同じ頃、朝から体調が良くなかった為、部屋で休んでいた妹が居間に顔を出した為、美恵は少し驚きながら声をかけた。
「美実、起きていて大丈夫なの?」
「うん、何とか」
「もうお昼過ぎだけど、何か食べる? やっぱり匂いが駄目?」
「匂いが駄目って以前に、相変わらず食欲が無くて気持ち悪いわ」
青い顔でぐったりしながらソファーに腰を下ろした美実を見て、美恵が困惑した様に言い出す。
「全く、普通だったらそろそろ悪阻も収まるって時期に、急に始まっちゃうってどういう事よ。お腹の子が奥手なのかしら?」
「他人事だと思って……」
恨みがましく呻いた美実を見て、美恵は苦笑しながら宥めた。
「まあ、すぐ収まるでしょ。無理に食べないで、楽にしてなさい。しかしジャージとはね」
「だってこれ、楽なのよ。前開きだしお腹の調節も利くし」
「でも、まだお腹の膨らみが目立ってくる時期じゃないじゃない」
「気分よ、気分」
そんな他愛もない事を言い合っていると、大きな箱が入った透明なビニール袋を手に提げた美野が、ひょっこり姿を現した。
「ただいま」
「あら、早かったわね、美野」
「今日は講義が午前中だけだったの。それで帰る途中、美味しいって評判のケーキ屋さんに寄って買って来たんだけど、食べない?」
「けーき!」
「ありがとう。貰うわ」
美野の申し出に美樹と美恵は嬉しそうに応じたが、美実は申し訳無さそうに断りを入れた。
「あ~、せっかくだけど、クリーム系は駄目かも」
「そうだろうと思って、ムースやゼリーとかも買ってきたの。どうかしら?」
姉の反応を予期していた美野は、袋から取り出した箱を開けた。その中身を確認した美実が、プラスチックのカップに入ったムースやゼリーを見て、少し安堵した様に頷く。
「……うん、これなら大丈夫かも」
「良かった。じゃあ人数分お茶を淹れてくるから、ちょっと待っててね。美樹ちゃんは牛乳ね」
「うん!」
そして気の利く美野が台所に向かった後で、美実は漸くこの場に居る筈の人間が居ない事に気が付いた。
「そういえば、美子姉さんと谷垣さんは?」
その問いに、美恵が事も無げに答える。
「姉さんは、日舞教室の師範と次の発表会の演目決めを相談する為に、朝から教室に出向いてるわ。康太はこの前の旅行記をどう形にするかについて、出版社に打ち合わせに行ったの。専業主夫生活になったら、落ち着いて話もできないでしょうしね」
「確かに、安曇ちゃんを連れて出版社に行くのは難しいわね」
安曇をおんぶした康太を想像して、思わず笑ってしまった美実だったが、ふと思い付いた事を口にした。
「美恵姉さん」
「何?」
「以前美子姉さんが、自分で教室を開く様な話があったと思うんだけど」
その問いに、美恵は首を傾げながら答える。
「確かにあったみたいだけど、立ち消えになったんじゃない? その後、姉さんが結婚して美樹ちゃんが生まれたし、まだまだ手がかかるでしょ」
「じゃあ、美樹ちゃんの手がかからなくなったら、また考えるのかしら?」
「さぁ……、それはどうかしら。姉さんに聞いて頂戴。でも、どうしてそんな事を聞くわけ?」
いきなり脈絡の無い事を聞かれた様に感じた美恵は、不思議に思いながら尋ね返すと、美実は幾分申し訳無さそうに言い出した。
「その……、私まで出産したら、美子姉さんの行動範囲も、色々制限があるんだろうなとか……」
神妙にそんな事を言い出した妹を見て、美恵は肩を竦めた。
「そんな事、今更でしょう? 第一、姉さんはまだ若いし、これから美樹ちゃんの下にも産まれるんじゃない? もう少し年を取ってから、本格的に弟子を取る事にしたって遅くないわよ。姉さんの日舞歴は三歳からなんだから、この年で力量を認められてるんだし」
「それはそうかもしれないけど」
「つまらない事でうじうじ悩むのは止めなさい。らしく無いわよ」
「……うん」
笑いながら宥められて、美実は僅かに笑顔になって頷くと、そこでタイミング良く美野がお茶を淹れて戻って来る。
「お待たせ。お茶を淹れてきたわ。紅茶じゃなくて緑茶にしたから」
「ありがとう。ごめんね、美野」
「ううん。偶には良いわよね」
最近、紅茶の香りが駄目になった自分に合わせて茶葉を選択してきた美野に、美実は素直に礼を述べた。それに美野も笑い返し、皆で箱の中に手を伸ばす。
「けーき! たべよ?」
「そうそう。美味しい物は、もったい付けずにさっさと食べないとね。美樹ちゃんはイチゴのケーキかな?」
