その日、淳は自宅マンションに帰り着いた瞬間、異常を察知した。
「……何だ?」
玄関に紅いハイヒールが並べて脱いであるのを見て、淳は最初訝しげに考え込み、次いでその顔に怒りの表情を浮かべる。
(鍵はかかっていたが……、ピッキングとかで空き巣が入り込んだのか? わざわざ靴を脱いで上がり込む空き巣なんてのは聞いた事が無いが、しかも女だと? 随分とふざけた真似をしてくれるじゃないか)
そして油断せずに静かに上がり込み、乱闘になった時に邪魔にならない様に上がり口に鞄を放置して、物音を立てずに慎重に奥へと向かう。
(こっちは生憎と、機嫌が悪いんだ。さっさと叩きのめして、警察に突き出すか)
物騒な事を考えながらも慎重に少しずつドアを開けて、リビングの中を覗き込んだ淳は、すぐに拍子抜けした顔になった。
(どこだ? 金目の物はリビングなんだが、居ないとなると、まさか図々しく昼寝でもして、そのままこの時間まで寝ているんじゃあるまいな?)
一応トイレとキッチンを覗いて、誰もいない事を確認した淳は、迷わず寝室のドアノブに手をかけた。そして勢い良くドアを押し開け、中に居る筈の不法侵入者に向かって、大声で威嚇しながら踏み込む。
「おい! とっとと出て来い!! 隠れても無駄だぞ!!」
「あ、お帰りなさ~い。や~ん、こんなにイイ男だったなんて、嬉しい誤算! これからはうちの店をご贔屓にねっ!」
「……はぁ?」
隠れるどころか堂々と淳のベットに座り、スマホを操作していた二十代と思われる女性は、淳の恫喝で顔を上げ、喜色満面で挨拶してきた。しかし愛想を振り撒いてきた女の姿を見て、淳は状況判断が追いつかずに呆気に取られる。
「だけど随分遅かったじゃない。待ちくたびれちゃったわよ。さっさとしましょ? 先にお風呂に入って来る? 勝手に使わせて貰ったから、沸いてるわよ?」
多少拗ねた様に言いながら浴室の方を指さしてきた、ラベンダー色のハーフオープンブラとダブルラインオープンタイプのTバックしか身に着けていない彼女をじっくりと眺めた淳は、最初に頭痛を覚え、次いで激しい怒りに駆られた。
「貴様……、誰の差し金で来やがった……」
「は? 店長に決まってるでしょ?」
「違う! 誰が依頼人だって言ってるんだ!?」
「何言ってるのよ、あなたじゃない。ここの鍵を付けて、気前良く全額現金で送ってきたくせに」
怪訝な顔をしながらも、平然と言い返してきた相手に、淳は盛大に歯軋りしてから告げた。
「……俺は頼んでいない」
「あら、そうなの。でも報酬前払いだから、誰が依頼人かなんてどうでも良いわ。金額を上乗せしてくれた分、サービスしてあげるから」
「いらん! とっとと出ていけ!!」
「はぁ!? ちょっと! 何するのよ!!」
ベッドから下りて抱きつこうとしてきた彼女の腕を、淳は怒りにまかせて乱暴に掴み、そのまま玄関に向かって歩き出した。
「ちょっと! 痛いじゃない! 離してったら!」
問答無用で彼女を引きずって玄関までやって来た淳は、素早くロックを外してドアを開けると、その隙間から彼女を通路に突き飛ばす様にして押し出した。
「金輪際、ここに近付くな! 『店長』とやらにも、そう言っとけ!!」
そう吐き捨てた淳は素早く玄関のドアを閉めたが、途端に外からそれを力一杯叩きながら、女が怒鳴ってくる。
「ちょっと何するの!! 開けなさいよ!!」
「五月蠅いぞ! そんなに警察を呼ばれたいか! 不法侵入で訴えるぞ!?」
「私の服と荷物を返してよ!! このままだと、嫌でも隣近所から警察を呼ばれるわよ!! 赤っ恥かきたいの!?」
それを聞いた淳はすぐ外に居る女の格好を思い出し、盛大に舌打ちしてから怒鳴り返した。
「そのままそこで待ってろ!」
「ちょっと!!」
