「というわけで、気が進まないが仕方がない。特訓するぞ」
翌日、またランチをフォーリアに作らせて食事を終えたワンスは、彼女を起立させて命じた。
ところで、こんなに自由に動き回っているワンスであるが、実は侍従の仕事もしっかりやっている。
ワンディング家でのワンスは侍従頭の役割を担っていた。当主は噂通りの偏屈じいさんではあったため、使用人はほとんど寄り付かず、侍従頭を勤めるワンスと、その下に二人の侍従。そして料理担当のおばあちゃんと、庭師担当のおじいちゃんの計五人で回していた。詐欺師のワンスにとっては、とても住み心地の良い環境だ。
偏屈じいさんは本当に偏屈だったものだから、ワンスが勤める前の伯爵家の財政状況は非常に悪く、全く上手く回っていなかった。
そこでワンスが色々と手を加えたことでワンディング家の財政状況は一気に上向き。なんと、今ではワンディング家の家業の殆どを彼が代理で行っているのだ。
勿論、二人の侍従や効率の良い外注を駆使して上手く回しているわけだが。もはや伯爵家を乗っ取り状態である。
そう。驚くことに、ワンスは詐欺師・金貸し屋・貴族向けの商売多数・コンサルタント業に加えて、伯爵家の仕事も行うほどのスーパー仕事人間だった。そりゃあ金欲と食欲以外は吐いて捨てるだろう。一体、どんだけ稼げば気が済むのか。金の亡者とは彼のことだ。
というわけで、侍従でありながらも裁量を任されすぎており、こんなに毎日自由に動き回れるというわけだった。
「特訓!? はい、ワンス先生! 特訓とは何をやるのでしょうか!?」
「……不安しかねぇな」
フォーリアの楽しそうな表情に、ワンスはこりゃダメかもしれないと思った。スパイごっこに興じる子供のようにワクワクしているではないか。遊びじゃないのに!
ワンスは先日、ファイブルからダッグ・ダグラスの行動パターンを入手していた。
ダグラスは毎週末、王都で一番珈琲が美味しいと評判のカフェに必ず立ち寄り、どういうわけか侍従ではなく自らが珈琲をテイクアウトするという。ファイブルいわく、その店員が可愛いというのが理由らしいが。
そして、その珈琲を持ってノーブルマッチ専用の高級ホテルに行くのだ。女から女へ。全く節操がない。
よって、フォーリアにチャンスがあるとすれば、ダグラスがカフェに訪れて注文をする短時間のみであった。
平たく言えば、ダグラスが珈琲を買ってノーブルマッチの予定を優先するか、それともフォーリアを見初めて紅茶を買いノーブルマッチの予定をキャンセルするか。この勝負が第一関門である。
「特訓開始。始めからいくぞ。店先で立ってるつもりでやれ」
「はい!」
ワンスはフォーリアの残念っぷりと、見様見真似で何とかこなしている人生を何となく知っていたため、自分がダグラス役になってあげることにした。この方が覚えるだろうと。金の為なら親切丁寧。
「すると、ダグラスがやってくる」
「はい!」
「金……財布を落として探しているフリをしろ」
「財布、なるほど! 『あー、お財布を落としたわ~』」
「違う。何も言わずに下を向いてキョロキョロするだけでいい」
「キョロキョロ」
「……まあいいや。お前の容姿ならダグラスから声をかけられる可能性もあるが、素通りしそうならフォーリアから声をかけろ。『財布を見ませんでしたか』と」
「はい!『お財布を見ませんでしたか?』」
「ダグラスは『見てない』という。そこで『喉が乾いた』と言え。もし奢ると言われたら、とりあえず紅茶をテイクアウトで奢って貰え」
「紅茶を!」
「そうだ。ダグラスが珈琲を買ったら、諦めてそのまま解散しろ。もしダグラスが紅茶を買ったら、近くの庭園でお茶しようと誘え」
「えっと、珈琲を……?」
「珈琲を買ったら帰れ。紅茶を買ったら庭園だ」
「はい、分かりました! 先生! 紅茶はどこで飲みますか? 天気がよければカフェのテラス席でいいですか~? ふふふ」
「……まじでやべぇな」
それでもワンスは投げなかった。『まじでやべぇな』と何度も言うことになったが、金の為に投げ捨てなかった。そして、特訓は夜まで続いた。もう辺りは暗くなり、部屋にはロクソクの火が灯されて、ぼんやりと二人を照らした。
そして184回ほどワンスがダグラス役をやってどうにか形になったところで、またもや鬼畜仕様のぶっ込みを入れ始めた。
「で、それでも口を割らないようだったら適当にキスでもしとけ」
「ききききき!?」
フォーリアの顔がまたもや真っ赤になり、挙動不審になってしまったではないか。その様子を見て、ワンスはさすがに内心で一驚した。
「まさか、もしかしてキスもしたことねぇの?」
「あるわけないじゃないですか!」
―― え? ニルド・ニルヴァンって、こいつに全く手出してないってこと? この前、髪にキスしてたような……?
フォーリアが処女というのは何となく分かってはいたが、まさかニルドが全くのノータッチ紳士だとは思わなかった。
もしワンスがニルドの立場にいたならば。もし全てを選択することが出来る立場にいたのであれば、欲しいものは迷わず取る。欲しいと思った瞬間に、それを取る。ニルドがフォーリアを欲していることは分かっていたし、さすがにキスの一つや二つくらいはしているものだと思っていた。
……いやいや。これはワンスの価値観に難ありだ。普通、キスをしていればそれは即ち恋人同士なわけで、恋人同士ではないニルドとフォーリアがキスをするわけもない。
ここではニルドの価値観が正しい。いや待てよ、ニルドも難ありだったな。まったく! どいつもこいつも!
