挨拶を済ませた後、車に乗り込み、美実のかかりつけの産婦人科にやって来た二人だったが、受付を済ませて待合室の椅子に落ち着いたところで、唐突に美実が言い出した。
「すみません、菅沼さん。妊婦健診にまで同行して貰いまして」
その謝罪の言葉に、真紀が少々大袈裟に手を振りながら応じる。
「とんでもない。妊婦健診は大事です。それに寧ろ、私的に願ったり叶ったりなので、そんな変な遠慮はなさらないで下さい」
「どうしてですか?」
予想外の反応に、美実が驚いた表情になった為、真紀が説明を続ける。
「こういう場所だと、どうしても男性は浮きますから。本当は藤宮様には、私なんか足下にも及ばないベテランの先輩方が付くべきなんですが、場所が場所だけに入社四年目の私が抜擢されたんです。最上クラスの特Sの護衛任務なんて、初めてですよ」
「そうなんですか」
「あ、でも勿論、仕事はきちんとこなしますので、ご安心下さい!」
不安にさせたかと真紀は慌てて弁解したが、それを見た美実は少し困ったように小さく笑った。
「菅沼さんの事は、信頼しています。今、ちょっと変な顔をしたのは、私がそんな特別待遇を受ける程の人間では無いのにと、思っただけですから」
「藤宮様?」
今度は真紀が当惑した表情になった為、美実は少し考えてから、徐に口を開いた。
「菅沼さんは……、私の職業についてはご存知ですか?」
「ええと……、BLレーベルの執筆をしていらっしゃるとか」
「それが、どんな傾向なのかは?」
「……不勉強で、申し訳ありません。ジャンルとしては耳に入れた事はありますが、実際に読んでみた事は皆無でして」
申し訳無さそうに、正直に頭を下げた彼女を、美実は宥めた。
「いいんです。確かに特殊な分野である事は間違いないですし、もっとあからさまに忌避される事だってありますから。でも自分で書いた物に責任は持っているつもりですし、自分の仕事を恥じてもいません」
「そうですか。でも、それは大事ですよね」
「でも……、淳のお母さんにしてみれば、到底我慢できなかったみたいで……」
そこで真紀が恐縮気味に、口を挟んだ。
「あの……、『淳』ってどなたの事でしょうか?」
「あ、すみません。この子の父親です」
「そうでしたか。それでご結婚を反対されているとか?」
自分の腹部を指差しながら美実が説明した内容を聞いて、真紀が納得したように頷いた。すると美実が、少々気落ちした風情で話を続ける。
「結婚自体は、淳は『実家の事は気にしなくて良い』と言ってくれたし、当面入籍はしないで事実婚の形にする事にしましたが、それで淳とお母さんの間が相当険悪になったみたいで。はっきりとは言わないんだけど」
「それは仕方ないと思いますし、その淳さんがちゃんとお母さんに刃向かう意思表示してくれた事は、良かったと思いますよ? 世の中、母親の言いなりな、ふざけたマザコン野郎がはびこってますから」
「それは、そうなんだけど……」
「他にも何か?」
取り敢えず無難なコメントをしてみた真紀だったが、美実は浮かない顔のままだった。そして、何かを思い切ったように話し出す。
「淳ってね、自分勝手でひねくれている様に見えて、情に篤くて結構面倒見が良いのよ。これは大学時代からの友人の、義兄も言っていた事なんだけど」
「どんな事をですか?」
素知らぬ顔で尋ねた真紀だったが、内心では少々焦っていた。
(ええと……、この場合藤宮様の義兄って事は、社長の事よね? 藤宮様の子供の父親が社長の友人だなんて、益々下手な事はできないわ。それに公社と会長社長夫婦の関わりは、ご家族を含めて極力外に漏らさない事になってるし、迂闊な事は言えないし)
そして微妙に真紀が緊張する中、美実が冷静に話し出した。
「入学直後に、義兄が淳に声をかけられたんですって。『お前、このままだと絶対将来ろくでもない犯罪者になるから、俺のダチになれ』って」
「あの……、見ず知らずの人間にかける第一声としてはどうかと思う以前に、どうしてろくでもない犯罪者予備軍を、好き好んで友達にしたがるんでしょうか?」
最後まで黙って話を聞く筈が、思わず突っ込みを入れてしまった真紀に対し、美実は力強く頷いた。
「やっぱり誰でもそう思うわよね? 義兄も呆れて同様の事を問い返したらしいの。そうしたら『俺は弁護士志望だ。だから在学中にお前を更正させれば、それだけで社会に貢献できるし、俺の想像通り稀代の犯罪者になったとしても、デカいヤマの被告代理人になれば手っ取り早く名前が売れるし、お前の周りに発生する事確実の多数の被害者に売り込んで、原告代理人になっても良い。どのみち、将来俺が食いっぱぐれる心配は無くなる』って、実に良い笑顔で断言されたとか」
「藤宮様。悪い事は言いません。事実婚でも止めましょう」
そこで思わず真顔で進言してしまった真紀を、美実は笑いながら宥めた。
「大丈夫ですから。淳なりに、義兄に気を遣った結果の物言いだと思いますし」
「どこをどう気遣ったのか、さっぱり分かりませんが……」
「それで『ウザくて突っぱねたのにしつこく絡んできて、いつの間にかつるむ様になったが、あいつのお陰で本当にあと一歩、足を踏み外さなくて済んだ』と義兄が言っていました」
「お子さんの父親が、相当お節介な人物らしい事は分かりました……」
(逆に言うと本当にヤバい所の一歩手前まで、社長と一緒に色々やらかした人とも言えるわよね。社長もそうだけど、お近づきになりたくないタイプだわ)
どこか遠い目をしながら真紀が結論付たが、美実の話は更に続いた。
「その他にも、これまでに、良く家族の話を聞いていたんです」
「実家の話、ですか?」
