「お待たせしました!」
「いえ、私も今職場を抜けてきたばかりですから」
息せき切って喫茶店に駆け込んだ美実は、すぐに和真を見つけてそのテーブルに歩み寄った。そしてまず和真は美実を座らせ、注文を済ませて落ち着かせてから話を切り出す。
「それでは早速本題に入りますが、先程電話でお話しした、小早川さん、でしたか? その方の実家に色々嫌がらせをする様に命じたのは、桜さんなんです」
その爆弾発言を聞いて、気分を落ち着かせようとグラスの水を飲みかけていた美実は、少しむせて慌てて口からグラスを離した。
「はあぁ!? ちょっと待って下さい! どうして桜さんが淳の実家に嫌がらせするんですか?」
「私もわけが分からなかったので、電話した後にこっそり担当者を捕まえて聞いてみたんですが……」
それから和真は、美子と秀明が桜査警公社の会長・社長である事は綺麗に隠しつつ、美子が美樹と一緒に桜と加積に会いに行った時、良子と揉めた内容をぶちまけ、それに付き合わされた桜が八つ当たりした一連の流れを説明した。
「それで……、美子姉さんの愚痴話に付き合わされて、美樹ちゃんと遊べなかった桜さんが八つ当たりして、小野塚さんの職場のその特殊な部署に依頼して、実家の方に嫌がらせを仕掛けたと……」
「残念な事に、その様です」
一応、確認の為に短く話を纏めてみた美実に向かって、和真が真面目くさって頷く。それを見た美実は、本気でテーブルに突っ伏したくなった。
(桜さぁぁん! 確かにちょっと気まぐれで我が儘っぽい奥様だとは思ってましたが、幾ら何でも度が過ぎますよっ!!)
心の中で盛大に泣き言を言った美実だったが、なんとか気を取り直して和真に尋ねた。
「あ、あのっ! 小野塚さん。それを止めて貰う事はできないんでしょうか!?」
「できると思います。そうでなければ美実さんに連絡しませんから」
「え?」
「元々あの女性は気まぐれな方なので、腹立ち紛れに活動資金を渡して指示した後は、放置しているんです。報告書もきちんと提出している筈ですが、きちんと目を通しているのやら。ひょっとしたら言いつけた事自体を、忘れているかもしれません」
「旅館一軒潰しかけて、忘れてるって……」
困った様に説明してくる和真に、美実は頭を抱えたくなった。そんな彼女に和真が慰める様に言い出す。
「でも幸い、美実さんはもう桜さんと面識がある上に、随分気に入られた様ですから、直接出向いてお願いすれば、すぐに止めてくれると思うんです」
「本当ですか?」
「ええ。それで、もし美実さんの都合が良ければ、これから加積邸にお連れしようと思って、連絡してみたんですよ」
そう言って微笑まれて美実は救われた気持ちになったが、それと同時に、申し訳ない思いで一杯になった。
「それは大変ありがたいですが……、小野塚さんはどうしてそこまでしてくれるんですか? その……、お断りしたばかりなのに……」
恐縮しきった声で美実が尋ねてきた為、和真が明るく笑って答える。
「ああ、その事ですか。勿論、多少は傷つきましたが、それは私にそれだけの魅力が無いと言う事ですから」
「いえ、それは!」
「まあまあ、落ち着いて下さい。それでも美実さんと知り合えた縁は無駄な物とは思っていませんし、あなたさえ良ければ、これからも友人付き合いはしたいと思っているんです。その人が困っているのなら、少しでも力になりたいと思うのは、人として当然だと思いますが?」
にこにこと、どこからどう見ても善人面としか思えない和真の微笑みを見て、美実はすっかり安心して満面の笑顔で礼を述べた。
「すみません。本当にありがとうございます!」
「お礼を言われる程の事ではありません。現に他人様に迷惑な事をやらかしているのは勤務先の同僚で、それを命じたのが自分の遠戚に当たる方ですから……。私としては正直、頭が痛いです」
「はぁ」
今度は苦笑されながらの台詞だった為、美実も反応に困って曖昧に頷く。そこで和真は、真摯な様子で申し出た。
「それでは美実さんが良ければ、近くに車を停めてあるので、これからお連れします」
「でもお仕事は……」
「有休を取ってきましたので、安心して下さい。このまま職場に戻っても、気になって仕事が手に付かないので」
「ありがとうございます。お願いします」
「じゃあ行きましょうか」
話の間に注文したハーブティーは殆ど飲み終わっていた為、促された美実はすぐさま立ち上がった。そして近くの駐車場まで和真と並んで歩きながら、心の中でしみじみと彼への感謝の言葉を繰り返す。
(小野塚さんって、やっぱり凄く良い人! この前、思いっきりお断りしちゃったのに、根に持つどころかこんなに親身になって力になってくれるなんて。もう本当に申し訳ないわ)
そんな事を考えながら、和真の車の助手席に納まった美実は、隣に座った彼の横顔をしげしげと眺めた。
「美実さん? どうかしましたか?」
「いえ、何でもないです」
「そうですか? それでは出しますから」
視線を感じた和真が不思議そうに尋ねてきたが、美実は笑って誤魔化した。それに不思議そうな顔になったものの、和真は静かに車を発進させる。
(うん、一連のゴタゴタが片付いたら、絶対美子姉さんやお義兄さんに頼んで、小野塚さんにお似合いな女性を探して紹介しよう!)
