ひたすら忍耐力を試される不愉快な夕食を済ませた後、秀明はムカムカしたまま自分の部屋に行き、机に向かって持ち帰った資料に目を通していた。そこに後片付けを済ませた美子が、美樹を連れて部屋にやってくる。
「あなた、お茶でも淹れましょうか?」
「パパ、あ~そ~ぼ~」
そう声をかけられた途端、秀明は険しい表情で振り返った。
「美子。さっきのあれは、一体何のつもりだ。ふざけるのもいい加減にしろ」
「……え?」
「パパ?」
椅子を回転させて座ったまま向き直った秀明は、当惑している美子に対して文句を口にする。
「茶を出しに行ったきり話し込んで、三十分以上戻って来ない上に、美実ちゃんと一緒にすっかり籠絡されやがって。年長者のお前が、しっかり釘を刺さないと駄目だろうが」
その一方的な物言いに、美子はさすがに面白くない表情になった。
「あら……、仲間外れにされたからって拗ねてるの? それなら『俺も話に混ぜてくれ』って、素直に言ってきたら良いじゃない」
「……何だと?」
「パパ? ママ?」
美子がわざと皮肉っぽく言い返すと、秀明が剣呑な表情になる。常には見られない両親の姿に、美樹はオロオロとしながら二人の顔を交互に見やったが、当事者の二人は娘の事などそっちのけで言い合いを始めた。
「だいたい『籠絡』って何よ、人聞きが悪いわね。小野塚さんがなかなかの人格者だと分かったから、それに応じた対応をしているだけだわ」
「人格者だと!? 本気でそう思ってるなら、お前の目は腐ってるぞ!」
「なんですって!?」
断言された美子が血相を変えたが、秀明は苦々しい顔付きで指摘してくる。
「それか、淳と比べたら誰でも良く見える程度に、目が曇ってると言えば良いか? 淳と奴の家族を毛嫌いするのはお前の勝手だが、誰でもそれよりはマシだと思い込むのは止めろ」
「五月蠅いわよ! 友人だからって一方的に肩を持つ方が、目が曇ってるじゃない!!」
「俺は別に、一方的に淳の肩を持ったりしてはいないが?」
「してるわよ! あんな不愉快なろくでなしの肩を持つ気!? そんな人間の顔なんか見たくないわ! とっとと出て行って頂戴!」
「……そうか。分かった」
完全に頭に血が上った美子がムキになって叫ぶと、秀明はそれ以上反論はせず、無表情で小さく頷いた。そして無言で立ち上がって歩き出した彼は、寝室に入るなり一番小さいスーツケースを取り出し、その中に取り敢えず必要な物を、手早く詰め込んで立ち上がる。
「パパ?」
この間、ドアの所で恐る恐る父親の様子を見ていた美樹が声をかけてきた為、秀明は彼女の前でしゃがみ込み、笑って頭を撫でながら言い聞かせた。
「美樹、ママの言う事を聞いて、いい子にしてろよ? そうじゃないと、俺みたいに叩き出されるからな」
「ちょっと! 嫌味のつもり!」
「事実だろうが」
そのまま部屋にいた美子に素っ気なく言い放ち、秀明は美樹と美子の横をすり抜けて部屋から出て行った。
秀明の姿が見えなくなってからも、美子は不機嫌極まりない表情をしていたが、そこで美樹が妙な事をしているのに気が付く。
「美樹、何をしているの?」
ごそごそと自分のおもちゃ箱を漁っていたかと思ったら、いきなり小走りでドアから出て行こうとする為、慌てて声をかけた。
「美樹? どこに行くの?」
「みーちゃん、へや!」
「ちょっと! 全くもう!」
そして一声叫んで振り返りもせずに出て行った美樹の態度に、美子は益々腹を立てた。
「みーちゃん! みーちゃん!」
「美樹ちゃん、どうしたの?」
トントンとドアを叩かれながら声高に訴えられた為、ドアを開けて美樹を招き入れた美実だったが、彼女が言い出した事を聞いて目を丸くした。
「ふえぇっ! パパ、プンプン、ママ、ガオー、でてけー! うぇぇっ!!」
「え? ……は、え、えぇえ!? ちょっと待って! まさか姉さん達が喧嘩して、お義兄さんが出て行くとかって、話になってるわけじゃないでしょうね?」