「うん!」
「じゃあ私はこれ」
「はい、どうぞ」
そして各自が皿にケーキを取り分け、和やかに食べ始めたが、そろそろ一つ食べきろうとする時に、門に設置してあるインターフォンの呼び出し音が鳴った。
「あ、私が出るわ」
万事マメな美野がすかさず立ち上がり、壁に設置してある操作パネルに歩み寄って、その受話器を取り上げて相手に問いかけた。
「はい、どちら様でしょうか?」
その間、他の面々は「美味しいわね」などと言いながらケーキを食べていたが、いきなり美野が素っ頓狂な声を上げた為、揃って何事かと視線を向けた。
「は、はいぃぃ!?」
「ちょっと美野、何事?」
「いきなり変な声を出して」
すると美野は受話器の送話口を手で押さえながら、狼狽しきった様子で姉達を振り返った。
「こっ、小早川さん! 門の所に、小早川さんのご両親が来てるの!」
「はぁ!?」
「何で、淳のお父さんとお母さんが来てるのよ!?」
美樹がキョトンとする中、美恵と美実は目を丸くしたが、美野はオロオロしながら姉達に意見を求めた。
「知らないけど! ど、どうしよう!? やっぱり美実姉さんに会いに来たのよね? 約束してたの?」
「聞いてないし! この格好で会えるわけ無いじゃない!」
「わ、分かったわ」
自分以上に狼狽しながら美実が口走った内容を聞いて、美野は硬い表情で頷いた。
「あ、ちょっと美野! 変な事を言わないでよ!?」
慌てて美恵が釘を刺そうとしたが一瞬遅く、壁に向き直った美野が、口調だけは落ち着き払って手短に告げる。
「こちらは自動音声対応システムです。誠に申し訳ありませんが、現在この家は留守にしております。後ほど、日を改めてご訪問下さい」
そして静かに受話器を戻してから、美野はまだ狼狽しながらお伺いを立ててきた。
「こっ、これで良いわよねっ!?」
それに対し姉二人から、唖然とした表情での感想が告げられる。
「美野……、あんたは私達の中で一番頭が良いし、いつもは誰よりも常識的な筈なのに……」
「パニクると、一番面白いかも……」
「え、えぇ!? 駄目?」
益々狼狽して声を上擦らせた美野だったが、それで我に返った美恵が盛大に叱りつけた。
「駄目に決まってるでしょう! 門前払いしてどうするのよ! すぐに謝って、中に入って貰いなさい!」
「はいっ!」
そして美野が慌てて再度受話器を取り上げるのを見てから、美恵は美実に向き直った。
「美実、あんたはそのジャージを何とかしなさい! 急いで着替える! ジャージやパジャマでなければ、何でも良いから」
「だけど美恵姉さん! いきなりこんな状況、心の準備が」
「そんな物、一分で何とかしなさい!」
「でもっ!」
泣きが入りかけている美実を美恵が叱りつけていると、先程以上に狼狽した美野の声が居間に響いた。
「美恵姉さん! 大変!」
「今度は何!?」
「ちょうど美子姉さんが帰って来て、今門の前で、小早川さんのご両親と立ち話をしてるの!」
「…………」
再び送話口を押さえながら、真っ青な顔で振り向いた美野を見て、最悪の状況に陥った事を理解した美恵と美実の表情が凍り付いた。その室内の不穏な気配を察知したのか、今の今までハイローチェアで大人しく寝ていた安曇が、突然むずかり始める。
「ふぎっ……、ふぇぇっ! うえぇぇっ!」
「ちょっと安曇。こんな時に限ってぐずらないで。お願いだから」
思わず愚痴を零した美恵だったが、それで何とか気を取り直し、矢継ぎ早に妹達に指示を出した。
「とにかく、美実は部屋で着替えて来なさい!」
「でも! 何を着れば良いの!?」
涙目で叫びながらも、美実が部屋を出て行くのを見送ってから、美恵は美野に言い聞かせた。
「美野は受話器を戻して、美樹ちゃんの面倒を見ながら、玄関を開けて出迎えてきて。さっき変な事を口走ったのを、謝ってくるのよ?」
「はい! ごめんね、美樹ちゃん。玄関まで付き合って」
「うん!」
そしてパタパタと二人が廊下に出て行くのと同時に、これまで以上に安曇が声を張り上げた。
「ふぎゃあぁぁ――――っ!」
慌てて美恵はハイローチェアから娘を抱え上げ、狼狽しながらあやし始める。
「安積、オムツ? それともお腹が空いたの? もう! 本当に勘弁してよ!」
そんな切実な美恵の叫びに反して、事態は坂道を転げ落ちる様に、悪化の一途を辿った。
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