藤宮邸で一騒動あった翌日は、偶々美子の半月に一度の出社日に当たっていたが、特に延期にするわけでも無く、彼女はいつも通り美樹を伴って桜査警公社に出向いた。そして一階ロビーに入るまでは常と変わりなかったが、そこでいきなり美樹が走り出した。
「かづちゃ~ん! さくちゃ~ん!」
結構広いエントランスを横切り、奥で待っていた加積夫妻の元に駆け寄ったと思ったら、着物姿の桜の脚に両腕を回してひしっとしがみついた美樹を見て、老夫婦が揃って目を丸くする。
「あらまあ」
「おやおや」
居合わせた社員達も何事かと無言で視線を向ける中、美子はいつも通りの表情で悠然と歩み寄った。
「すみません、桜さん。美樹、着物が皺になるから離れなさい」
「……うん、ごめんね? さくちゃん」
母親に注意された為、すぐに手を離して上を向いて謝ってきた美樹に、桜は笑いかけてから美子に声をかけた。
「あら、構わないのに。じゃあこのまま美樹ちゃんは預かるわね」
「宜しくお願いします。美樹、いい子にしてるのよ?」
「うん」
「会長、ご苦労様です」
「こんにちは、金田さん、寺島さん。今日もお仕事は溜まっているかしら?」
待ち構えていた副社長とその秘書と、美子が挨拶する声を聞きながら、加積達は彼女達に背を向け、美樹を真ん中にしてエレベーターに向かって歩き出した。
「美樹ちゃん、今日何かあったのか?」
歩きながらさり気なく加積が尋ねてみると、美樹が真顔で見上げながら説明してくる。
「ママ、つの、ピョコン、けーかーけーほー」
「はぁ?」
それを聞いて、常には出さない間抜けな声を上げてしまった加積だったが、桜は感心した様に感想を述べた。
「それは……、『警戒警報』って事かしら? 美樹ちゃんは難しい言葉を知ってるのね。偉いわ」
「それより、美子さんがそんなに怒っている様には、見えなかったがな」
「あのね? きのう、にほん。きょう、いっぽん」
相変わらず真顔で、右手で二本、左手で一本、指を立ててみせた美樹を見下ろした加積は、僅かに口元を歪めてコメントした。
「……角が減って、良かったな」
「これは、随分面白い話が聞けそうね」
何とか笑いを堪えた加積とは反対に、桜はいかにもおかしそうにクスクス笑い出す。それに加積はさり気なく釘を刺した。
「聞いても構わんが、仕事が終わってからだぞ?」
「分かってるわよ。……さあ、美樹ちゃん、エレベーターが来たわ。今日も一緒に遊びましょうね?」
「うん!」
そして目の前の扉が開いた為、三人は美子達より一足早く上層階へと向かった。
「美子さん、今日もお疲れ様」
「いえ、普段出向けない分、書類が溜まるのは仕方が無い事ですから」
いつもの様に仕事を終わらせ、皆でお茶をしながら歓談を始めた美子だったが、お茶を一杯飲み干した所で、桜が思わせぶりな笑顔で言い出した。
「ところで美子さん。昨日お宅で、警戒警報が発令されたそうね。一体どんな敵が襲来したのかしら?」
にやにやしながら問われた美子は、ちらりと夢中でケーキを食べている娘に視線を向けた。
(美樹がまた何か、変な事を言ったわね。口止めする気も無かったけど)
そして諦めて溜め息を吐いた美子は、手にしていた茶碗を茶卓に戻し、静かに言葉を返した。
「……桜さん」
「はい、何かしら?」
「お暇ですよね?」
「ええ、勿論時間はあるけど?」
「退屈で、暇を持て余していらっしゃいますよね?」
「そうねぇ……。まあ、普段はそうよね」
何やら静かに語りかけながら、妙な迫力を醸し出してきた美子に、桜が僅かにたじろぎながら応じると、美子は徐々に底光りのする目で桜を見据えてきた。
「桜さんと私の知り合いで、重複している人は殆どいませんから、ここで桜さんに色々ぶちまけても、世間一般的に殆ど問題はありませんよね?」
「そう、ねぇ……。確かにそうだけど……」
