桜査警公社で、幾つかの事件が起こり始めた時期、加積邸でもちょっとした騒ぎが発生した。
「はい、どちら様でしょうか?」
「小早川淳と申します。こちらに滞在中の、藤宮美実に会いたいのですが」
門に取り付けられたインターフォンの呼び出しボタンを淳が押すと、平坦な女性の声がスピーカー部から返ってきた。それを聞いた淳が、礼儀正しく要求を口にしたが、それはぎりぎり非礼にならない程度の口調で、あっさりと却下される。
「小早川様のお名前は、旦那様からお伺いしております。申し訳ありませんが、ご面会は叶いません」
「そうですか。それでは加積夫妻に直接お会いして、お話ししたい事があるので、ご都合を聞いて頂けませんか?」
「お二方とも、小早川様にはお会いになりません」
「それはそれは……」
あっさりと拒否された淳は、モニターに向かって皮肉気な笑みを零した。次の瞬間、礼儀正しさなどかなぐり捨てて、暴言を吐き出す。
「こっちは内容証明で送りつけても良かったんだが、一応出向いてやったってのに、やはりここの主人はケツの穴の小さい耄碌ジジイと見える。悪い事を言わないから、退職金を貰えるうちに転職先を探しておくんだな」
「…………」
途端にモニターの向こうが無言になり、ブツッと音声が切られた音も伝わってきたが、淳の暴挙は止まらなかった。
「おら、聞こえてんだろ飼い犬ども! さっさと出て来て、お遣いぐらいやってみせろ!! この愚図どもが!!」
門の前に設置してある監視カメラを見上げた淳は、それを睨み付けながら更なる暴言を吐き、おまけとばかりに門を盛大に蹴り付けた。そのまま待つ事一分程で、横の通用口から体格の良い黒服の男が四人出て来て、音も無く淳を取り囲む。
「この屋敷の門前で、下品な喚き声を上げるとは。貴様、余程命が惜しくないらしいな」
淳の正面に立った、この場のリーダーらしい男が低い声で恫喝してきたが、淳は恐れ入るどころか不敵な笑みを浮かべながら言い返した。
「あんたらの様に下品な物言いと直接的な排除行動に出られたのは少ないが、こっちも仕事絡みで色々場数は踏んでるんでね」
「それで? これからどうするつもりだ?」
徐々に周囲の男達から、物騒な気配が漂ってくるのを感じながらも、淳は傍目には平然としながら内ポケットに入れておいた封筒を差し出した。
「忠実な飼い犬さんに、ご主人から誉められる仕事をさせてやる。これを加積の所に持って行け」
しかしそれを突き出された男は、両目を細めながら問い返す。
「俺達が、加積様が目障りに思う様な物を渡すと思うのか?」
「目障りに思うかどうかは、ジジイの考え次第だろう? 向こうだって俺が手ぶらで殴り込みに来たとは、思わない筈だ。お前が握り潰して、取り次ぎ役などできない出来の悪い番犬だと思われても、俺は痛くも痒くも無い。今度こそ内容証明で送り付けるだけだ。一応ここの屋敷の主に、俺なりに敬意を示したつもりなんだがな」
臆面も無く言い切った淳の話を聞いて、男は僅かに眉根を寄せたものの、手を伸ばしてその封筒を手に取った。
「取り敢えず預かる。さっさと失せろ」
「了解。じゃあ宜しく」
そしてあっさり踵を返し、男達の間を抜けて立ち去った淳を、彼らは忌々し気な表情で見送ったが、すぐに何事も無かった様に、門の中へと戻った。その後、男達は各自の持ち場に戻ったが、手紙を預かった男だけは屋敷内に上がり、使用人達に主の所在を尋ねながら奥へと進んだ。
「失礼いたします。入っても宜しいでしょうか?」
「構わないぞ。平木、どうした?」
書斎にいたところに恐縮気味に声をかけられ、加積は意外に思いながら言葉を返した。対する平木は、若干怒りを滲ませながら、持参した封筒を主に向かって差し出す。
「先程、門の所に生意気な若造が来まして。これを加積様にと言付かりました」
