裏腹なリアリスト

篠原皐月
篠原皐月

35.ハイスペックモブキャラ

公開日時: 2021年6月6日(日) 12:10
文字数:6,536

「戻りました」

 職場に戻った淳が、入口横の受付に座っている各務にいつも通り挨拶をすると、予想外に常とは違う言葉が返ってきた。


「お帰りなさい、小早川先生。早速ですが、一件ご報告があります」

「何でしょう?」

 不思議そうに問い返した淳に、各務は手慣れた様子で手元のファイルを捲りながら話し始めた。


「外に出ておられる間に、先生をご指名しての依頼がありました。電話ではなく、本人がこちらに出向いて来られたんです」

「まず電話での問い合わせや依頼では無くて、本人がいきなりですか?」

「はい、そうです」

 意外な話を耳にした淳は驚いた顔になったが、各務はベテランらしい落ち着きを見せながら、冷静に言葉を継いだ。


「そういう事は皆無ではありませんが、確かに珍しいですね。先生、小野塚和真という名前に心当たりはありますか?」

「いえ、全く」

「そうですか……。『偶々仕事の関係で近くまで来たので、今日は顔を出しながら相談の申し込みだけして帰るつもりでした』と仰ったので、こちらの申し込み書への記入だけお願いしました」

「そうですか。ありがとうございます」

 ファイルから一枚の用紙を取り出した各務がそれを差し出してきた為、淳は礼を述べて受け取った。すると彼女が説明を付け加える。


「『どなたかの紹介ですか?』と尋ねてもはぐらかされまして。小早川先生が通常は企業法務全般、知的財産・特許権、M&A、破産・民事再生・私的整理を含む倒産事件、及び一般民事を担当している事を説明した上で、『該当する事案でなければ、他の担当者をご紹介します』とお話ししたのですが、『小早川先生にしか関わりの無い事案ですので』と仰いました」

「私だけですか?」

「はい」

 自分と同様の困惑顔の各務を見ながら、淳はその場で自問自答した。


(どういう事だ? 本当に、見覚えの無い名前なんだが。年は……、俺より何歳か若いだけで、勤務先が……)

 何気なく用紙に目を落とした淳は、そこに記載された内容を目にして、思わず持っていた鞄を取り落とした。


「はぁあ!?」

「先生、どうかされました?」

 鞄から手を離すと同時に素っ頓狂な声を上げた淳に、各務は驚いた目を向けた。するとクリップで留められていた名刺に目を走らせていた淳は、まだ若干動揺しながらも言葉を返す。


「あ、いえ……、大した問題は……。すみません。なんとなく分かりました。おそらく、私の知り合いの関係者です」

 相手の狼狽ぶりを不審に思いながらも、各務は年長者の余裕でそれ以上余計な事は口にせず、事務的に話を続けた。


「そうでしたか。それでは面談可能な日時を、先方に連絡して頂けますか? そちらに記載されているメールアドレスに、連絡を貰いたいそうです」

「分かりました。これは頂いていきます」

 そして辛うじて笑顔を取り繕った淳は、戻った挨拶を兼ねて上司に幾つかの報告を入れてから自分の机に戻った。その間も何とか内心の動揺を面に出さずにいたが、椅子に座った途端に冷や汗が出てくる。


(どうして俺を名指しして、桜査警公社の人間が乗り込んで来るんだ!? しかも一緒に入っていた名刺の肩書きの『調査部門部長補佐』って……。ひょっとして、結構上の幹部クラスじゃないのか? 生年月日を見ると俺とそう変わらない年の筈なんだが、どういう人間だ?)

 暫く頭の中で考えを巡らせた淳だったが、一人で考え込んでも始まらないと自分自身に言い聞かせ、現実的な行動に出た。


(とにかくスケジュールで空いている時間帯を探して、なるべく早く対処しないと。どう考えても、美実か美子さん絡みの用件しか思い浮かばないしな)

 そして淳は翌日以降のスケジュールを確認しながら、問題の人物に連絡を取るべく動きだした。


 ※※※


 秀明のコネを総動員して書き上げた次回作のプロットを、美実が出版社にFAXで送ってから数日。その反応を待っていた彼女に、ある夜担当編集者の木原から、興奮気味の電話がかかってきた。

