピリッとした緊張感のある声。そう、この声は…世の中の犯罪者が最も嫌いな職業の人間が発する種類の、あの声だ。ハンドレッドは振り向くこともせずに自分の状況の悪さを把握した。
「騎士団だ。手を挙げろ」
―― なぜ騎士団がここに?
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