大切な気持ち。
恋焦がれる気持ちを、思い出そうとしていた。
かつて私の中に存在していた気持ち。甘くて、暖かくて、少しだけ心臓が苦しくて、だけど、目を閉じて余さす感じていたくなるような、そんな気持ち。
失ってしまったわけではない。今も私の胸には指を絡み合った人を恋しいと思う気持ちの残滓があって、記憶の底から掘り起こして壊れないように抱き締めれば吸い込む空気が甘く優しく変化して、ぎゅっと胸が苦しくなる。
甘くて痛い記憶。大切な、私の思い出。
思い出よりもずっと綺麗だった現実は過ぎ去り、よく晴れて色鮮やかな世界を背景に笑う大切な人を追いかけていた日々は、写真の一枚も残さずに私だけの宝物になった。
あの日々を知るのはもう私だけかもしれない。そう思うと切なくて、指が、掌が、舌が、物欲しそうに疼く。
私たちが同一ではないと知ったあの日。違う形の同じ気持ちを抱えたまま笑い合っていたことを知ったあの日。
あの日から二年と三ヶ月。あの人の中の私は、今はどんな存在なのだろう。
私たちは同一ではなかったから、きっと私の中のあの人とは違う形で存在しているのだろう。
存在、していれば、嬉しい。
軽く息を吐いて額に手を当てた。
何にも触れていなかった手は、少し冷たい。そのまま顔をつたうように手を滑らせてみたけれど、思い出の中のあの時みたいなくすぐったさは感じなかった。
恋しい、と、思う。あの日々を、あの幸せを、恋しく思う。
でも、この胸の焦がれ方は、あの日々に感じていた熱さとは違う。
あの日々は、ただそこに在るものだけを、在る人だけを求めていた。触れようと思えば触れられる人に焦がれ、肌を伝って感じる私でない想いに焦がれ、血のように身体を駆け巡る情動に焦がれていた。
だけど、今は。
ずしりと重くなった胸のつかえを吐き出したくて、大きく息を吐く。仰向けのまま吐き出した重いものは少しの間宙に浮いてから、霧散することなく私の身体に降り注いだ。
思い出せる。あの人に恋い焦がれる気持ちは、確かに思い出せる。
だけど、今の私が感じている気持ちは、失ってしまったものに焦がれる気持ちだ。あの日あの時、同じベッドの上でボタンを押せば繋がることのできた人のことを恋しいと思う気持ちとは別のもので、あの時の私にとって世界で一番大切だった気持ちとは、別なものだ。
そう気づいた途端、無性に寂しくなった。あの頃を思い出したくてスマホを手に取って、アプリを開いて、あの人の名前を入力して、検索して、表示されたたった一人の、ピン留めのマークのなくなってしまった名前を見て、見つめたまま、目の裏で思い出の世界を見た。
一時間ぐらいそうしていたような気になってから、私は四分でスマホの電源を切る。そして、かつて繋がることのできていた端末を握り締めたまま脱力して天井を見た。
なんの色もない。なんの音もない。なんの感情も、なければよかった。
なければ。ううん。あってよかった。
よかった。よかった。よかった。よかった。そう言い聞かせて、私は目を閉じる。
どうか、あの日々が、鮮やかなままでありますように。
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