「紫堂先生! 何なんですか、このプロットはっ!?」

「あ……、ええと、全部駄目でした?」

 開口一番、常には無い剣幕で叱りつけられる様に言われた美実が、恐る恐るお伺いを立ててみると、彼女の予想に反して歓喜の声が電話越しに響いた。


「何を言ってるんですか! 逆ですよ、逆!! もう、どれもこれも良くて、どれから書いて貰えれば良いのか! これですよ、これ! 私が紫堂先生に求めていた物は、これなんです!!」

「それなら良かったです。安心しました」

 大興奮の木原に呆気に取られてから、美実が苦笑混じりに返すと、ここで急に彼女が神妙な口調で言い出した。


「正直、心配してたんですよ。他の人と同じように、先生が妊娠・出産を期に、この仕事を辞めるんじゃ無いかと」

「そういう事をきっかけに、辞めちゃう人っているんですか?」

 美実が意外に思いながら問いかけると、溜め息を吐いた木原の声が聞こえてくる。


「結構いらっしゃるんですよ……。本人は続けるつもりでいても、結婚相手やその家族に直接間接に手を引く様に言われたとか、子供ができたからこういう物を書いている場合じゃないとか。実際私も、以前担当していた先生に言われた事がありますし」

「そうなんですか……」

 取り敢えず頷いておいた美実だったが、ふと良子が来た時の事を思い出した。


(仕事について説明しても、淳は何とも言って無かったけど、淳のお母さんは面と向かって、汚らわしいとか何とか言ってたものね……)

 そこで美実は少し落ち込んだが、そんな事とは知らない木原はそのまま話を続けた。


「それで紫堂先生の妊娠の話を聞いて、何やら事情がありそうだし、モチベーションが下がったりして仕事が続けるのが難しくなるんだろうかと思っていたら、編集者魂をそそられるプロットを、こんなにたくさんっ……」

「あの……、木原さん?」

 何やら涙声になってきたと思ったら、話の途中で声がしなくなった為、美実が慎重に声をかけてみると、先程までのしんみりした口調とは打って変わった、やる気満々の声が返ってきた。


「先生! これから色々大変だと思いますが、私、担当編集者として全力でサポートします! 頑張っていきましょう!!」

 その明るい声に、美実は思わず笑いを誘われた。


「私も全力で頑張ります。ご迷惑おかけするかとは思いますが、これからも宜しくお願いします」

「こちらこそ。こちらで構成や作品編成とかをもう少し考えますので、それから詳細について打ち合わせをしましょう。今日の所はこれで失礼します」

「はい、失礼します」

 最後は円満に会話を終わらせて、美実は満足そうに微笑んだ。


「全部クリアするとは思って無かったけど、嬉しい誤算よね。協力してくれた皆さんの為にも、頑張らなくっちゃ!」

 そして当のモデルにされた面々にとっては、傍迷惑極まりないやる気を漲らせた美実が一階へ下りると、廊下でばったり美恵と出くわした。


「あら、随分機嫌が良いわね」

「うん! 出版社の担当さんにFAXした次作の複数案が、どれも評価が高かったから」

「そう……」

「何?」

 何気なく声をかけてきただけかと思ったら、何やら言いたげな顔になった姉に、美実は訝しげな顔になった。すると美恵が、溜め息を吐いてから言い出す。


「なんだかね。小早川さんとのあれこれを考えたく無くて、無理に仕事に意識を向けて、詰め込んでる感じがするんだけど……。あんた、本当に大丈夫なの?」

 唐突にそんな事を言われた美実は、驚いて軽く目を見張り、次いで笑いながら美恵を宥めた。


「考え過ぎよ。そんな事無いって! 仕事は順調だし、波に乗ってるだけで!」

「それなら良いんだけど……。っ、あぁあぁっ! この状況で家を出る事になって、あんたの事がもの凄く心配なんだけど!?」

 美恵がそんな事を言い出しながら、いきなり両手で頭を抱えた為、美実は益々笑いながら姉の肩を叩いて言い聞かせた。


「私は本当に大丈夫だってば。それよりも自分の事を心配したら? 明日マンションに戻って、来週から職場復帰して、全面的に谷垣さんに家事や安曇ちゃんの事を任せるんでしょう? 産後三ヶ月での完全復帰、頑張ってね、社長様」