「実家と言うか、家業の話と言った方が良いかも。淳の実家は、代々旅館を経営しているんです」
「それはなかなか、大変そうですね」
「ええ。土日祝日なんか無いも同然だし、昔からの従業員に交じって、淳も子供の頃から家の手伝いをさせられていたらしくて」
「そうでしょうね」
真紀はサービス業の大変さを、漠然と認識しているレベルで想像してみたが、美実も真顔で頷いた。
「布団の上げ下ろしとか荷物運びとか、お茶出しや厨房の手伝いまでやっていたみたいで。本当に、家事全般を含めた身の回りの事が素早くできるんです。下手すると、私より上手かも」
「それは凄いですね」
「だけど淳は、『それが嫌だった』とか『やりたくなかったから家を出た』とか、私に言った事は一度も無いんです。『実家の事を姉夫婦に任せきりで、申し訳ない』的な事を、ポロッと口にした事はありますが」
それに対して、真紀は控え目に意見を述べてみた。
「つまらない愚痴を、藤宮様に聞かせたく無かったとかですか?」
「勿論、それもあると思いますけど、淳には苦労して育てて貰ったって意識が、ちゃんとあると思うんです。冠婚葬祭には仕事をやりくりしてきちんと参加しているし、家族と婿入りしたお兄さんの誕生日には、欠かさずプレゼントを送っているし。お母さんとお姉さんのプレゼントに関して相談に乗った事もあるから、知っているんです」
そこまで聞いて、真紀はちょっと感心した表情になった。
「それは男の人にしては、少し珍しいかもしれませんね」
「それなのに、私が気に入らないって事で、お母さんと仲違いさせてしまったのが申し訳無くて。私の母は大学在学中に亡くなっているから、義理の母になる人とはできるだけ仲良くしたいと思っていたから、尚更……」
「藤宮様……」
咄嗟に慰める言葉が思い浮かばず、言葉を濁した真紀に、美実が我に返ったように明るい口調で言い出した。
「気にしないで下さい。お母さんが私に対して、反感を持つのは仕方がないです。今の仕事を止めるつもりも無いですし。でも……、別のジャンルで本を書いて、それが世間で認められたら、ひょっとしたら淳のお母さんも、淳に対して態度を軟化させくれるかなって思って」
「え?」
予想外の方向に話が流れた為、真紀が戸惑っていると、美実がそのままの勢いで話を続けた。
「そうは言っても、すぐに純文学とかは書けないし、どうしようかと悩んでいた所で、偶然、加積さんと遭遇して。一目見てビビッと感じたの。これまで感じた事の無い、インスピレーションを! この人の事を書いてみたいって!」
「藤宮様……」
勢い込んで語る美実に、真紀が呆気に取られていると、ここで美実は急に気落ちした風情になって言い出した。
「だけど……、実際加積さんがどんな人かは良く分からないし、姉の知り合いってだけで『あなたの事を書かせて下さい』なんて厚かましい事なんか言えないと思っていたら、あのお屋敷に滞在中は、全面的に取材と執筆に協力するって言質が取れちゃったでしょう? それに便乗した挙げ句、最大限に加積さんを利用する形になってしまったのに、そんな私が特S待遇を受けるなんて、本当に申し訳なく思っているんです……」
ここで漸く、今までの話が冒頭の美実の発言に繋がったと理解できた真紀は、少々興奮気味に、両手で美実の手を取りながら訴えた。
「何を言ってるんですか、藤宮様! 私、今、目一杯感動しました!」
「え? 今の話で、どうして感動するんですか?」
本気で戸惑っている彼女に対して、真紀の主張は続いた。
「だって相手の母親から自分の仕事にケチを付けられた上、邪険にされたのに、それを逆恨みするどころか、親子の仲を修復させる手段になれば良いと思って、なりふり構わず加積様の本を書く事にしたんですよね?」
「ええ。ですから加積さんや菅沼さん達には、かなりご迷惑をおかけしていると思って」
「迷惑だなんてとんでもない! 自分の名声よりも、相手の親子関係を思いやる、藤宮様のそのお心に感動しました! もう何でも言いつけて下さい。全力でお手伝いしますから。それから、私の事は真紀と名前で呼んで下さって結構ですし!」
そんな事を満面の笑顔で申し出られた美実は、まだ幾分困惑しながらも、嬉しそうに頷いた。
「ええと……、それじゃあ真紀さん。宜しくお願いします。それなら私の事も、美実と名前で呼んで下さって構いませんよ?」
「分かりました。じゃあ美実さん、改めて宜しくお願いします」
「はい。なんだか嬉しいです。卒業してからは新しくできる友人は、仕事絡みの人ばかりでしたから」
「私もそうですね。でも職場は男社会ですから、余計に新しい友人ができにくくて」
「そういえば真紀さんの職場って、結構特殊ですしね。守秘義務に関わる事以外で、少し話を聞かせて貰えませんか?」
「支障の無い範囲でしたら、幾らでも」
「良かった」
そして思わぬ友人関係樹立で、楽しげに会話しながら盛り上がっていると、少しして待合室に美実の名前が響いた。
「藤宮美実様、三番診察室にお入り下さい」
「それじゃあ、ちょっと行って来ます」
「はい、お待ちしてます」
笑顔で断りを入れ、立ち上がった美実を見送った真紀は、診察室のドアを眺めながらしみじみと考えた。
(うん、仕事熱心な上、相手の家族関係にまで気を配ってあげるなんて、性格の良い人じゃない。ああいう人に付く事になって良かった。この際、全力でフォローしよう!)
その真紀の決意は固く、その日から早速実行する事となった。
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