「おはよう、美子姉さん。新聞取ってくるから」
「お願い」
起き出して台所を覗き込んだ美実は、朝食の支度に忙しい美子に声をかけて、玄関へと向かった。
(何となく気になって、なかなか寝付けなかった分、眠いわ。美子姉さんに「妊婦が睡眠不足なんて、何やってるの」とか怒られそう。昼寝しようかな……)
あくびを堪えながら玄関でサンダルを履き、鍵を解除して戸を引き開けた美実だったが、その途端、眠気が吹っ飛んだ。
「って!? 秀明義兄さん!?」
「おはよう、美実ちゃん」
「あ、おはようございます。お義兄さん」
無駄に爽やかな笑顔を向けてきた義兄に、美実は思わずいつも通り挨拶をしてから、慌てて問いかける。
「じゃなくて! 朝っぱらからこんな所に突っ立って、何してるんですか!? 鍵は持ってますよね?」
「確かに持ってるが、ここに美子を呼んできてくれたら、助かるんだが」
「今すぐ呼んできます!」
神妙に申し出られた内容に動転しまくった美実は、急いでサンダルを脱ぎ捨てて廊下を走った。
(びっくりした、びっくりした、びっくりした!! 全然気配を感じさせずに、あんな所に立ってるんだもの! でも昨日出て行ったばかりなのに、すぐ帰って来てくれて良かったけど)
そのままの勢いで美実は台所に飛び込み、美子に向かって叫ぶ。
「美子姉さん!」
「何? 大声を出して?」
「お義兄さんが、玄関の外に立ってて! 姉さんを呼んでくれって!」
「はぁ?」
不快そうな顔で振り返った姉に、美実は恐る恐る説明を加える。
「えっと……。家に入る前に、美子姉さんに話があるかと思うんだけど……。もしくは、姉さんの許可を貰ってから、家の中に入るつもりとか?」
「この忙しい時に……。それに私が専制君主の様な言い方しないで」
「……すみません」
(だって、事実そうだし!)
今にも舌打ちしそうな美子を見て、美実は思わず謝りながら様子を窺った。しかし美子はそれ以上文句を言わず、エプロンを着けたまま玄関へと向かう。
その後を美実も追うと、美子は玄関の上がり口で仁王立ちになって、戸口の外にいる秀明を見下ろした。
「朝っぱらから何の用なの?」
「悪かった。昨夜は俺が言い過ぎた。謝るから家に入れてくれ」
真剣に謝罪してから深々と頭を下げた秀明を見て、美子は盛大に顔を顰める。
「人聞きが悪いわね……。私が叩き出した様な言い方をしないで欲しいんだけど。勝手に出て行ったのはそっちでしょう?」
(詳細は分からないけど、何となく美子姉さんが叩き出した気がする)
密かに姉の背中を眺めながら美実が心の中で突っ込んでいると、その視線を感じたのか、美子が振り返った。
「美実、何か言いたい事でもあるの?」
「いえいえ、滅相もありません!」
慌てて首を振った美実から再び秀明に視線を戻した美子は、頭を上げた秀明に向かって問いを発した。
「昨日はどこに泊まったの?」
「淳の所に押し掛けた」
「そう……」
それを聞いた美子と美実は、揃ってピクッと反応したが、それきり誰も発言しなくなった。
(うっ、沈黙が重い……)
美実が居心地悪そうに身じろぎしたが、そこで美子は小さく溜め息を吐いてから、秀明に向かって違う問いを口にする。
「ところで、朝食は済ませてきたの?」
「いや、まだだ」
「それなら早く入って、出勤の準備をして。朝はただでさえ忙しいんだから、余計な手を煩わせないで頂戴」
「ああ、分かった」
不機嫌そうに言うだけ言って踵を返し、美子は台所に戻って行ったが、秀明はそれに文句など付けずに微笑しながら頷いた。そして上がり込んだ彼に、その場に残った美実が声をかける。
「あの……、お帰りなさい、お義兄さん。ひょっとして、加積さんから電話がいきました?」
「どうしてその名前が?」
不審そうに見返されて、美実は正直に事情を説明する。
「実は昨晩、美樹ちゃんに頼まれて、加積桜さんに電話をしまして」
「……なるほど。あの夫婦、美樹に電話番号を教えてたか」
「何か、色々とすみません」
詳細は分からなくても、桜が言った通り自分の見合いが原因で揉めたんだろうと想像できていた美実が頭を下げたが、秀明は苦笑して美実の頭を撫でながら宥めた。
「美実ちゃんが謝る事では無いさ。くたばりぞこないのじじい曰わく、『女房の尻に敷かれるのが、夫婦円満の秘訣』らしいから、それに従ってみたまでだ。じゃあ、部屋に行くから」
「あのっ!」
「どうかしたかな?」
そのまま自室に向かおうとした秀明に、美実は慌てて声をかけた。そして振り返った義兄に向かって、少し躊躇う素振りを見せてから、慎重に口を開く。
「その……、お義兄さんはさっき、昨日は淳の所に泊まったとかって言ってましたけど……」
「ああ。それが?」
「その……、元気にしているかと思いまして……」
「憎たらしい位、元気だったな」
「……そうですか」
おとなしく頷いたきり黙ってしまった美実を、秀明は不思議そうに眺めたが、すぐに悪戯っぽく笑いながら付け加える。
「そうだな……。見たところ、新しい女を連れ込んでるって気配も無かったが」
「いえいえ、あのですねっ! 別にそういう事を聞きたかったわけじゃ! その! 今のは、最近会ってないから、どうなのかな、位の気持ちで!」
「そうか。それじゃあ上に行くから」
途端に自分の台詞に反応し、顔を僅かに赤くしながら反論してきた美実を微笑ましく眺めてから、秀明は再び歩き出した。
(一応『小早川さん』とかじゃなくて、まだ名前呼びなわけだ。頑張れよ、淳。相婿になるなら、あいつじゃなくて、お前しか認めるつもりはないからな)
笑いを堪えながらそんな考えを巡らせた秀明は、心の中で親友を叱咤激励しながら階段を上がって行った。
(また美子姉さん達に、迷惑かけちゃったわ。でも大事にならずに済んで良かった)
そして秀明の背中を見送ってから、美実はやっと新聞を取りに行く為、再びサンダルを履いて玄関から門へ向かって歩き出した。
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