そんな事を固く決意して、さっそくあれこれ身近の女性の人選を始めていた美実は、運転しながら和真が不気味な笑みを浮かべている事に、とうとう最後まで気が付かなかった。
予め連絡を入れたあったのか大きな門の前で一時停車したものの、インターフォンで対応する事無く自動で門が開き、和真の車はあっさりと招き入れられた。さらに玄関でも「いらっしゃいませ。どうぞ」と待ち構えていた使用人に迎え入れられ、和真と美実は奥へと進んだ。
「やあ、美実さん、いらっしゃい。今日はどうかしたのかな?」
「あら、和真とだなんて珍しい組み合わせね?」
通された客間で、主夫妻と座卓を挟んで座った美実は、挨拶もそこそこに桜に切り出す。
「あ、あのっ! ぶしつけで大変申し訳ないのですが、今日は桜さんにお願いがあって参りました!」
「あら、私に? 何かしら?」
「淳の実家の旅館にしている嫌がらせを、止めて頂きたいんです!」
「淳? それって、誰の事かしら?」
必死の形相で懇願した美実だったが、向かい側に座る桜は、きょとんとした顔つきで首を傾げた。そこで和真が解説を加える。
「桜さん、美実さんの交際相手の男性の事ですよ。その両親が上京した時に、美子さんと揉めた話を聞いたのでは?」
「ああ、そう言えば、そんな事もあったわねぇ」
(やっぱりすっかり忘れてた!?)
のんびりとした口調でにこやかに言われてしまった美実は、盛大に顔を引き攣らせた。すると和真が話を続ける。
「それで、桜査警公社の特殊活動班へ指示した内容は、覚えていらっしゃいますか?」
「思い出したわ。あれの事ね。そう言えば、その後の報告ってどうなってるの?」
「毎週、提出されている筈ですよ。全く……、全然目を通していませんね?」
「あら、ごめんなさいね」
呆れ気味に和真が窘めると、桜はあまり悪いと思っていない口調で謝り、誤魔化す様に「うふふ」と笑う。その横で加積が「仕方の無い奴だな」と苦笑いする中、美実は再度気合を振り絞って懇願した。
「その……、桜さん。その旅館関係の方が相当困っていると思いますので、それを止めて頂けないでしょうか?」
すると桜が、不思議そうに尋ねてきた。
「どうして美実さんが頼んでくるの? 相手のお母さんに、散々悪口を言われたんでしょう? 謝罪して貰ってもいないみたいだし」
「確かにそうですが、相手の言う事にも一理ありますので。それに反論するなら自分で反論しますし、報復措置とかは考えていませんでしたから」
「ふぅん? そうなの?」
「はい。これ以上無関係の人に迷惑をかけたくないので、お願いします」
そう言って美実が深々と頭を下げると、桜はちょっと納得しかねる表情になったものの、すぐに笑顔になって了承した。
「美実さんがそう言うなら、すぐに止めさせるわ」
「本当ですか!?」
「ええ」
喜んで頭を上げた彼女に微笑んだ桜は、早速部屋の隅に控えていた笠原に視線を向ける。
「笠原。早速金田に連絡して頂戴。頼んだ件は終了にして、清算してくれって」
「畏まりました」
そして連絡の為か、彼がそのまま部屋を出て行くのを見てから、美実は再度笑顔で桜に頭を下げた。
「桜さん、ありがとうございます!」
「良いのよ。私だって意地悪おばあさんだなんて、思われたく無いしね」
「じゃあ失礼します。帰って早速、淳に連絡を」
「悪いけど美実さん。帰す事はできないな」
「はい?」
上機嫌で腰を浮かせた美実だったが、その腕を軽く捕まえて和真が引き止めた。その為美実は、再び腰を下ろす。
「小野塚さん、まだ何か用事がありますか?」
「ええ。これに署名捺印を。判子はこれを使って下さい」
「は?」