「なんかもう、自分に関わる事は完全に開き直ったと言うか、なるようにしかならないと達観したから」

「ははっ……、そうなんだ」

 そこで美恵は顔を上げ、妹に真顔で言い聞かせた。


「とにかく、美子姉さんは未だに小早川さんサイドに対して、深く静かに怒りを内包しているし、何か困った事があったら、いつでも連絡してきなさい。力になれるとは限らないけど、愚痴位だったらいつでも聞いてあげるから」

「うん、ありがとう。その時はお願いね」

 正直に、姉には刃向かえないが、愚痴は聞いてあげると申し出た美恵に、美実は素直に感謝してから別れて歩き出した。


(何か……、美恵姉さんって、結婚してから性格が丸くなった気がする。実生活で頼りにならなくても、谷垣さんの影響って結構あるのかもね。かなり型破りだけど、ああいう関係ってのも良いなぁ……)

 そんな事をしみじみと考えながら当初の目的地である台所に向かうと、そこにいた美子から声をかけられた。


「あら、ちょうど良かったわ、美実。今から呼びに行こうかと思っていたの」

「何か用があったの?」

「ええ。話があるから、応接間に行っててくれない? お茶を飲みに来たのなら、向こうに持って行くから」

「ありがとう。分かったわ」

 美子の手元にあった急須や湯飲み茶碗を見て、美実はちょうど良かったと思いながら再び廊下に出て歩き出した。


(何かしら? ここでの立ち話じゃなくて、わざわざ応接間でしなくちゃいけない話なんて)

 不思議に思いながら応接間のドアを開けると、更に予想外の事が待ち構えていた。


「あれ? お父さんとお義兄さんまで?」

「ああ。そちらに座れ」

「やあ、ちょっと話があってね」

 憮然とした表情の昌典に向かい側のソファーを指し示された美実は、大人しくそこに座った。そして横の一人掛けのソファーに座っている秀明に問いかける視線を送ったが、全く読めない悠然とした微笑だけが返ってくる。

 そうこうしているうちに、人数分のお茶を入れた美子がやって来て、皆にそれを配って昌典の隣に腰を下ろしてから、如何にも気が進まない風情で口を開いた。


「その……、美実?」

「何?」

「あなたに、縁談があるのよ。一度、相手と顔を合わせてみない?」

 それを聞いた美実は、両手で湯飲みを持ったまま固まった。


「美子姉さん。悪いけど、今はそういう気分じゃ無いわ。それに、私のお腹には子供がいるのよ?」

「それが……。その……、ちょっと面倒な筋からの話で……。あなたが妊娠中って事も、先方はちゃんとご存知だし……」

「え?」

 そこでまじまじと美子を見返した美実は、意外な思いに駆られた。


(どういう事? 美子姉さんがこんなに言いよどむなんて珍しいし。しかもお父さんまで難しい顔をしてるなんて、一体誰からの話なの? 以前、美子姉さんに縁談が幾つも持ち込まれていた時だって、お父さんが角が立たない様に丁重に断りを入れていたのに。今回の私の縁談って、そんなに断り難い相手からの話なの?)

 そして美子はもとより昌典も沈黙している為、静まり返った室内で、美実はゆっくりと湯飲みの中のお茶を飲み干してから、落ち着き払って答えた。


「顔を合わせる位だったら良いわよ? そんなに変な人じゃ無いんでしょう?」

「ええ。写真を見る限り落ち着いて見える方だし、学歴も肩書きも至ってまともよ。……まとも過ぎて、逆にどうかと思う位だわ」

「美子姉さん、何か言った?」

「ううん、大した事じゃ無いのよ。気にしないで」

 何やら姉がぼそぼそと付け加えた内容を美実は問い質したが、美子は笑って誤魔化した。その為、美実は冷静に話を進める。


「じゃあ会ってみる事にして、一応写真とか釣書とかを見せて貰って良い?」

「ええ。これよ」

 そしてソファーの隅におかれていた大判の封筒を手渡された美実は、控え目に尋ねた。


「用件はこれだけ? それならお茶も飲んだし、部屋に戻って良い?」

「構わないわ。お互いの都合を摺り合わせて日時を決めるから、後で今週と来週の予定を教えて頂戴」

「分かったわ。それじゃあね」

 そして封筒を手にして立ち上がった美実は、そのまま廊下に出て自室に向かって歩き出した。


「お見合い、かぁ……。淳と付き合ってるのをお父さんも美子姉さんも知ってたから、今まで話を持ってこられた事なんて皆無だったし」

 そんな独り言を呟きながら階段を上った美実だったが、それを上りきる頃には、今回の降って湧いた縁談を前向きに捉えていた。


「もしかしたら、何か話のネタになるかも。何事も経験よね、うん。それに、私が妊娠中って知ってても構わないからって見合いする人って、どんな酔狂な人間なのかしら? ちょっと興味が湧いてきたわ」