「ほう? その若造は、他に何か言ったりしたりはしなかったのか?」
「暴言を吐きましたが、これを受け取った後は大人しく帰りました」
「なるほどな。小早川淳か」
裏返して名前を確認した加積は、笑って引き出しを開けて鋏を手に取った。そして封を開けて中から便箋を取り出し、ざっと目を通す。
「ほう? これはなかなか。さすがに美実さんの相手なだけはある」
「何か失礼な事でも?」
思わず独り言を呟くと、すかさず平木が応じた為、加積は笑って手を振った。
「いや、平木、御苦労だった。同様の事をするとも思えんが、また彼が手紙を持って来たら、受け取ってくれて構わん」
「象徴致しました。失礼します」
「ああ、それから桜に、ここに来るように言ってくれ」
「少々お待ち下さい」
ついでの様に言い付け、平木が姿を消してから、加積は笑みを深くしながらひとりごちた。
「礼儀正しく、宣戦布告してくれた訳だからな。こちらは搦め手から攻めさせて貰おうか。奴も真正面からぶつかって来るなど、考えてはいないだろうからな」
そのまま低く笑っていると、少しして桜が書斎にやって来た。
「あなた、どうかしたの?」
「近々、土日で空いている日はあるか? 温泉に行くぞ」
唐突にそんな提案をされた桜は、本気で面食らった。
「はぁ? いきなり何を言い出すの? それにまさか美実さんまで、一緒に連れて行く気じゃないでしょうね? あの子は妊婦なのよ?」
既に使用人から門での騒ぎの事を聞かされていた為、何となく美実絡みで呼ばれたような気がした桜は呆れた顔になったが、加積は笑ったまま首を振った。
「それはさすがに無理だな。お前と二人で行くつもりだが? 仰々しくお供を引き連れてな」
「あら、そんな事を口にするなんて、あなたにしては珍しいわね。一体、どこに行くつもり?」
「新潟の南側の、某温泉街だ」
それを聞いた桜は、一瞬眉根を寄せてから、慎重に問いを発した。
「……そこの温泉街の近くに、スキー場があるのかしら?」
「あるらしいな。それにこじんまりとしている分、なかなか趣があるらしいぞ? 今回は、店の商品を幾ら買い占めても……、いや、いっその事、店を丸ごと買い上げても文句は言わんが。どうだ?」
そんな面白がっている笑顔で誘われた桜は、一も二も無く頷く。
「あらあら、なかなか太っ腹な事を仰る事。勿論、行くわ」
「金と言う物は、貯めるだけではつまらんからな」
「そうよね。使いどころで使わないと、腐らせるだけよね。あなた公認でそんな事ができるなんて、楽しくなりそう」
そして満面の笑みを浮かべる桜と、不気味な笑みを浮かべている加積の様子を廊下で窺っていた笠原は、厄介事が増殖していく気配に密かに頭を抱えた。そんな中、同年配の女性を引き連れた美実が現れて、主夫婦に挨拶をする。
「加積さん、桜さん、これから妊婦健診に行ってきます」
「ああ、気を付けてな」
「行ってらっしゃい。でも、わざわざ断りを入れなくても良いのよ?」
「ですが一応お世話になっているわけですし、勝手に出かけるのは申し訳ありませんので」
生真面目に述べた美実に、そういう所が気に入っている夫婦は、無言のまま笑みを深めた。それは(あの若造がもう少し粘っていれば、彼女が出るところに出くわしたのに)という笑いも含まれてはいたが、どちらもそんな事は面には出さずに、彼女の護衛役に声をかける。
「今日は女性の方に付き添って貰うのね。美実さんの事をお願いね」
「宜しく頼む」
「はい、お任せ下さい! それでは藤宮様、参りましょう!」
「はい、行って来ます」
そして加積夫婦から声をかけられた、桜査警公社の菅沼真紀は、意気揚々と美実を先導しながら、その場を後にした。
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