「あらまあ……」
そう言って目の前の座卓に広げられた用紙と、横に置かれた印鑑と朱肉を見て、美実の目が点になった。桜も困惑した声を上げたが、その横で加積は薄笑いを見せる。そして見返して正確に内容を把握した美実が、まだ当惑した表情で和真に問い返した。
「あの……、これ、婚姻届に見えるんですけど?」
「ええ、仰る通り、婚姻届ですよ? 印鑑は藤宮の物です」
「その……、既に小野塚さんの名前とかが書いてある様に見えるんですが……」
「はい、確かに私の名前ですね。あなたが書いて、証人欄にそこの老いぼれ二人の署名を貰ったら、すぐに提出できます」
そこで老いぼれ呼ばわりされた二人は無言で笑ったが、美実は半ば茫然としながら問いを重ねた。
「ええと……、これに記入して署名して提出すると、私と小野塚さんが入籍する事になるかと思うんですが……」
「はい、その通りですね」
「あの……、申し訳ありませんが、それはできませんので」
「できないと言うなら、その気になるまでここに滞在して貰う事になりますが?」
「ここに?」
まだ若干、理解が追いついていない顔つきで、美実が瞬きすると、和真がとんでもない事を笑顔で言い出した。
「はい。はっきり言えば軟禁ですね。私のマンションで一人きりだと、何かあった時に対応が遅れますし。妊婦に対して、そんな非人道的な真似はできません。ここだと使用人は多いし、住み込みの人間も居るので二十四時間対応して貰えますから、安心して下さい」
「軟禁って……、十分、非人道的な行為だと思いますが……」
「この際、些細な事には目をつぶりましょう」
「はぁ……」
(軟禁って……、些細な事なのかしら?)
美実がちょっと現実逃避気味な事を考えているうちに、完全に面白がっている桜が、若干咎める様な口調で言い出した。
「まあまあ、そんな楽しい事になっていたの? あなた! どうして私に教えてくれないのよ!?」
「悪い。和真から電話を貰ったのが、三十分程前でな。すっかり忘れていた」
「もう! 男だけでそんな悪だくみをしているなんて!」
苦笑いする加積を、本気で叱り付ける桜。そんな中、美実は極めて現実的な問題を口にした。
「あ、あの……。今、軟禁されたりすると困るんですけど。特にこれから二ヶ月程は、出産予定に合わせて色々仕事を前倒しで進めていまして。出版予定の原稿そのものは殆ど書き上げているんですが、出版社に出向いての構成や編成作業や、装丁や書下ろしや特典の打ち合わせとか、色々目白押しですので」
「それは……」
そこで何やら言いかけた和真を遮り、加積が機嫌良く言い出した。
「そこの所は心配要らないぞ、美実さん。軟禁だと言っただろう? 仕事の邪魔をするつもりは無いから、ちゃんと護衛を付けて出版社へ出向かせてあげよう。それから仕事に必要な物があれば、家から何でも持って来させて良いから」
「ちゃんと個室も用意するわ。それに欲しい物があったら、遠慮なく言ってね? 幾らでも買ってあげるから」
「どうも、ありがとうございます。ええと、そうなると外部への連絡とかは……」
一応礼を述べつつも、更に確認を入れて来た美実に、桜は真顔で応じる。
「そうねぇ、軟禁なんだし、一応携帯電話とかはこちらで預からせて貰うのよね?」
「そうだなあ……。その代わりうちの電話やPCは、使いたい時に好きに使って構わないから。外から連絡を貰いたい時は、そちらを教えて構わない」
「はぁ」
そんな生返事をしながら、美実は頭の中で自分なりに一生懸命考えてみた。
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