若干桜が及び腰になり、珍しい光景に加積が思わず視線を向けた所で、美子が勢い良く二人の間にあるテーブルを叩きながら激昂した。
「聞いて下さい桜さん! もう昨日から腹が立って腹が立って! だけど家族や親戚に向かって、文句をぶちまけるわけにもいかないし!」
その訴えに、桜は顔を引き攣らせながら宥めようとする。
「あ、あら。美子さんは真面目なのねぇ。偶には周囲に喚き散らしても、良いんじゃない? 私なんかこの人相手に、散々喚き散らしてるわよ?」
しかし夫を指差しながらの桜の話を半ば無視しながら、美子は言い募った。
「わざわざ話題を振ってきたって事は、お聞きになりたいんですよね!? そうですよね!? 本当は学生時代からの友人に、思う存分愚痴ろうと思っていたんですが、聞きたくもない話を聞かされる羽目になる相手が気の毒で。桜さんなら、そこら辺を気にしなくても良いですよね!?」
「え、ええと……、多少は気にして貰えると嬉しいかもしれないわ」
「昨日家に、前回ここに来た時にお話しした、妹のお腹の子供の父親の両親が押し掛けてきまして! 事前の連絡も無しにですよ? 信じられます!?」
自分への配慮は無いのかと思いながらも、桜は思わず律儀に応じてしまった。
「あらまあ、それは大変」
「そうしたら、勝手に押し掛けてきただけでは飽きたらず、『結婚を認めてあげる』と、こうですよ? ふざけるんじゃ無いわ! 誰があの女に『認めてくれ』と頼んだってのよ!?」
「あの、美子さん? ちょっと落ち着きましょうか」
再びテーブルを拳で叩きながら訴える美子を、何とか落ち着かせようと桜が顔を引き攣らせながら宥めている横で、加積が平然と美樹に提案していた。
「美樹ちゃん。おやつも食べ終わったし、お母さん達がお話ししている間、さっきの部屋に戻ってボール遊びでもしようか?」
「うん! ぽーん、する!」
「よし、じゃあ行こう」
「え、あ、ちょっとあなた!」
ちゃっかりと美樹の手を取って、加積が隣室に向かって歩き出した為、桜が慌てて声をかけたが、そこで美子に盛大に叱りつけられた。
「桜さん! 私の話を、ちゃんと聞いて下さってます!?」
その叱責に、給仕をしていた金田は真っ青になり、桜は慌てて美子に向き直って調子を合わせた。
「え、ええ、聞いているわよ? 勿論。本当に、ふざけた話よね。何様のつもりかしら」
「そうですよね! しかも妹の仕事まで、面と向かって貶したんですよ!? 人にへいこら頭を下げて、小金を稼いでる女がそんなに偉いわけ!? 馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!!」
「分かったわ。分かったから、美子さん。少し落ち着きましょうね?」
「あの、会長。お茶のお代わりはどうでしょうか?」
「勿論、頂くわ! 喋ると喉が渇いて仕方がないもの!!」
「少々、お待ち下さい」
それから暫くの間、会長室には美子の怒声と怨嗟の声が満ち、桜と金田が二人がかりで彼女を宥める事になったのだった。
「それではお世話様でした。今日は桜さんに色々話を聞いて貰ったおかげで、すっきりしました」
「……それは良かったわ」
美子達が帰る時間になり、一階ロビーまで全員揃って移動したが、散々悪態を吐いて妙にすっきりした顔付きの美子とは対照的に、桜の笑顔は若干引き攣っていた。
「加積さんにはその間、美樹の面倒を見て頂いて、申し訳ありませんでした」
「いやいや、美樹ちゃんと遊べて楽しかったからな。むしろ役得だった」
妻の憮然とした表情がおかしかった為、笑いを堪えながら加積が答えると、美子と美樹が礼儀正しく頭を下げてくる。
「それでは失礼します」
「さくちゃん、かづちゃん、さよ~ならです」
「ああ、さようなら」
「また遊びましょうね?」
一応笑顔で手を振って別れた桜だったが、二人がタクシーに乗り込んで走り去ると、硬い表情で背後を振り返った。
「……金田」
