望む。
さく、さく、さく。
軽い金属が柔らかい髪を切り落とす心地のいい音が、夕焼けの赤を消し去ってしまうほど煌々と照らされた室内に響く。
テンポが悪く、どこか危なっかしいその音は、ハサミの使い手の今の表情まではっきりと表現しているようで、逸花にとっては可笑しくて、ほんの少しだけ温かかった。
「大丈夫?」
「話しかけんな」
逸花が笑い交じりに背中側に投げかけた言葉は、緊張で固まった鳰の言葉に一蹴された。
逸花の髪に触れる柔らかい手はぎこちなく、鏡越しに見る顔は眉根が寄って、口は力が入って漢数字の一のようにまっすぐになっている。親友の真剣な表情を鏡越しに見た逸花は、にんまりと楽しそうに表情を緩めた。
濡らした髪を切るには不必要なほど力のこもった刃が、さく、と音を立てて逸花の髪を切り落とす。
鳰が身につけている、少し前に卒業した中学校のジャージと真新しいエプロンは、既に逸花の髪にまみれている。
鳰が好きな暖色で統一されたエプロンにまばらに引かれた黒髪の細い線は、今日初めて引かれたものだ。
鳰がこのエプロンをかけたのは、逸花と鳰が高校に入学したと同時に、鳰の母親が鳰にエプロンをプレゼントして以来だ。
鳰はこれまで、エプロンをかけることも、ハサミを持つことも、誰かの髪を切ったこともない。両親がこの場所に客を座らせて髪を切っている姿を横目で捉えていただけだ。
母が逸って買ったエプロンだって、鳰は一度も使うことはないだろうと思っていた。将来は自分たちのようにこの場所でこのエプロンをつけて仕事をするのだと、自分の進む道を決めつけられているようで鳰はこのエプロンを嫌ってすらいた。
そんな鳰が、今、逸花の髪を切っている。技術も作法も何も知らない鳰が、二人きりの部屋で。
鳰の心に宿っていた複雑な感情は、逸花の髪を切ることに集中することによって少しの間だけこの場を離れていた。
「ねえ」
しかし、逸花の声で集中の糸が緩んだ鳰は、自分がハサミを持っているこの現状への疑問を思い出してしまった。
「んー?」
「そろそろさ、教えてくれてもいいんじゃない」
逸花の髪を手で梳き、髪だけを見ながら鳰が問う。
「あー」
足りない言葉だったが、逸花にはしっかりと伝わっているようだった。
聞きたくても聞けなかったこと。しかし、鳰が聞けずにはいられないこと。
友達と呼ぶには距離が近く、親友と呼ぶにはお互いに少し冷めているような、そんな逸花が鳰の領域に一歩踏み込んでくるような頼みをする、その理由を、鳰はどうしても知りたかった。
「女の命、私みたいな素人に切らせるもんじゃないでしょ」
そう言いながらも、鳰は逸花の髪を切る。さく、と、自らが切るものではないと言った女の命を、少しずつ切り落としていく。
「いやあ」
「なんで?」
「うーん」
「あんたの頼みだから切ってんだよ」
「そうだよねえ」
曖昧な言葉を並べる逸花の視線も、問う鳰の視線も、お互いを捉えていない。
「何も聞かないでって言ったのに」
「教えてよ」
口と声だけで笑う逸花の顔を見ず、鳰は少し張りつめたような声で問い続ける。
さく
硬くなってしまった空気に耐えかねたように、鳰の手が止まる。
互いの呼吸の音が聞こえそうなほど静まり返った室内は、蛍光灯が痛いほど強い光を放って二人の表情を照らす。
「……心配性だなあ」
強い光の下で陰っている鳰の表情を視界の端に捉えてしまった逸花は、観念したように大きく息を吐いた。
「失恋したんですよ、私」
たくさんの感情を隠すようなわざとらしい敬語で放たれた逸花の言葉で、弾けるようにして鳰の視線が上がる。
「え」