姪の涙ぐみながらの訴えに、美実は一瞬戸惑ってから慌てて問い返すと、美樹は真顔になって端的に答える。
「ぷいっ、ばたん。でた」
「ちょっ……、それ本当!? 美子姉さん、何を言ったのよ? それにこの事を、お父さんは知ってるの!?」
一人で狼狽し始めた美実に向かって、ここで美樹が小さなメッセージカードを突き出しながら頼んでくる。
「でんわ。みーちゃん、して?」
その要求に、美実は益々混乱した。
「え、えぇ!? この状況下で、どこに電話するの? あ、お義兄さんに? ……じゃあないわよね、この番号は」
「さくちゃん」
更に意味不明な事を言われてしまった美実は、とうとう床に両手を付いてがっくりと項垂れた。
「お願い、美樹ちゃん……。もう少し叔母さんに分かるように、教えて欲しいんだけど……」
「さくちゃん、ママ、ともだち。みーちゃん、ダメ?」
「……取り敢えず、かけてみるわ」
涙目で見上げられた美実は、小さなカードを受け取り、そこに手書きされている番号にかけ始めた。そして緊張しながら反応を待つと、数コールで応答がある。
「はい、どちら様でしょうか?」
その若い女性の声に、美実の緊張は否応なく高まったが、なんとか自分自身を落ち着かせながら話しかけた。
「夜分、申し訳ありません。藤宮美実と申しますが、そちらに『さくちゃん』という方はいらっしゃいますか?」
「『さくちゃん』、ですか?」
「はい、そうなんですが……」
途端に訝しげな声が返ってきた為、美実は冷や汗をかきながら説明を続ける。
「本当に申し訳ありません。姪の代わりに電話しているのですが、どうやら姪が『さくちゃん』に話があるみたいで。あ、姪の名前は藤宮美樹と申しますが、お心当たりが無ければ切りますので」
「少々お待ち下さい」
神妙に申し出た内容に、穏やかに返され、美実はおとなしく待ってみる事にした。すると一分も経たないうちに、先程とは違う女性の声が聞こえてくる。
「お待たせして申し訳ありません。あなたの姪御さんが言うところの『さくちゃん』こと、加積桜と申します。美子さんの妹さんですね? お噂はかねがね、お姉さんからお伺いしています」
落ち着いた年配者らしい女性の声に、美実は安堵しながら申し出た。
「突然お電話して申し訳ありません。美樹ちゃんが話があるそうで。今、変わりますので、話を聞いて頂けますか?」
「ええ、大丈夫ですよ?」
そこで美実は携帯を耳から離し、美樹に顔を向けた。
「美樹ちゃん、さくちゃんがお話ししてくれるって」
「うん!」
そして嬉々として美実の携帯を受け取った美樹は、電話の相手に向かって興奮気味に話し出した。
「あのね? さくちゃん! ママ、プリプリドカーン、パパ、ゴゴゴゴゴーッ、。それで、それでね? ぷいっ、ばたん、なの! よしきね、みーちゃん……」
(あんな事言われても、聞いた方はわけが分からないだろうし、迷惑なんじゃないかしら? でも、今更電話を取り上げるわけにも……)
美実がハラハラしながら、一生懸命喋っている美樹を見守っていると、なにやら話し終えた美樹が何回か頷いてから、振り返った。
「……うん、わかる」
そして携帯を耳から離し、美実に向かって差し出す。
「みーちゃん。さくちゃん、おはなし」
「え? 私?」
「うん」
多少不思議に思いながらも、美実はそれを受け取って耳に当てた。
「お電話、代わりました」
「美実さんと仰いましたよね? 美樹ちゃんの話の、大体の所は分かりました。恐らく、美実さんのお見合い相手の事について、美子さん達の間で意見の相違があって、それがエスカレートして夫婦喧嘩になってしまったんでしょうね」
「あれで分かるんですか!?」
さらりと要点を纏めて言われた為、美実は本気で驚愕した。
(何、この人凄い! 美子姉さんったら、超能力者と知り合い!?)