 そして困惑と不安を好奇心で押し込んで、美実は自室へと戻って行ったが、そんな当人とは違って応接間に残った三人は、揃って難しい顔をしていた。


「意外ね……。あんな風に素直に話を受けるとは、正直思っていなかったわ」

 美子がそんな感想を口にすると、秀明が呆れ気味に指摘してくる。

「本心では、さほど興味はなさそうだったぞ? お前が困った顔をしていたから、受けなきゃ拙いと思ったんだろうが」

「確かに面倒な話だとは思ったけど、そんなに困った顔は」

「していたな」

「同感だ」

「…………」

 昌典が全面的に秀明の意見に同意した為、美子は憮然として黙り込んだ。すると今度は昌典が、如何にも疑わしげに秀明に問いかける。


「しかし、相手は本当に公社の幹部社員なのか? 見せて貰った見合い写真はいたって平凡と言うか、これと言った特徴の無い、典型的なサラリーマンと言った風情だったが……」

 しかしこの場で唯一本人と何度か顔を合わせ、多少なりとも相手の人となりを知っている秀明は、その台詞を聞いて小さく舌打ちし、険しい表情で義父に言い聞かせた。


「お義父さん……、見た目に騙されないで下さい。あいつは今三十二ですが、昨年信用調査部門の部長補佐に就任して信用調査部門の実質的なナンバー2です」

「とてもそんなバリバリ働く、有能な人には見えないけど。雑踏に紛れたら十秒で見失いそうだし、虫も殺せない様な顔に見えるもの」

 聞きようによってはかなり失礼に聞こえる美子の感想も、秀明は一刀両断した。


「甘いな、美子。決して悪目立ちしない、周囲に溶け込める、印象に残らない顔立ちだから、潜り込んで色々探り出すのにうってつけなんだろうが。こいつのせいでこれまでに一体何人が、公職追放や懲戒免職の憂き目にあったと思ってる」

「…………」

 真顔の秀明に美子と昌典は微妙過ぎる顔を見合わせ、そんな父娘を見ながら彼は淡々と説明を続けた。


「それに虫も殺さない様なその顔で、あいつはアメリカに語学留学中、何故か射撃やありとあらゆる格闘戦のレクチャーをみっちり受けて帰国している。入社した時に当然その腕を買われて防犯警備部門へ配置されかけたが、『他人がひた隠しにしている秘密を暴くのがゾクゾクして楽しい』との理由であっさり足蹴にした挙げ句、力ずくで信用調査部門に強引に席を作ったイカレ野郎だ。時々請われて奴が防犯警備部門の応援に出ると、『あいつの通った後はペンペン草も生えない』と、まことしやかに噂されている」

「……ある意味、お前と張るな」

「お義父さん。俺はあそこまで性格が破綻していません」

 思わず正直に感想を述べた昌典に、秀明が僅かに気分を害した様に言い返した。それを聞いた昌典が(お前が言うな)と内心で突っ込みを入れていると、同じ心境だったらしい美子が呆れ顔で口を挟んでくる。


「どっちもどっちでしょう。『他人の振り見て我が振り直せ』と言うわよね」

「美子。それが夫に向かって言う台詞か?」

「そんな事はどうでも良いけど。だけど本当に、加積さんはどうして美実の相手に、そんな人を紹介してきたのかしら?」

 抗議の言葉をあっさりと流された秀明は、面白く無さそうに素っ気なく言い放った。


「夫婦で面白がっているだけだろう」

「やっぱりそうかしら?」

「それ以外に何がある?」

 秀明に問い返された美子は何も言えず、昌典は娘に降りかかった災難に、思わず盛大な溜め息を吐いてしまった。


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