「だからさ、髪、切ろうかなと思って。初恋と初失恋だし、なんか、したくなっちゃって」
逸花が語る言葉を受け止めた鳰の表情が一瞬だけくしゃりと歪み、怒ったような表情になりかけてから、最後には呆れたように眉を下げた。
「そんな漫画みたいなことする?」
「なんかね、したくなっちゃった」
「うける」
「ね」
そう言って軽く笑い合い、鳰は再びハサミを動かした。
和らいだ空気のもと、再び危なっかしくて、心地いい音が響く。
鳰は無言で髪を切り続ける。鳰の顔に先ほどまでのような緊張はなく、穏やかな表情で逸花の髪を切っていた。
「……ほんとは」
束の間の穏やかな時間を切り裂くように、震えた声が響いた。
鼓膜と同時に胸の奥を直接揺さぶるような逸花の声に、鳰の身体は一気に固まった。
「ほんとはさ、私、鳰と二人になりたかっただけなんだ」
決壊し、ぐちゃぐちゃになった声と言葉で、逸花が本当を曝け出す。
「髪なんて切らなくていいよお。なんで私の髪がへたくそに切られなきゃいけないんだよお。鳰がいればいいの。話聞いてくれればよかった」
名前をつけることのできないような感情を乗せた逸花の声と言葉と涙は、行き場を失っていたたくさんの感情が一度に溢れ出てきたようだった。
どこかひょうきんないつもの逸花も、実らなかった恋を悲しんでいる逸花も、鳰という親友の存在に安堵する逸花も、全てがぐちゃぐちゃに混ざり合いながら一斉に出てきたかのように、逸花の言葉と嗚咽の濁流が部屋を満たした。
反響する逸花の声に心を揺さぶられ続けていた鳰も、ほどなくして逸花に負けないくらいに大粒の涙を流し始めた。
「なにさ」
幼子のような拙い声が、鳰の口から伝うように零れた。
「嫌がらせすんなよ、ばかあ」
「だって、だってえ」
直後、鳰が強い感情を混ぜ合わせて放った言葉に、逸花は駄々をこねるような声で返す。
「寂しかったんだよ。寂しかった。寂しくて、独りだと思いたくなくて」
逸花の口から最も強く出てきた言葉が、逸花の中で最も大きく、逸花が鳰を求めた最も大きな理由だった。
寂しい。
十五歳の少女が、初めて胸を焦がした甘い感情。
胸の奥は確かに痛いのに、息はいつもより苦しいのに、痛みも苦しみも不思議と甘く心地よいものに変えてしまうような恋が、失われてしまった孤独。
特別は、特別でしか満たせない。だから逸花は、鳰に髪を切ることを頼んだ。
頼んでしまった、と、今になって逸花の心には後悔が押し寄せている。その波が、逸花の目からぼろぼろと落ちる涙の量を増やしていた。
「思いついちゃった。だから」
失恋と同じぐらい痛む胸と焼けるような喉に、逸花が咳き込む。
「……わかったよ」
そんな逸花の背中を見て、鳰が涙も拭わずに前を向いた。
「なんだってやってやるよ。わがままだろうが嫌がらせだろうが私が全部受け止めてやるよ」
強い言葉と共に、鳰は逸花の髪を切り始める。
「だから、もう少し私のこと信頼して」
ぐ、と、強い力と心を顔に宿した鳰は、涙で滲んだ視界に映る親友の髪をひたすらに切った。
何かと戦うように前を見つめる鳰と、脆く柔らかい部分を全て曝け出し、くしゃりと歪んだ顔で俯く逸花。二人の表情は鳰が髪を切り終わるまで変わらず、二人の耳に入る音も、逸花のすすり泣く声とハサミの音だけ。
やがてそのどちらの音も止んだ時、逸花が顔を上げ、鳰が逸花から目を逸らす。
「だっさ」
がたがたになった自分の髪を見た逸花が笑う声は、今日この部屋に響いた音の中で一番大きく、晴れやかで、幸せな温度を纏っていた。
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