思わず埒もない事を考えてしまった美実だったが、その驚き具合が電話越しにも伝わったのか、桜が笑いを堪える口調で言葉を継いだ。
「種明かしをすると、美子さんから美実さんの話を聞いて、あなたに見合い相手を紹介して欲しいと、私が主人に頼んだの。だからあなたのお見合い相手の事も、前々から知っているのよ」
「ああ、そういう事でしたか」
(良かった。変な事を口走らないで)
話を聞いた美実が、心底安堵していると、桜がおかしそうに話を続ける。
「可哀想に美樹ちゃん、相当びっくりしたみたいね」
「ええ。涙目で部屋に来られて、私も驚きました」
「でも逆に言えば美子さん達は、今まで喧嘩らしい喧嘩をしてこなかったって事でしょう? 私なんかしょっちゅう主人を怒鳴りつけているから、もう家の者は、夫婦喧嘩位では見向きもしなくなってるわ」
「はぁ……」
どうにもコメントに困る事を言われて、美実は曖昧に返事をしながら、思わず考え込む。
(う~ん、この人、美子姉さんとはまた違った意味で、豪傑なのかしら? それで年が離れた類友とか?)
するとここで、桜が落ち着き払った口調で提案してくる。
「今回はけしかけた私達にも責任の一端はあるし、あまりムキにならない様に、今晩中に美子さんに言っておくわ。お義兄さんの方には、主人からピシッと言って貰いますから、安心して頂戴」
「そうして頂けると助かります。宜しくお願いします」
心から安堵しながら頭を下げた美実は、思わず真顔になって美樹を見下ろした。
(うん、声の感じだとかなり年配って感じがするし、年上の人から諫めて貰った方が良いわよね。……って、まさか美樹ちゃん、そこまで考えて加積さんに電話したの?)
先程とは違った意味で美実が驚愕していると、桜が穏やかに頼んできた。
「それでは美樹ちゃんに、もう一度代わって貰えるかしら?」
「はい、分かりました」
そこで美樹に向かって、携帯を差し出す。
「美樹ちゃん、桜さんが、またお話ししたいって」
「うん。……さくちゃん? なぁに?」
そして美実は、なにやら話している美樹を見るとも無しに眺めていたが、ふと引っ掛かりを覚えた。
(あれ? そういえば『加積桜』って名前、以前、どこかで聞いた事があるような……。どこでだっけ?)
美子が結婚前に彼女にちょっかいを出された時、名前が出ていたのをすっかり忘れていた美実は、どうしても思い出せずに軽く顔を顰めた。
「……うん。だいじょーぶ。おやすみです」
ぺこりと頭を下げて携帯を耳から離した美樹は、どうやら話し終えたらしく、美実に向かって携帯電話を差し出す。
「みーちゃん、ありがと」
「話はもう良いのね?」
「うん」
そして携帯を受け渡ししたところで、ドアを軽くノックしてから、美子が現れた。
「美樹、そろそろお風呂に入るわよ?」
「あの、美子姉さん。お義兄さんは?」
姉の顔色を窺いながら美実は慎重に尋ねてみたが、美子は全く表情を変えずに、素っ気なく口にしたのみだった。
「さあ……。知らないわ。ほら、美樹。行くわよ?」
「うん、おやすみです」
「おやすみなさい」
神妙に挨拶した美樹に、美実は強張った笑顔で小さく手を振った。そして二人が廊下に出てから、深々と溜め息を吐く。
(うわぁ……、あれは相当怒ってる。ちょっと他人に意見して貰った位で、本当にどうにかなるのかしら?)
不安しか覚えなかった美実だったが、現時点では自分にできる事が無いのもきちんと理解していた為、なるべく早く解決するように亡き母に頼んでおこうと、仏間に向かって歩き出した。
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