一方の淳は、一人取り残された店内で身じろぎせずに無言でテーブルを見下ろしていたが、突然自分の斜め上方から聞き慣れた声が降って来た。
「これまでに見た事が無い位、シケた面をしているな」
その揶揄する様な台詞の発生源に、淳が反射的に顔を上げて殺気の籠った視線を向ける。
「……どこから湧いて出た」
「美幸ちゃんはバラして無いぞ? この何日かの、彼女の挙動不審っぷりが気になった美子に、ちょっと後を付けるように頼まれたんだ」
「だろうな……」
自分の問いに肩を竦めた秀明が、手にしていた伝票をテーブルに置いて向かい側の席に収まると、淳は心底嫌そうに問いかけた。
「で? 報告するのか?」
「一応。お前がこっぴどく振られたって報告すれば、美子も満足だろうし。……因みに、何て言われた? お前達にバレない様にある程度距離を取ったから、全く聞こえなくてな」
淡々と尋ねてきた秀明に、淳は顔を顰めてから俯き、声を絞り出す様にして答える。
「俺の事は好きだが……、想像する自分と子供の未来に、俺は微塵も存在していないそうだ」
それを聞いた秀明は、本気で驚いた表情になった。
「それはまた、随分正直な」
「俺の事が大嫌いになったとか、愛想を尽かしたからとか言われた方が、はるかにマシだったな」
俯いたままボソボソと低い声で呟いた淳を見て、今度は秀明が僅かに眉を寄せてから、わざとらしく明るい声で話しかける。
「まあ、そう落ち込むな。俺がまた、女を紹介してやっても」
「ふざけるなよ? 秀明」
そこで勢い良く腰を上げた淳が、怒りの形相で素早く秀明のシャツの喉元を掴み上げて最後まで言わせなかったが、すかさずその手首を掴んだ秀明が、不敵な笑顔を向けながら悪びれずに言い返す。
「ここで素直に頷いたなら、床に沈むのはお前の方だったぞ?」
「相変わらず、底意地の悪いろくでなしが」
小さく悪態を吐いた淳が手を離し、秀明も彼の手首から手を離すと、淳は元通り椅子に座った。そんな彼に、秀明が思わせぶりに声をかける。
「美子の事だが……」
そこで一度言葉を区切った秀明に、淳は怪訝な顔を向けた。
「美子さんがどうした?」
「容姿は人並みだが、気立てが良くて頭の回転が早い上に度胸がある、世界中に数多の女が居ても俺と唯一釣り合う、とてつもなく良い女なんだが」
堂々とそんな事を言い切られてしまった淳は、盛大に顔を顰めた。
「こんな所で、いきなり嫁自慢をするのは止めろ。少しは空気を読め」
「一番の美点は、家族思いな所だ」
「それが?」
止めろと言っても、相手が聞く耳持たないであろう事は分かり切っていた為、淳は面白く無さそうに相槌を打ちながら耳を傾けた。
「結婚してから気が付いたんだが、俺が家族人数分、全て種類が異なるケーキを買って帰ると、美子は妹達を全員集めて『好きな物を取りなさい』と言うんだ」
「確かに彼女なら、我先に取るタイプじゃないだろうな」
「そうすると、まず美幸ちゃんが嬉々として好きなケーキを取り、次に美恵ちゃんが当然と言った感じで取る」
「何だか、目に見えるようだ」
その光景を想像して、思わず笑ってしまった淳だったが、次の台詞で瞬時に顔付きを険しくした。
「次に、どれにしようか迷っている美野ちゃんに『遠慮しないで取りなさい』と美子が声をかけて取らせて、次に残ったうちの片方を取って『美実はこれね』と美実ちゃんに渡して、自分は残った物を食べるんだ」
「おい、ちょっと待て! 何で美子さんは美実にだけ選ばせないんだ? 自分は好きなケーキを取って、あんまりじゃないか!」
完全に腹を立てて淳が抗議したが、それを聞いた秀明はおかしそうに笑みを深めた。
「最初、俺もそう思ったから、皆が食べ終えてその場を離れてから、こっそり美実ちゃんに言ってみたんだ。『食べたい物があれば、遠慮無く取って良いんだよ?』とな。そうしたら……」
「そうしたら?」
再び口を閉ざし、自分の反応を面白がっている悪友の態度に苛つきながらも、淳が落ち着いて話の先を促すと、秀明は苦笑しながら続けた。
「美実ちゃんはちょっと驚いた顔になってから、『食べ物で喧嘩する気は無いし、皆で食べたい物を食べられた方が良いでしょう? それに美子姉さんは、必ず私が食べたいと思った方をくれるもの』と、笑って答えてくれた」
「……必ず?」
僅かに訝しむ表情になった淳に、秀明は軽く頷いてから話を続けた。
「それを聞いてから、次に同様にケーキを買って帰った時、じっくり観察してみたんだ。そうしたら美実ちゃんは他の人間をさり気なく観察していたが、そんな彼女を美子が無言で観察していた。だから目線とかで、彼女が気になっているケーキを把握していたんだな。それが分かってからは、美子に食べさせたい物がある時には、確実に彼女の口に入るように、同じ物を人数分購入する事にしている」
そこで話を締めくくった秀明を凝視した淳は、疑念に満ちた問いを発した。
「……要するに、何が言いたい?」
「お義母さんが体調を崩し始めた頃は、美幸ちゃんが就学前の頃だったそうだし、下二人の世話でお義母さんは手一杯だったろうな。美恵ちゃんは率先して、人の面倒を見るタイプじゃないし。あの《王子様幻滅作戦》の時は、別だったらしいが」
淳の問いかけに、秀明は直接答える事はしなかったが、淳はそれで相手の言わんとする事を察した。
「必然的に、美実の面倒をみたのが美子さんってわけか。同時並行で、そっちもどうにかしろと言ってるのか?」
「別に? 俺はただ、美実ちゃんが『結婚したい』と言っても、美子が『止めておきなさいと』言ったら彼女が考え直しかねない程度には、好かれて信頼されている妻の自慢をしているだけだ。決してお前に肩入れしているわけじゃない」
淡々と詭弁を口にする秀明を凝視したまま、淳が小声で応じた。
「良く分かった」
「何が分かったんだ?」
「取り敢えず俺は美実にとって、美子さん以下の存在だと言う事は分かった。きっとあいつの想像の中には、いつでも美子さんが存在している筈だしな。少なくとも、お前よりは上だとは思うが」
そう言って不敵に笑った淳を見て、秀明は満足そうな笑みを浮かべた。
「どうやら、やる気になったらしいな」
「当たり前だ。彼女以上になってやろうじゃないか。そしてあいつの未来予想図の中に、俺をねじり込んでやる」
そんな決意を口にした淳に向かって、秀明は立ち上がりながら、些か素っ気なく聞こえる激励の言葉を口にした。
「まあ、頑張れ。順調なら産まれるまで、あと三十二週ある。逆に言えば、それがタイムリミットだが」
「ああ、分かっている」
そして自分の伝票を持って、会計に向かった秀明から早々に視線を外した淳は、美子と美実の攻略法を早速考え始めた。
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