―― うわぁ、ニルヴァンも可哀想なやつ
直近で18,000ルドも貢いでおいて、キスすらも出来ていないとは。ワンスには理解不能なピュアワールドだった。
「分かった分かった、キスはなしでいい。もし口を割らないなら、手洗いにでも行くとか言ってそのまま帰宅しろ。あとはこっちで適当にやっておく」
ワンスがうんざりとした様子で言うと、フォーリアがグッと眉を寄せて俯いた。自分の不甲斐なさを感じているのだろう。それとも本気でワンスの仕事のパートナーとやらを狙っているのか。
「キスくらいならガマンします、やります」
フォーリアは絞り出すように、そう言った。本当はすっごくすっごくイヤだけど、余程ワンスのパートナーとやらになりたいのだろう。今にも泣きそうなのに、あの変な顔で泣くのを我慢していた。
―― 出たー! 変な顔!
ワンスはこの変な顔を見ると、結構テンションが上がっていた。最低である。
「分かった。じゃあ俺のことをダグラスだと思ってやってみろ、はい」
ワンスがサラリと言うと、フォーリアは目玉が飛び出るんじゃないかと言うほどに驚いて、ズザーーーっと部屋の端まで飛んで後ずさっていった。その勢いでロウソクの火が少しだけゆらりと揺れた。フォーリアの顔は真っ赤だった。
「ななななな!!?」
「……? なんだよ?」
そんな変なこと言ったか? とでも言うように、ワンスが首を傾げると、フォーリアは信じられないという顔でワンスを見た。そこで、はたと気付いた。
「……あぁ、そうか。没頭しすぎて忘れてたわ。お前、俺のこと好きだったんだっけか。あーそうか……。じゃあぶっつけ本番でいっか。出来なかったらそれはそれでってことで。あー疲れた、じゃあ解散お疲れー」
「あ! 待ってください!!」
先ほど部屋の端っこに後ずさっていったフォーリアが、今度は瞬間移動レベルの速さでワンスの横に戻ってきた。と思ったら、頬を染めて手をもじもじさせながら「えっと、練習……したいです」とか言ってくるじゃないか。
「……お前、まさか私利私欲に走ってねぇよな?」
ワンスがギロリと睨むと、フォーリアは視線を彷徨わせて「ソンナコトナイデスヨ~」と小さい声で言った。そんなことしかないじゃないか。
キスくらい別にどうでもいいワンスではあったが、先ほどと打って変わって、何かちょっと嫌だなと思ってしまった。
―― こいつ、調子乗りそうなんだよなぁ
キスの一つでもしてしまったら、『私たち結婚秒読みです』みたいな雰囲気を出されそうで、ワンスは激しく面倒だった。
ここにニルドの一人や二人がいれば良かったのに。ワンスは初めてニルドの必要性を感じた。ニルドがいたところで、フォーリアが彼とキスの練習などするわけもないが。
―― とは言え、ぶっつけ本番というのもさすがに……
ハジメテのキスが憎い敵であるダグラスよりかは、正体が詐欺師とは言え好きな男であるワンスの方が幾らかマシだろう。どうせ正体がバレることはないし、成功率を上げるためには必要な投資か……とスーパー仕事人間のワンスは思い直した。実際にはマシどころか願ったり叶ったりなフォーリアであろう。
「苦渋の決断だが、仕方ない。許してやる」
「……さすがに失礼ですよ?」
「苦渋の決断だ。ほら、さっさとしろ」
ワンスが立ったままフォーリアを見下ろすと、フォーリアはドキドキと胸の高鳴りを隠せない様子で、胸に手を当ててワンスをチラリと見てきた。
だいぶ短くなったロクソクの火がゆらゆらと揺れて、二人の影をゆっくりと震わせた。
「これ、私からするんですか……?」
「当たり前だろ? ダグラスからして貰えると思うな」
「きききんちょうします! ドキドキします……」
「はぁ、早くしろよ……帰りたいんだけど」
こんな温度差のあるキスシーンがあるだろうか。
フォーリアは、そろりと一歩近寄った。そして、真っ赤な顔をして上目遣いでワンスを見つめた。目を伏せて少し俯いて、ぎゅっと閉じて、そろりと開けて、また必殺・上目遣い。ちなみにワンスは目を閉じることすらしなかったが。
そして、フォーリアは綺麗な瞳を瞼にしまい込み、踵をそっとあげて目一杯背伸びをして、ワンスに顔を近づけた。
あと10センチ、5センチ、2センチ。
そこで、ピタリと止まった。
残り少ないロウソクが、チリチリと揺れた。
「ダメ……ドキドキしすぎて無理です……」
2センチの距離はそのままで、目をぎゅっと瞑ったフォーリアは、吐息と一緒に弱音を吐き出した。
ワンスは何も言わなかった。諦めたように、フォーリアが踵を降ろして離れようとした瞬間。
「ん……」
ワンスからフォーリアにキスをした。軽く一回。そして、一瞬目が合ったかと思ったら顔の向きを変えてもう一回。そして、頬に手を添えられて、強く長く、もう一回。
三回目の少し長めのキスをした後、ワンスは彼女からパッと離れた。
「遅すぎ。帰る」
そう言って、サッサと部屋を出て行ってしまった。部屋にはデロデロでドロドロに溶けきったフォーリアとロウソクが残された。
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