ドンドンと叩きながら悪態を吐いている相手を無視し、淳は寝室へと戻った。そして彼女が脱いだ衣類をかき集め、バッグの中を改めて自宅の鍵と同型の鍵を見つけると、それだけは取り出して床に放り投げ、衣類とバッグを鷲掴みにして再び玄関へと戻る。
「鍵は抜いておいたからな。二度と来るなよ?」
玄関のドアを開けて衣類とバッグを放り出し、ハイヒールを蹴り出しながら淳が警告の言葉を発すると、女は憤怒の形相で素足でドアを蹴りつけながら悪態を吐いた。
「誰が来るか! このろくでなし!!」
それを半ば無視してドアを閉めると、少しの間外から呪詛の声が伝わって来たが、すぐに静かになる。それで淳は漸く安堵したが、すぐにそれまで以上の猛烈な怒りが湧き上がった。
「あの野郎……。女房の言いなりになるにも程があるぞ。俺に適当に女をあてがっておけば、すぐに手を出すとでも思ってるのか」
勢いに任せて電話してみたものの、相変わらず秀明は着信拒否の設定のままにしているらしく通じず、淳はそれから暫く口汚く秀明を罵ってから眠りに付いた。
※※※
「はい、藤宮です」
仕事中、呼び出し音が鳴った内線の受話器を取り上げた秀明は、予想外の事を聞かされた。
「藤宮課長。受付ですが、今こちらに榊総合弁護士事務所の小早川様がいらっしゃいまして、藤宮課長にお会いしたいとの事です。お約束は無いそうですが、どう致しましょうか?」
「分かりました。すぐにそちらに向かいます。そのまま待つ様に伝えて下さい」
「畏まりました」
一瞬戸惑ったものの、了解の返事をして通話を終わらせた秀明は、すぐに受話器を戻して立ち上がった。そして近くの部下に少し席を外す旨を告げて、一階エントランスロビーに向かって歩き出す。
(淳の奴、一体何だ? これまで直接職場に押しかけた事なんか、一度も無かったくせに。あいつらしくないな)
不思議に思いながら一階まで下りて受付の前まで歩いて行くと、傍目にはいつも通り落ち着き払って佇んでいた淳が、自分の名刺を取り出して差し出しながら、秀明に軽く頭を下げてきた。
「初めてお目にかかります、藤宮さん。私はこういう者です」
「これはご丁寧に。藤宮秀明です。向こうで話を伺いますので、どうぞこちらに」
「はい。お時間を頂きまして、申し訳ありません」
秀明が苦笑しながらそれを受け取り、歓談用に幾つか設置されている窓際のソファーを手で示しながら促すと、淳は素直に彼に付いて歩き出した。
「それで? 好奇心旺盛な受付嬢の手前、あんな初対面を装う小芝居をしてまで、職場に押し掛けてきた理由は何だ? 確かに家に押しかけて来ても美子の手前、出る気は皆無だが、あまり面白い話では無さそうだな」
ソファーに向かい合って座るなり、未だに苦笑気味の秀明が尋ねると、対する淳の表情は平静そのものだったが、目つきと口調だけは冷え切っていた。
「そうだな。俺がお前の浮気相手の代理人で、別れ話のもつれで職場に押しかけて来たなんて噂が社内で流れたら、少しは面白くなるんだがな」
面と向かってそんな事を言われた瞬間、秀明は綺麗に笑いを収め、僅かに目を細めながら相手を恫喝する。
「お前……、真っ昼間から、俺に喧嘩を売りに来たのか?」
「ろくでもない事をしてきたのは、貴様の方だろうが」
「俺が何をしたと?」
「自分の胸に手を当てて聞いてみろ」
「……さっぱり分からん」
真顔で右手を胸に当てる動作をした秀明が困惑顔で応じると、淳は小さく舌打ちしてから、声を潜めて相手を罵倒し始めた。
「お前、昨日俺の部屋に、女を送り込んだだろうが! 合鍵付きで!」
「はぁ?」
本気で戸惑った顔になった秀明だったが、淳は忌々しそうに話を続けた。
「この期に及んで、まだ惚ける気か! 俺の部屋の合鍵を持ってるのは、美実とお前だけだ。尤もお前の場合は、俺の断りなしにいつの間にか勝手に作って、勝手に俺の部屋を色々ヤバいブツの置き場にしてたんだがな!」