「はい、何でしょうか?」
「例の調べさせていた旅館、潰して頂戴」
腹立たしげに言われた瞬間、微妙に顔色を変えた金田が口を開く前に、加積が横からのんびりとした口調で会話に割り込んできた。
「おいおい、潰してくれとは穏やかでは無いな。幾ら美子さんの話を聞いて、腹を立てたからと言っても」
「そんな事じゃないわよ! その人達がろくでもない事をしてくれたせいで、私、美樹ちゃんと遊べなかったのよ!? 狡いわ、あなただけ美樹ちゃんを独り占めして!」
「そっちか……」
完全な八つ当たりを受ける羽目になった旅館を思って加積は苦笑いしたが、金田は一応、やんわりと翻意を促してみた。
「桜様。それなら会長の話はまたの機会にして貰って、美樹様と遊ばせて貰えば良かったのでは? それだけで旅館を一軒潰すのは、随分乱暴な話だと思われますが」
「だって美子さんがあれだけぶちまけたがっているのを、遮ったら悪いじゃないの」
途端にムスッとしながら言い返した桜を見て、加積は少し驚いた顔つきになる。
「他人を気遣うとは、日頃傍若無人なお前にしては珍しいな」
「五月蠅いわよ。だって美子さん位肝が据わって動じないお友達って、そうそういないんだもの。できるだけ仲良くしたいじゃない」
顔を背けながら拗ねた様に弁解した桜に、男二人は思わず笑いを誘われた。
「益々珍しいな、金田」
「本当に、会長は貴重な存在でいらっしゃいます」
しかし桜の中で、淳の実家を潰す事は決定事項になってしまったらしく、金田に向かって念を押した。
「それで、さっきの話の続きだけど、あっさりすぐに潰しちゃ駄目よ? 時期が時期だし美子さんのお宅のせいかと、逆恨みしかねないから。真綿で首を絞める様に、ゆっくりじわじわと進めて頂戴。最後の最後まで、悟られない様にね」
「承知致しました」
半ば諦めて調子を合わせて頷いた金田に向かって、桜は何やら更に思い付いたらしく、上機嫌に話を続けた。
「そうね……。半年から一年位、時間をかけて構わないわ。美子さんの妹さんの出産祝いに、『売却物件』の札が掛かった例の旅館の写真なんか、気が利いているんじゃない?」
「はぁ……、出産祝いにそれは、いかがな物かと思いますが……」
「そうだわ、そうしましょう。金田、工作資金として、取り敢えず一億あげるわ。必要なら遠慮せずに追加請求なさい。それから、逐一経過を知らせてね? うふふ……、なんだか楽しくなってきたわねぇ」
そして言うだけ言って機嫌良くフロアの奥に戻って行く桜の背中を見ながら、金田は困惑気味に囁いた。
「宜しいのですか?」
しかし金田を引き連れ、桜より少し遅れて歩き出した加積は、苦笑いで応じる。
「あれが一度言い出した事を、そうそう撤回する筈も無かろう。例の旅館はとんだとばっちりだが、言う通りにしてくれ。ひょっとしたら、そのうち飽きるかもしれんしな」
「畏まりました」
飄々と言ってのけた加積に金田が神妙に頷いたところで、前を歩いていた桜がぴたりと足を止め、振り返りながら更なる要求を繰り出した。
「あ、そうそう、あなた。妹さんに結婚相手を見繕ってあげてね? やっぱり子供には父親が居た方が良いと思うし」
「それは確かに、そうかもしれんが……」
「美子さん曰く、それなりに見栄えのする東成大出身弁護士のその男に、引けを取らない殿方にしてね? それから後腐れの無いように、その弁護士さんの方にも女の人を紹介して、きっぱり関係を断つようにして頂戴」
そんな事を笑顔で一方的に告げた桜は再び進行方向に向かって歩き出し、加積は呆れ気味の金田からの視線を受けながら、「やれやれ、人遣いの荒い女房だ」と小さく首を振った。
そして当事者が全く知らない所で、人知れず一軒の旅館が、存亡の危機に立たされる事となった。
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