美実との結婚と出産に関して、周囲を巻き込んで大揉めしてから早五年。
淳志の下に娘の淳実も生まれて、夫婦揃って多忙を極めていた淳だったが、ある日の夕方、美実から電話がかかってきた。
「あっ、淳ぃっ! でっ、電話……、さっき、きてぇぇっ! うぇぇっ……」
応答するなり、涙声で訴えられ、さすがに淳は面食らいながら、電話越しに声をかけた。
「はぁ? 美実、いきなりどうした。ちょっと落ち着け」
「かっ、加積さんっ! お別れ、したいなら……、うちに、いらっしゃいって……、桜さんがっ!」
「そうか……」
なんとか言うだけ言って、美実が電話口で泣いている為、淳は無意識に頷いた。そして少し考え込んでから、冷静に言い聞かせる。
「構わないから、淳志と淳実を連れて屋敷に行って来い。ただし、自分で運転して行くなよ? タクシーを呼べ。分かったな? 夕飯の準備は良いから」
「うん、行って来ます!」
泣きながらも力強く返事をして美実は通話を終わらせ、淳志もスマホを耳から離して、憮然とした顔付きで手の中のそれを見下ろした。
「……思ったより、随分早いじゃないか。殺しても死なない様な顔してやがったのに」
幾分寂しそうに呟いた淳は、すぐに顔を引き締めて歩き出した。
私用電話だと分かっていたので廊下に出ていたのだが、自分の席には戻らずに、そのまま所長室へと向かう。
「失礼します。所長、今、ちょっと宜しいでしょうか?」
「ああ、構わないよ、小早川君。どうかしたのか?」
ちょうど部屋にいた所長の榊に向かって淳は進み、机の前で落ち着き払って告げた。
「先程、妻から連絡がありました。加積康二郎氏が危篤だそうです」
「……そうか。それで?」
直接間接に因縁があった相手の名前を耳にしても、榊は穏やかな口調で問い返した。それで淳も、事務的に話を続ける。
「実は妻は、加積氏の許可を貰って彼の自伝を書いておりまして。ただ彼の名前で売るのでは無く、ある程度自力で名を売って、それなりの文学賞を受賞したら出版する事になっていました」
それを聞いた榊は、ちょっと考え込んでから指摘してきた。
「そう言えば奥さんは今年、吉崎文学賞を受賞していなかったか? 傷害事件の加害者家族と被害者家族の葛藤と、心情を細やかに書いた作品で、内容が内容だけに君が監修したとか実際に書いたのではと、馬鹿な記者が何人か、取材に来ていただろう?」
「はい。その節は、ご迷惑おかけしました。それでタイミング良くと言うか悪くと言うか、その加積氏の自伝が来月出版の運びになっていますので、また事務所にご迷惑をおかけする事になるかもしれません」
そう言って深く頭を下げた淳を見て、榊は納得して頷いた。
「表舞台に出なくなって久しいとは言え、亡くなったらマスコミも取り上げるだろう。そのタイミングで売り出したら、宣伝効果は抜群だろうが、逆に色々叩かれそうだな」
「こちらはそのつもりが無くとも『加積氏の死去に合わせた、えげつない売り方だ』と罵倒されたり、『作者は加積の愛人だから書かせて貰ったんだろう』と、邪推される可能性も考えています」
「それは見当外れの誹謗中傷だろう。まともに相手にするな」
「そのつもりですが、事務所にご迷惑をおかけする可能性がある以上、所長には早めにご報告しておこうと思いました」
そこで再度一礼した淳に向かって、榊は断言した。
「分かった。万が一こちらに問い合わせや取材申し込みがあった場合は、規定に従って対処する事を、事務所内の全員に徹底させる」
「よろしくお願いします。それでは失礼します」
「ああ。ところで小早川君。葬儀には出るのか?」
その問いに、淳は一瞬動きを止めてから、困ったように笑った。
「なんとなくあの爺さんは、派手派手しい葬式などさせない気がしますし、うっかり顔を出そうものなら、夫人に『そんなに暇で生活費をちゃんと入れているのかしら?』と嫌みを言われそうです。妻と子供達だけ出席させれば、夫人にも文句は言われないでしょう」
「そうか」
そして苦笑いの榊に見送られ、淳は再び廊下を歩き出した。
「二ヶ月前に『原稿全てにきちんと目を通して貰った』と言っていたし、ギリギリ間に合ったな……」
そんな事を誰に言うともなしに淳が呟いていると、冬の早い日没で既に窓の外が暗くなっているのに気が付いた淳は、足を止めて窓に映り込んだ自分の顔を凝視した。
「心配しなくても、俺の家族は俺がしっかり守る。……だから化けて出たりしないで、成仏しろよ?」
そんな自分なりの、加積を送る言葉を呟いてから、淳は中断していた仕事を再開するべく、自分の机に戻って行った。
(完)
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