「おい、ちょっと待て、淳」
「しかも事務所の所長宛てに、山ほど俺の縁談を持ちかけやがって。仲介者の名前を聞いて、俺はてっきりあの三田の妖怪の差し金かと思っていたが」
「だから、落ち着けと言っている! どちらも俺の指示じゃないし、じじいに依頼してもいない!」
きっぱりと断言した秀明の顔を、淳は疑いの目でじっくりと眺めてから、慎重に確認を入れた。
「……本当に、お前は関わってないのか?」
「ああ」
「美子さんの指示でもか?」
まだ疑わしそうに淳が尋ねると、秀明は如何にも気分を害した様に言い返した。
「『そうして』と言われたら確実に実行するが、美子は俺と違って真っ当な常識人だからな。幾ら怒りが突き抜けていても、そんなくだらん嫌がらせなんかしたり、させたりするわけが無い。あいつをあまり見くびるな」
「……すまん」
「それは良い。それで?」
すぐに非を認めて謝ってきた悪友に苦笑いしながら、秀明は詳細について尋ねてみた。それに応じて淳が、疲れた様に話し出す。
「昨日帰宅したら、合鍵を使って知らない女が室内に入り込んでいて、下着姿でベッドに居た。そのまま即行で叩き出したが。鍵を持っていたから、てっきりお前の差し金かと思ったんだが……」
淳が苦虫を噛み潰した様な顔で語った内容を聞いて、秀明は皮肉っぽく顔を歪めた。
「それはそれは……、災難だったな。だが、あのじじいの手下だったら、どうにかして鍵を入手する位はするんじゃないか?」
「良く考えてみれば、そうだな」
「それと……、帰ったら寝室に隠しカメラや集音マイクが設置されていないか、確認した方が良いな」
「え?」
「お前が女とよろしくやってる画像や音声が撮れて、それが万が一、美子と美実ちゃんに渡っていたら、一体どうなったんだろうな?」
いきなり何を言い出すのかと唖然とした淳だったが、続けられた秀明の推測を聞いて、盛大に顔を引き攣らせた。
「……そこまでやるか?」
「俺ならやる」
「分かった……。探してみる」
ろくでもない事を真顔で即答された淳は、うんざりした顔になって項垂れた。それを見た秀明は、さすがに憐憫の情を覚える。
「毎日帰宅する度に緊張を強いられるのは酷だろうし、飲食物に変な物を盛られて前後不覚になった所や寝込みを襲われるのは気の毒だから、俺からじじいの方には控える様に言っておく」
「それは助かるが……、大丈夫か?」
事も無げに物騒な事を口にした友人に、淳が幾分心配そうに尋ねると、秀明は苦笑いで応じた。
「俺が言っても無理なら、美子に頼む。美子は明らかな犯罪行為を推奨したりしないし、控え目に意見してくれるだろう。美子にだったら、頭を下げるのに抵抗は無いしな」
「仕事中に押しかけて、本当に悪かった。面倒かけてすまんが頼む」
どうやら勘違いで仕事中に怒鳴り込んだと分かった淳は、秀明に向かって深々と頭を下げた。対する秀明は、気を悪くした素振りを見せずに頷いた上で、軽く断りを入れる。
「それ位は構わないが、さっきの事務所に持ち込まれたって言う縁談云々まで撤回するのは無理だぞ? 善意でやっていると言われたらそれまでだし、美子もお前がさっさと他の女と纏まれば良いと思っているだろうしな」
「分かってる。それは自分で何とかする」
「そうか」
それで互いに話は済んだと察した二人は、同時に無言で立ち上がった。
「それでは藤宮さん。貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
「いえ、気をつけてお帰り下さい」
軽く一礼した淳に会釈で応じた秀明は、立ち去る彼の背中を眺めながら「合鍵か……」と、自分にだけ聞こえる声量で呟いた。
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